第14話 レクイエム
頭を上げないケイティたちと、じっと返答を待つ夫に、ミル夫人はとうとう頑なさを少し崩した。
「見ればいいのでしょう?見れば。何て大袈裟なのかしら」
「ありがとうございます……!」
ぱっと顔を上げたケイティは、眉をひそめながらもシャーリーを瞳に映すミル夫人の姿を見た。
そして夫人の瞳が見開かれる様も、はっきりと見てとった。
(ミル夫人は、シャーリーが喪服を着ていることを今やっと知ったのだわ)
ようやっと思いの一片が伝わった気がして、ケイティは小さく息を吐き出した。
けれど、見てもらうことが最終目的ではない。ハンカチを贈ること。シャーリーの気持ちをわかってもらうこと。そしてシャーリーを受け入れてもらうことが、本来の目的だ。
やっと自身を見て貰えたシャーリーはゆっくりと立ち上がると、可憐な花が風にそよぐように、美しい所作でミル夫人に挨拶をして見せた。
その顔は笑みの形だが、その裏に不安な気持ちが隠されていることをケイティは知っている。
「シャーリーは、自分の意思でこの喪服を着ています。それがどういう意味を持つか、わかりますね」
ケイティが問うと、途端にミル夫人の顔が険しくなる。半ば下げられていた扇子の向こうで、紅い唇が歪む様子が垣間見えた。
「喪服を着ているから、何だと言うの」
「えっ……?」
「人形のくせに……あの子の、ディアナの一番近くに居たくせに、涙の一粒も流さない。わたくしたち家族の悲しみなんて、まるでわかっていない。所詮人形に……わかってたまるものですか。大切な人を喪った、この胸の張り裂けそうな思いがわかってなるものですか!」
「イライザ、落ち着いて!」
突如形相を豹変させた夫人は、烈火の如く怒り、声を荒らげた。立ち上がったその体を押さえるように、ミル卿が慌てて肩を掴む。
「そんな服を着て、悲しむふりをして。それで何になるというの。涙を流してみなさい!本当に悲しんでいるというのなら、ディアナへの言葉のひとつも口にしてみなさい!人のふりをした心無い人形め!」
怒りに震える体で、ミル夫人は大音声でシャーリーを罵った。
シャーリーは息がつかえたような引きつった表情で夫人を見ている。瞳に映るのは、恐怖や絶望よりも、深い悲しみの色が濃かった。
胸元に抱いたハンカチの箱はぐしゃりと形を変え、やり場のない感情に項垂れている。
ケイティは唖然として、その様子を見やった。
何が引き金を引いて怒りを大きくしたのかわからないが、ミル夫人はそれまでが嘘のように怒りにうち震えている。
何もできず茫然自失とするケイティの耳朶に、ジョシュアの地を這うような声が滑り込んできた。
「夫人。貴女は間違っている」
彼は恐ろしいほどに冷静な表情と態度で、ミル夫人を見詰めていた。
「悲しんでいないのに、自ら喪服を着ますか?これほど苦しそうな表情をしますか?なぜ、彼女の表情も姿もまともに見ようとせず、そんなことが言えるのですか。お嬢さまが亡くなられて心を悼めているのはわかります。けれど、それは貴女だけの感情ではない。他のご家族も、そしてシャーリーも同じはずです。それがなぜわからないのですか」
淡々とした言葉だった。
眦と眉をつり上げ、今にも噛み付かんとする様子だったミル夫人は、微かに表情を変える。
「何が言いたいの?わたくしにとって、あの子は宝物だったわ。涙すら流さず、あの子の死に顔すら見ようともしなかったその人形とは違う。わたくしは、ディアナの母親よ。あの子にあんなにも可愛がられていたのに、悲しむことすらしないあの人形が、わたくしは心底憎い!」
それは慟哭だった。子を思う母の慟哭だ。けれどそれは真実をとらえず、虚しいまでに自分勝手な鋭い刃となって、ひとつの心を深く深く傷つけていた。
その事実に、ミル夫人は気づいていない。
娘を早くに喪ってしまった心の傷がそうさせたのは、誰の目から見ても明らかだった。
夫人は、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
(泣き顔が、シャーリーとよく似ている……)
涙を流さないシャーリーの泣き顔と、夫人のそれが重なって見える。
真実を伝えなければならない。その義務があると、ケイティは強く感じた。
「ミル夫人。どうか、気づいてください。確かに魔法人形は人のように話したり涙を流すことはできません。でも、心はあります。シャーリーは、お嬢さまの死で心をすり減らしています。苦しみ、悲しんでいます。誰かを強く思う気持ちに、人か人形かなんて関係ないんです」
ケイティの拙い言葉がどこまで伝わるかはわからない。でも、止めることはできなかった。
「魔法人形たちは、誰かの死を心から悼むことのできる優しい子たちなんです」
それは、あの日の魔法人形たちから、そしてシャーリーから、ひしひしと伝わってきたこと。
気づいて欲しい。伝わって欲しい。きちんと向き合えば、わかるはずだ。
更に言葉を重ねようとしたとき、シャーリーが突然駆け出し、ミル夫人を抱きしめた。
ケイティもジョシュアもミル卿も、その意外な行動に目を見開く。
夫人はシャーリーの腕を振り払おうとするが、シャーリーは抱きすくめて離そうとしない。
「止めてっ!触らないでちょうだい!」
ミル夫人がシャーリーをギロリと睨んだ時だった。夫人ははっとしたように動きを止めた。
抵抗をしなくなった夫人を、シャーリーはなおもぎゅうぎゅうと抱きしめ続ける。
ミル夫人は、自身よりも背の低いシャーリーを見下ろして、毒気を抜かれたような呆けた顔をした。
必死にしがみつくように体を寄せるシャーリーの顔を両手で丁寧に上げさせ、目と目を合わせた。
「あの子の泣き顔に、そっくりな顔をするのね……」
絞り出すような震えた涙声が、ぽつりとこぼれ落ちた。彼女の怒りが急速に萎んでいくのがわかる。
しんと静まった室内で、シャーリーは涙も泣き声も出さず、子供のようにわんわんと泣いてミル夫人を抱きしめていた。
それはまるで母娘のようで、ケイティは見ず知らずのディアナ嬢の姿を、シャーリーに見た気がした。
それはきっと、ミル夫人も同じだったのだろう。ゆっくりとゆっくりと、その表情が変わっていく。
「あなた……泣いているの?」
濡れてはいるが落ち着いた声音で、ミル夫人は泣き続けるシャーリーを見る。
もしかすると彼女は、ディアナ嬢が亡くなってからはじめて、きちんとシャーリーを見たのかもしれない。
「イライザ。葬儀の日、シャーリーがディアナの部屋で一人で泣いていたと私が言ったとき、君は信じなかったね。きっとショックで動けなかったのだろうと言っても聞く耳を持たなかった。けれど、今ならわかるだろう?彼女は、泣いているんだよ」
二人の側に寄り添うように立ったミル卿が、シャーリーの髪を撫で付けながら言った。
「君がディアナの死で、心の余裕を無くしているのは、わかっている。けれど、目を向けなくてはならないこと、蔑ろにしてはならないことも、あると思うんだ。きちんと見て欲しいと、私も彼らも、何度も君に伝えたはずだよ」
ミル卿の言葉に、夫人が息をのむのがわかった。
そして今一度シャーリーを見下ろし、途端に目を潤ませて顔を伏せた。
心に余裕があれば当たり前にできるはずのことでも、そうでなくなったとき、人は予想以上に不器用になる。
周りを見ることも、時に自分の心を知ることすらできなくなるのだ。
「君が傷ついていることは、痛いほどわかっているよ。私もディアナを喪った悼みを抱えて生活している。そしてそれは、シャーリーも同じだ。あれ程あの子の側に居たのだから」
ミル卿の優しい声も、心なしか震えていた。
「わたくし……ディアナが旦那さまにねだって魔法人形を買ってきたとき、ただの人形と変わらないと、何がそんなにも気に入ったのかと不思議でした」
おもむろに、ミル夫人が語りはじめた。それはこれまでの、彼女の心の内。
「けれど二人が距離を縮めていくうち、まるで姉妹のようになって、ディアナがよく笑うようになっていくうち。少しずつ考えを変えていきました。けれどあの子が死んでから……やはり人形にわたくしの気持ちがわかるはずもないと思いはじめて。わたくしはこんなにも死を悼んでいるのにと思うと、段々と許せなくなってしまったの。ディアナの姿はどこにも見当たらなくなってしまったのに、この子だけは変わらずそこに居て。それが……苦しかった……」
吐露した言葉は痛みと苦しみを内包し、空気を伝ってケイティの心にも重くのし掛かった。
ケイティも父を亡くした経験がある。家族を亡くしたとき、人の心は悲しみの前にひどく脆く、壊れやすくなってしまうものだ。それを知っているからこそ、ケイティはより心を突き刺す痛みに唇を震わせた。
「この子も苦しんでいると、気づけなかった。姿を見るのも嫌で、どんな表情をしているかすら、見ようとしなかった……」
眉を下げたミル夫人の顔つきは、今まで見たどの表情よりも優しかった。もしかするとこれが、本来の彼女の表情なのかもしれない。
ミル卿は夫人の頭をそっと抱き寄せ、シャーリーの背に手を回した。
「そうだね。ディアナを喪った苦しみは拭えないけれど、だから彼女を傷つけていいことにはならない。それにイライザ、私たちはディアナの他に、失くしてしまったものがあるんだ。君は気づいているかい?」
「え?」
ミル夫人は不思議そうにミル卿を見上げたが、しばらくして息をのむと、随分と様子を落ち着けはじめたシャーリーを見た。
「いつも、ディアナの楽しそうな笑い声とシャーリーの歌声が響いていたね。けれどあの日から、ここはひどく静かになってしまったことを、気づいていたかい?」
この話は、ケイティたちもミル卿から聞いていた。ディアナ嬢が亡くなった日から、シャーリーは歌わなくなってしまったと。
だからケイティも、シャーリーの歌声は聞いたことがなかった。
ミル夫人はみるみる涙を溢れさせると、顔を両手で覆った。
「そんなことにも気づいていなかったなんて……わたくしは、どれ程酷い仕打ちをしたのかしら。ごめんなさいシャーリー……あなたも苦しかったのね。あなたも家族として、あの子の死を悼んでくれていたのね」
今日はじめて名を呼ばれたシャーリーは、ぱっと顔をあげると、心底嬉しそうに夫人を見上げた。そして優しい手つきで夫人の髪を撫でると、彼女は嗚咽をもらして崩れ落ちた。
シャーリーはうずくまる夫人をそっと胸に抱くと、とても穏やかな表情で笑った。そして、唇を僅かに開いた。
瞬間、その場を満たしたのは、天使のような、透き通った歌声。物悲しい旋律はレクイエムで、それが誰に向けられたものか、この場にいる誰もが痛いほど理解していた。
歌声が響きはじめてすぐ、ミル卿はケイティたちに背を向けて上を見上げた。
大きく震えるミル夫人の背中を、シャーリーは優しく語りかけるように歌い続けながら、いつまでも撫でていた。
涙が乾きはじめた頃、シャーリーは改めて渡す予定だったハンカチの箱をミル夫人に差し出した。
シャーリーがずっと握っていた箱は不格好になっていたが、夫人は泣き腫らした顔に緩やかな笑みを浮かべてそれを受け取った。
「そのハンカチは、亡くなられたお嬢さまが夫人のために刺繍していたものを、シャーリーが受け継ぐ形で完成させたものです。ですから、お嬢さまとシャーリーからの贈り物でもあり、お嬢さまの遺品でもあります」
ケイティが説明すると、ミル夫人はぎゅっとハンカチを抱きしめ、再び溢れそうになる涙を耐えるように目元に力を入れた。
「そう……ディアナとシャーリーが。ありがとう」
シャーリーはやっと目的を達成できた安堵からか、穏やかに目を細める。
「それから、シャーリーはこちらの屋敷に戻りたいと願っています。どうなさいますか?」
ジョシュアが問いかけると、夫人は不安げに顔を曇らせた。
「わたくしは、シャーリーに酷い仕打ちをしたわ。わたくしと共に居るのは、彼女にとって負担のはずよ」
俯く夫人とは対照的に、シャーリーは首を何度も横に振って戻りたいのだと主張した。
「あなたはそれでいいの?」
ミル夫人の言葉に、シャーリーは嬉しそうな笑みで頷く。目を潤ませたミル卿が、温かい笑顔でほっとしたように二人を見つめた。
「聞きたいことがあるのだけれど。シャーリーが着ている喪服はどこで仕立てたのかしら?とても綺麗に仕立ててあるわ」
屋敷に戻ることになったシャーリーをのこし、ドールハウスに帰ろうとしていたケイティとジョシュアは、ミル夫人の問いかけに顔を見合わせた。
「わたしです」
ケイティが名乗り出ると、ミル夫人は意外そうに驚く。
「何処の腕のいいお針子かと思えば、あなただったのね。もしよろしければ、これからもシャーリーの服を仕立ててくださらない?喪服姿のシャーリーを見たとき、心臓がどきりとしたの。ディアナの姿を重ねもしたけれど。何より、人形でなく人に見えたわ。それはきっと、わたくしたち貴族が身に付けるような服を身に付けていたからだと思うの。対等な立場で、共にディアナの死を悲しんでいると、そう感じることができたのよ。服は、思いや立場を反映するもの。これなら、シャーリーをわたくしたちの家族として示すことができると思うの」
「はい、勿論です!」
ミル夫人の嬉しい申し出に、ケイティは瞳を輝かせた。
一時はどうなることかと思ったが、シャーリーの思いは無事伝わり、屋敷に戻ることも叶った。
ケイティとジョシュアは安堵と達成感の中、ドールハウスへと帰った。
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