或る伯爵夫人の回想

朝吹

前篇

 

 一族を束ねていたテュリンゲン家のレオンハルトが死んだ。老衰だった。カルムシュタット領主であり、わたしの夫である彼は、孫やひ孫に囲まれた穏やかな老後を過ごした後に、静かにその生を終えた。

 レオンハルト・フォン・テュリンゲン。白銀しろがねの魔法使い。

 カルムシュタット地方を治める領主として、ながい間、領民から慕われた伯爵であり、わたしの良き夫だった。

 

 おハネちゃん。


 まだわたしが若かった頃、夫はわたしをそう呼んだ。死んだレオンハルトの声がまだ耳にある。わたしは十六歳の時に、十八歳年上のレオンハルトの許に嫁いだ。わたしは魔女。名はクリスティアナ。それがなぜ『おハネちゃん』なのかといえば、カルムシュタットに来た当初、何かとわたしがお転婆だったからだ。

 年相応だった。そう想うのだが、おしとやかに読書や刺繍などをしながら一日中、室内にいるような内向的な娘ではなかったのは確かだ。

「宙返り」

 チェザーレがそれを指摘する。

 やはり、あれが悪かったのだろう。来て早々、城の面々の前で、わたしは男の子のように弓矢を片手に箒で宙返りをしてみせたからだ。夫となる魔法使いの観ている前でやってしまった。他にも色々あるのだが、最初の印象としては強烈だったようだ。

 仕方がない。伯爵の花嫁としてこの城にやって来たわたしは、魔都に暮らす貴族令嬢でも何でもない、片田舎の野育ちの娘だったのだから。

 それもこれも、もう半世紀以上も昔のことになってしまった。はるか年上の、愛妻と死別した上にわたしと同年の息子までいる魔法使いに嫁ぐなど絶対に厭だと、哀しみと不安でいっぱいになりながら郷里を出立し、箒に曳かれた白い馬車でテュリンゲンの城の空中庭園に降り立ったあの日は、すでにはるか遠い昔のことだ。

 おじさんに嫁ぐなんて最悪。

 城に到着したわたしは憂鬱な心地で真新しい空中馬車から降りた。そんな十六歳の花嫁を出迎えた三十四歳の城主レオンハルト・フォン・テュリンゲン伯爵は青い空の下、歩み寄って来くると、こちらもまた淡々とした様子で儀礼的にわたしに腕をかし、花嫁を連れて城に入って行った。互いに笑顔もなく、どちらも上の空だった。

 望んでいない結婚だった。貴族の婚姻とは元よりそういうものだ。だが事情が事情だった。強いられたわたしたちの結婚。



 伯爵家に嫁いだわたしは、七人の子を産んだ。そのうちの双子一組を含む三人、三番目から五番目の子については、父親が夫ではない。

 


 隣室に聴き慣れた足音がする。さすがに今日は走っては来ないようだ。魔法使いの少年は控えめに声をかけてきた。

「……よう」

 常とは違い、少年は次の間で待っていた。いつものように扉を蹴破らんばかりに飛び込んで来て「ばばあ!」とは呼ばないようだ。このような際ではあるが想わず口許がほころんでしまった。彼なりに、夫を亡くしたばかりのわたしに対して気を遣っている。

「邪魔だろうけどさ、時間だよ。それを伝えに来たよ……」

「ありがとう。ペーテル」

 喪服をまとったわたしは返事をした。顔の前に垂らした薄い紗を通して、立ち尽くしている少年が見える。

「出棺の刻限まで、領主さまと最期のお話をしていたの」

「ご遺体はそっちかい」

「ええ」

 魔法使いの少年ペーテルはおっかなびっくり隣室をうかがうような素振りをみせたが、想い直したように俯いた。

「ばばあ、憶えてろよ!」

「畜生、これもばばあの入知恵だな。ばばあ出て来い!」

 一年前、城に来た当初のペーテルの放言具合には、さしものレオンハルトも「いいのかい」とわたしに訊いたものだ。まだその頃は、レオンハルトは庭を散策して日光にあたるくらいの体力はあった。老いても背筋が曲がらず、杖を持ち、支えを拒んで歩いていたレオンハルトの姿には、確かに『偉大な魔法使い』の血脈が流れているのだと想わせるだけの余人離れした風格があった。

「新しい近習のあの子は、いったい何処の子なのだ。クリスティアナ」

「昔仕えてくれていた侍女の孫なの。名はペーテル」

「呼んだか」

 ペーテルはぶらぶらとやって来た。

「ペーテル、ご挨拶なさい。こちらがカルムシュタット領主レオンハルトさまです」

「あんたが。そうなのか」

 流石に老領主を眼前にすれば無礼な魔法使いの少年も畏れ入るかと想えばそんなことはやはりなかった。

「奥方に云ってくれよ。俺を馘にしろって」

 少年ペーテルは庭椅子に腰掛けたレオンハルトの足許に滑り込んできて、捲し立てるように懇願を始めた。

「俺こんな城に居たら息が詰まっちまうよ。母ちゃんは胎ぼてだから俺が邪魔なのは分かるんだけどさ、何も婆ちゃんの友だちの城に投げ込むことはねえだろう。なんだここ。全てがあらかじめ刻限どおりに決まっていて、そこに居るばばあの命令で城ん中の託児所みたいな処で他の子どもと机を並べて読み書き計算の勉強までさせられてるんだ、窮屈ったらねえよ。詰まらねえ」

「読み書きは大切なことだ。ペーテル」

 レオンハルトは穏やかなうちにも威厳を篭めてペーテルを諭したが、「だよな。そこは俺だって分かってるんだ」ペーテルはぴしゃっと自分の膝を叩いて、さらに云い募った。

「だけどさ、向き不向きってものがあるのさ。俺はからきし駄目なんだ。なあ領主さま、頼むよ。せめて日課の銀器磨きを箒の手入れに交換してくれ。あれなら俺、得意なんだ」

 少年の背後に立つわたしはレオンハルトに頷いてみせた。

「では、箒係にしてあげよう」

「やった」

「基礎課程の座学は続けること。それが条件だ」

「はーい」

 調子よく小躍りして、ペーテルは走り去っていった。

 野生児のペーテルがいったい何処から城にやって来たのかと云うと、偶然のことだった。秋の収穫を見積もるために孫息子を連れて所領地を巡っていた時のことだ。そこからほど近い邑に、かつての侍女が暮らしていることを想い出して立ち寄ったのだ。

「こんにちは」

「まあ、クリスティアナさま」

 元侍女は庭で畠に水を撒いていた。

「喉が渇いたの。そこの井戸水を少し頂けるかしら」

「どうぞ家の中でご休憩下さい。少しこちらでお待ちを。昼食の後で散らかっておりますので、卓上を片付けて参ります」

 箒から降り立ったわたしを元侍女は歓待してくれた。貴人の魔女は娘時代を過ぎると箒ではなく空中馬車を好むようになるのだが、わたしはまだ箒で移動していた。貴族階級の魔女が箒に乗ることを辞めてしまうのは、ひとえに髪型が乱れてしまうのを厭うからだ。家の中の延長のような領地ではそのような気遣いは要らない。髪も編んで束ねておけば、崩れをさほど気にすることもない。

 庭に置いてある素朴な丸椅子に腰をかけて木陰で休んでいると、

「よお」

 不意に声を掛けられた。真上から。振り仰ぐと大樹の枝に座った少年がはだしの脚をぶらつかせている。

「ばばあの知り合いのばばあ。何処の人だい」

「これ」

 御付の者が叱ったが、少年は一向にへこたれなかった。

「分かるぞ、あんたは貴族だ。お供を大勢連れてるからな。そっちの着飾った兄ちゃんは多分あんたの孫だろう。似てるから」

「当ててごらんなさい」

 わたしは樹の上の少年に向かって云った。

「わたしは誰かしら」

 そこへ元侍女が庭に飛び出して来て、少年を叱りつけた。

「ペーテル、樹から降りなさい」

 元侍女は拳を振り上げた。

「領主夫人に向かって上からものを云う無礼がありますか」

 少年は元侍女の孫だった。母親が妊娠中に預かることにしたのだそうだ。

「呑む打つ買うと、粗野で手が付けられないと嘆いているものですから、それならテュリンゲンの城に寄こしなさい、近習候補として行儀見習いをさせましょうと、わたしから彼女に云ったのです」

「十歳にして呑む打つ買うとは」

「幼少期に攫われて、一時期、悪い者たちの仲間となっていたのだそうです。買うについては悪所の女衆に可愛がられていたという程度です」

「そう」

 わたしから話を聴いたレオンハルトは、それ以上、何も云わなくなった。幼少期に攫われたという下りが、わたしたちにとってどのような意味を持つのか、彼ほどにそれを知る者はいないからだ。ペーテルを城で預かりましょうとわたしが元侍女に云ったのも、まさにそのことが決め手なのだった。



》中篇(上)


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