第295話 お嬢様と賭け事 後編
生駒静琉。
俺が施設にいた時に出会った少女の名前である。
俺の方が彼女よりも少し早く施設にいたのだが、その頃の俺はまだ施設の"ルール"を知らなかった。
だから生駒静琉が入所して来た当初、いじめに遭った彼女を思わずかばってしまった事が原因で、今度は俺がターゲットになった。
その後、俺と生駒静琉が関わる事は無く、彼女は1年もしない内に新しい家族に引き取られていった。
生駒静琉は昔から利発そうで容姿に優れていたから、それが龍門家の両親の目に留まって引き取られたのだろう。
当時の俺は彼女がその後にどんな人生を送っていたか――なんて気にしている余裕が無かった。
毎日、施設内で生き延びるのに必死だったからだ。
子供の頃、それも1年足らずの付き合いで、しかも直接的に関わったのは彼女が入所した頃の数日間のみ。
10年経った今でも覚えていろ、という方が難しい。
だが、もしも――
もしも生駒静琉が当時の事を今でも覚えていて、俺が当時の事を覚えていない事に怒りを感じていたのだとしたら?
目の前にいる龍門静琉が俺を嫌っている理由としては、十二分なように思えた。
「――ようやく思い出したみたいね」
龍門は不気味な笑みを浮かべると、壁際を離れて俺の方へ向かって歩いて来た。
「この10年間、わたしは一度だってあなたの事を忘れた事がない」
龍門の細くて白い指先が、俺の顎を
「俺は今の今までキレイさっぱり忘れていたがな」
俺がそう言うと、龍門は椅子に座っている俺の背後に回り、あろうことか背中に抱き着いて来た。
「ずっと、こうしたかった……」
龍門の頬が、俺の頬と重なった。
彼女の体温は真夏だというのに随分と冷んやりとしている。
俺の頬は彼女の冷えた頬を温めるように熱を帯びていた。
生駒静琉から発せられる甘ったるい匂いが、俺の鼻孔をくすぐる。
「……離れてくれないか? 暑苦しいんだが」
「それなら強引にでも振りほどけばいいじゃない。そうしないのはあなたが優しいからよ。あの時だってそう、わたしをかばった所為であなたは――」
龍門が俺の顎を自分の方へ向かせて唇を奪おうとして来たので、押し止めた。
「……お前、豹変し過ぎだろ」
「10年間ずっと我慢していたんだもの、仕方がないわ。さっきから胸が熱くてとても苦しいの」
龍門は俺の首筋に自身の唇を這わせて来た。
彼女の吐息が首筋にかかると、俺は思わず椅子から立ち上がっていた。
後ろを振り向くと、先ほどまで冷たかったはずの彼女の頬は上気したように紅潮していた。
「お前の気持ちはわかった。強くなりたかったのも、俺に振り向いて欲しかったからってのが本音なんだろ?」
「ふふ、自分でそれを言うなんて、あなたも随分と自意識過剰みたいね?」
妖艶な笑みを浮かべながら龍門は言った。
さっきまでのツンケンした態度はどこへやら、今の龍門はまるで男をたぶらかす毒婦のようである。
「とにかく、約束どおり元の世界に戻る方法を話してやる」
「いいわ、もう必要なくなったから」
言いながら、龍門は俺にしなだれかかって来た。
「あなたはこっちの世界に残るんでしょう? だったら、わたしも残る。元の世界になんて帰らない」
「お前、龍門財閥の孫娘なんだろ? いいのかよ、お嬢様がそんな我儘言ってて」
「構わないわ。わたしを拾ってくれた両親には感謝しているけれど、祖父は血の繋がりの無いわたしを政略結婚の道具としか見ていない。財閥の為に好きでもない人と結婚させられるなんてごめんだわ」
龍門は美人である。
頭も良く、剣の腕も立つ。
コイツをうまく利用すれば、ゼルデリアの復活も容易になる。
サディアス宰相の提案する決闘裁判で、わざと龍門に負けてもらえばいいのだから。
『剣』を失ったゴットフリー将軍であれば、呪いのハンデを背負っている俺でもなんとか倒せるだろう。
俺の目的はゼルデリアの復活をさせる事だ。
その為ならば、他人を利用する事だって
そう思っていたはずなんだがな……
俺は体に体重を預けている龍門の肩を掴むと、彼女を引き剥がした。
「お前、どうしてサディアスとこんな所に来たんだ?」
「そんなの、わたしの方が知りたいくらいよ」
「どういう意味だよ?」
「わたしは当初、こんな所に来る予定は無かった。宰相がどうしてもというから、逃げ回るように姿を隠していたんだけど、どういうわけか宰相には見つかってしまって……それで仕方なく」
……コイツらが会議時間ギリギリになって現れたのは龍門が原因だったのか。
サディアス宰相が龍門を連れて来た理由、それは『龍門に世界を知ってもらう為』だろう。
大陸統一だけでは飽き足らず、魔族の住まう魔界までを征服しようとしている帝国が、どのような国々の連中を相手に戦争や交渉をしているのか。
龍門にそれを知らしめさせて自分達の矮小さを理解させ、宰相の野心に協力させようという魂胆だ。
だが、龍門はサディアス宰相の言いなりにはならないだろう。
今のコイツはかなり危うい存在だ。
強大な力を手にしている一方、俺個人に執着している。
もし俺がコイツを突き離すような事をすれば、俺ごと世界そのものを滅ぼす――なんて言い出しかねない。
「……龍門、俺と賭けをしないか?」
「賭け?」
「おそらく明日の会議ではサディアス宰相の思惑通り、決闘裁判によって領土問題の解決をするという結論になるだろう」
「――それで?」
「決闘裁判の結果、俺が勝ったらお前は大人しく元の世界に帰れ」
「わたしが勝ったら?」
「好きにしろ。俺に出来る事ならなんでもする」
龍門はしばし考える素振りを見せた後、こう言った。
「……いいわ、その賭け受けてあげる。わたしが勝ったらあなたはわたしのモノになりなさい」
実にお嬢様らしい物言いだった。
「決まりだな」
「言っておくけれど、あなたのハンデなんかお構いなく殺すつもりでいくから覚悟しておく事ね」
バレてたのか、ドラゴンゾンビの呪いの事。
シルヴェーヌ外務大臣にも気付かれていたしな、そんなに顔に出やすいのだろうか。
「お前こそ、トーナメントの途中で負けるなよ? その時点で賭けは俺の勝ちだからな」
龍門は不敵に笑うと、最後に軽く俺にハグして来た。
俺はすっかり火照った体を冷ますように、龍門の部屋を出た。
すると、ほとんど同じタイミングで国王の部屋から出て来たソフィアと鉢合わせた。
別にやましい事は何も無いはずなのに、なぜか俺の心臓は高鳴っていた。
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