中篇(上)
レオンハルトは早々に家督を譲るつもりでいたのだが、先妻の子チェザーレからも、わたしの産んだ息子たちや家臣からも反対を受けて、結局、終身で領主を務めることになってしまった。
「実質は隠居だからね」と念を押しながらも、夫はしぶしぶ承諾した。
シャテル・シャリオン領寄りの湖畔に先代領主のための館を建てて引っ越すつもりでいたわたしもあてが外れてしまったが、息子の嫁の魔女たちも「居て下さらないと困ります」と熱心にわたしたちを引き止めた。家族の数が多く、複雑な事情があるために、レオンハルトのような年長者が一族の重鎮として上にいた方が確かに治まったのだ。
嫡男チェザーレは次代領主の座を自ら降りた。彼がそれを決めたのは、おそらくもっと前のことだったのだろう。チェザーレは継母のわたしが産んだ異母弟に後継者の座を譲り渡した。男手ひとつで長子チェザーレを育成してきたレオンハルトが内心ではどう想っていたのかは分からない。知らない間に夫とチェザーレがそのように決めてしまっていたので、この問題については、彼らから伝えられるまでわたしは完全に蚊帳の外だった。わたしはチェザーレを問い詰めた。しかし、
「父上と話し合って決めたことだよ」
何でもない顔をして実にあっさりとチェザーレは身を引いてしまい、頑として戻らず、翻意は諦める他なかった。
死ぬまで領主のままだったレオンハルトだが、実権は下の世代に順繰りに譲り、近年はほとんどお飾りのような領主夫妻だった。名目だけの城主ながら、城に残ることで孫やひ孫たちの成長も間近に見ることが叶い、存外に楽しめた。
元侍女から預かった少年ペーテルは『ペペ』と綽名されて、「仕方がない奴だ」という位置づけながらも、それなりに城の者たちに可愛がられた。元気だけは良かったし、すばしっこく、機転が利いて愚鈍ではなかった。城にやってきた当初から、少し教育すれば使える者になるだろうと想わせるものがあった。
わたしもペペの行儀向上の為に策を巡らせた。
ペーテルには毎朝わたしの室に来るようにと云いつけてあったが、或る日のことペペがやって来ると、わたしは肖像画を椅子に置いて眺めていた。
「ひゃあ、誰だいそれは」
室に入って来るなり、領主夫人への朝の挨拶もそこそこにペーテルは肖像画の魔女に魅せられた。口の端に朝食の屑がついており、顔も洗っていないのか、着崩れてだらしのない風体のままだった。
「誰かの嫁さん候補かい。ぶったまげるほど綺麗な子だな」
「お友だちのご令嬢です。領主さまのお見舞いを兼ねて、母君と共に魔都からこちらのお城に来るのよ」
「やったぜ」
「何を歓んでいるのペーテル。あなたには関係のないことです」
「ざけんな、なんでだ」
わたしは肖像画を片付けた。
「そんな言葉遣いをする者をお客さまの前にお出し出来ると想うの?」
それからのペーテルは涙ぐましいほどの努力をした。礼儀作法を一から教えてくれとわたしや他の者たちに頼み込み、毎日風呂に入って爪の間までよく洗い、上から下まで髪も身なりも整えた。半月後、令嬢が城を訪問した際には、空中庭園で馬車の扉を開け、踏み台を出し、白手袋をはめた片手を差し伸べて令嬢を馬車から降ろすという大任までやってのけた。その役ならば口を利かなくても済むし、外観は見栄えする子なので、丁度良かったのだ。
「すげえ可愛い、めちゃ可愛い。こんな近くで見たぞ」
頑張って作法を習得したご褒美にわたしから令嬢を間近で見ることを許されたペーテルは、空中庭園から戻って来るなりはしゃいで跳び上がっていた。整った顔に濃紫と金刺繍のお仕着せがよく似合った。まだ幼さが残るながらもペーテルは魅力的な野趣を帯びていて、若駒のようにひと目を惹いた。この調子で大人になったらさぞや不敵な女泣かせになるだろうとペペの将来が心配になったほどだ。五日間滞在していた令嬢が謝辞を述べて城を去ると、すっかり元の野生児に戻ってしまったが。
ペーテルがいたお蔭で、夫の最晩年に付き添う間も、何かと気が紛れて明るく過ごせた気がする。
ある時、中庭が騒がしい。出て行ってみると、
「夕食を賭けてんだ。あんた出来るんだろ」
ペーテルが睨むようにして、わたしを見た。領主夫人をそんな眼つきで見る者はペペの他にはいない。
「奥方さま、何でもありません」とペーテルを揶揄っていた従者たちが慌てている。
「出来るのか出来ないのか、はっきりしろい」
ペペが地団太を踏んでわたしに迫る。なんでも、
「奥方さまは昔は雲雀のように軽々と手放しで箒の宙返りをやって見せたのだぞ。でも流石にお歳をとられた今は、もうやれないだろう」
「いいや、あのばばあならやる」
そんなやりとりがあったのだそうだ。
領内では箒を乗り回しているとはいえ、何十年と、もうやっていない。年齢を考えない過信かもしれない。怪我でもしたら城の者に迷惑がかかる。賭けているというペーテルの夕食くらい、後で夜食を与えれば済むことだ。
「まじで。冗談だよ、止めろ」
言葉とは裏腹に、わたしが箒を手に取ったのを見たペーテルは愕いて止め立てをしてきた。ペーテルを挑発していた者たちも蒼褪めて、「奥方さま、今のはほんの遊びです。私共が悪うございました」とその場にひれ伏さんばかりの様子になった。わたしはちらりと塔の上階を見上げた。レオンハルトが臥せっている室はあそこだ。今は目覚めて、いつものように、窓の外の空を見ている頃だろう。
「年を考えろよ、ばばあ」
「そうね。考えるわ」
十年後くらいに。
大きく宙返りをしてみせた。一度だけではない。レオンハルトに気づいてもらえるように、二回転した。昔と違い逆さまになった時に少し頭がくらついて、僅かばかり身体と箒が離れてしまう恐怖の一瞬もあったが、箒で二回分の宙返りをやり遂げて、手近な望楼を回って減速した後、足首を痛めることなく中庭に着地した。
ペーテルは手を叩き、とんぼ返りまでして大喜びだった。
「すげえぞ、ばばあ。今度は弓矢で旗を射抜いてみせてくれよ」
「お前の顔を立てる為にやったのではありません」
裾を払い、わたしは箒をペーテルに押し付けた。いきなり老女を乗せて宙返りをすることになった箒は、ペーテル流に云えば『びびって』いた。箒に悪いことをした。
「これに懲りて二度と本人のいないところで勝手な安請け合いはしないように」
「奥方さま、お怪我はございませんか。奥方さま」
「そなたらも。わたしのことを賭けに持ち出すとは何事か」
罰として、全員の夕食を抜いてやった。
髪の乱れを直してレオンハルトの寝所に戻ると、レオンハルトはやはり窓越しに、宙返りをしたわたしの姿を見ていた。
背もたれに半身を起こした夫は何も云わなかったが、わたしを暗に咎めるその顔つきは、何度か見覚えのあるものだった。
「ああ、ご覧になったのね。中庭で鳥がくるくると飛んでおりましたでしょう」
肩に流した銀髪の中から、何をとぼけているのだ、という顔を夫は作っていた。城の庭から摘んできた花を花瓶に活けて、わたしはすっ呆けておいた。おそらく生涯最後となるであろうわたしの華麗なる宙返りはレオンハルトのその表情を得て、満足のうちに終わった。
親しく付き合っていたヘタイラは、はるか昔に若くしてもう亡くなっていた。ヘタイラとは、アスパシアやディオティマと並んで、美人に敬意を表する冠語だ。ヘタイラ・スヴェトラーナはわたしがテュリンゲン家に嫁ぐより前に、妻を喪った傷心のレオンハルトを支えていた魔女だ。
彼女の嫁ぎ先である子爵の城にレオンハルトとわたしは見舞いに行った。その日が今生の別れになると双方が承知の上だった。
子爵とわたしは静かに席を外し、病室に彼らを二人だけにした。子爵もわたしも、そうするべきだと想ったのだ。レオンハルトとスヴェトラーナ、二人の関係は、喩えるならば戦友のようなものだった。戦場で心に傷を負った兵士と、その兵士を愛した看護師のような絆で結ばれており、苦難の一時期を共にしのんで過ごした彼らは、家族の愛とはまた別の情愛と想い出でやさしく繋がっていた。
レオンハルトが寝台に横になっているスヴェトラーナに呼び掛ける。懐かしい声で彼は去りゆく愛人の綽名を呼んでいた。
小夜鳴鳥。アスパシア。
アスパシア・スヴェトラーナは美しいその眸をレオンハルトに向ける。その美貌には何ひとつ翳りがなく、力尽きようとしているその時も、夕焼けの中に咲く青い花のようだった。
その日からほどなくして、スヴェトラーナは彼女の産んだ三人の子どもと夫の子爵に見守られて逝った。
》中篇(下)
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