第231話 守りたい笑顔 後編

 俺が窓から飛び出すや否や、王女は必至な様子で俺にしがみ付いたまま固く目を閉じていた。


 俺は王女に構わずぐんぐんと上昇して、王都を一望できる高度に達した。


「――おい、目を閉じていたら意味無いだろ。ほら見て見ろ」


 俺の言葉に、王女は薄っすらと目を開け始めた。


「――――あぁ……」


 それは、ユリアーナ王女の中で何かが生まれた瞬間だったのだろう。


 彼女の瞳は童心を取り戻したように一際輝いていた。


「これが王都の景色なのですね……」


「いつも王宮から見下ろしている景色とは全然違うだろ?」


「……はい。わたくしはこんなにも大きな都市に支えられて……そこに住む人々に生かされていたのですね……」


 王都を見下ろすユリアーナ王女は、感嘆の息を漏らしていた。


「まだまだこんなもんじゃないぞ。こっちを見て見ろ」


 俺は身体の向きを変えて、王女の身体を北側へ向かせた。


「あれがベーレン山脈だ。あの山々が王都を帝国から守ってくれている」


 晴れ渡る空の下、青々としてベーレン山脈は薄っすらと雲がかかっており、見る者を圧倒させる存在感を放っていた。


「…………美しい、です。とても……」


 王女の呟きはそれ以上語るべき言葉を知らない――否、それ以上の言葉が不要とでも言っているようだった。


「夕陽に照らされるとより一層キレイなんだがな。それはまあ、将来の楽しみにとしてとっておいてくれ」


「うふふ……はい、そうします」


 王女は俺にしがみ付いたまま、柔らかい笑顔を向けて来た。


 彼女の長い金髪が風に揺れてふわふわと空を泳いでいる。


 俺は少しだけ自身の心臓が高鳴っているのを感じていた。


 しばらくそうして王都やその周辺の景色を眺めていた俺は南下して、貿易都市ハンデル近くの砂浜へと向かった。


「どちらに行かれるのですか?」


 王女は風によって顔にかかる髪の毛を押さえながら、俺の方を見上げて来た。


「海だよ。見た事無いだろ?」


「海、ですか」


 ほんの少し、王女の顔に陰りが差したように思えた。


「何だ、不服か?」


「いえ……このまま二人で逃避行でもするのかと思いました」


 以前、フィリーネも似たような事を言っていたな。


 修道院から連れ出す王子様がどうとかって。


 あまり似てない姉妹だと思っていたが、案外夢見がちな所は似ているのかもしれない。


「あんたが望むならそれも悪くないかもな」


「うふふ、冗談です。そんな事をしたらソフィアお姉様に叱られてしまいますから」


 ソフィアに叱られるくらいならまだしも、バレたら国王に処刑されそうだけどな、俺は。


「海まではどれくらいかかるのですか?」


「そうだな……ここからだと2時間弱って所か」


「でしたら、その間に少しお話しをしてくれませんか?」


「何だ、すべらない話でもしろってのか?」


 中々ハードルの高い事を言ってくれる王女様である。


「それも面白そうですけれど……アイバさんが元いた世界の事を知りたいのです」


 ふむ……


 言われてみれば、俺が元いた世界の話ってほとんどした事がないな。


「話すのは構わないが、何から話せばいいのやら」


「でしたら、アイバさんのご家族のお話しなどは如何でしょうか?」


 それ、一番重いヤツなんだが……


 まあ、本人が訊きたいというなら俺は別に話しても構わない。


 そうして俺は、海に着くまでに王女と色んな話をした。


 俺の生い立ちから元いた世界の事、この世界に来てから出会って来た人々や、これまでに遭遇した出来事等々。


 王女は一喜一憂しながら俺の話を聞き終わると、今度は彼女がこれまでどんな環境で育ち、何を考えて、何を感じて生きて来たのかを話して来た。


 王女が俺という人間をどう評価したかはわからない。


 一方、俺が王女に対して感じた事は、ずっと自分の気持ちを押し殺して、周囲の期待に応える為に虚勢を張り続けていたという事だった。


 ユリアーナは王女である。


 同時にただの女の子でもある。


 どれだけ恵まれた環境に生まれようとも、どれだけ一流の教育を受けようとも、現実には一人では大した事も出来ないただの子供なのだ。


 俺が初めて彼女に会った時は随分と堂々とした印象を抱いたものだが、アレも王女としての役割を担っていただけだと考えると、王女の本来性というのは、この華奢な身体のように脆く儚いものなもかもしれないな。


「…………わぁっ」


 俺達の話題が付きかけた頃、ちょうど海が見えて来た。


 王女の瞳は再び童心を取り戻したかのように輝き出した。


「空から見る海もいいけどな、実際に海に触れてみたいだろ?」


「――はいっ」


 俺は人気の無い砂浜を選んで着陸した。


 万が一にも王女を知る人間と出くわしたら面倒だからな。


 俺は王女を砂浜に下ろすと、彼女は呆然として海を眺めていた。


「…………これが海、ですか」


 海は太陽の光を反射してキラキラと輝きを放っていた。


 海の遥か向こうには、ただただ水平線が広がっているばかりである。


 静かな波の音が、王女の足を自然と海へと引き寄せていくように何度も押し寄せて来る。


「折角だから靴を抜いで足だけでも入ってみろよ」


「え……? で、ですが――」


「ここまで来て遠慮なんてするなよ。どうせ王宮では王女失踪とかいってもう大騒ぎだぞ?」


 王都からここまで2時間近くかかっている。


 王女が消えたという事実はとっくに王宮中を駆け巡っている事だろう。


「……全く、アイバさんには敵いませんね」


 王女は靴を脱ぎ去ると、ドレスの裾を持ちあげながら海へと静かに足を浸していた。


「――冷たいっ」


 そういう王女の表情は、しかし笑顔で満ち溢れていた。


「アイバさん! 海って冷たいんですね!」


「まだ夏前だからな。来月には海水浴も出来るようになるんだろうがな。足だけなら気持ちいいんじゃないか?」


「はいっ、とっても!」


 まるで子供のようにはしゃぐユリアーナ王女。


 寄せては返す波が気に入ったのか、彼女は足を波に遊ばせていた。


 その内、ユリアーナ王女は海水をすくって味見なんかを始めたが、すぐにケホケホをむせ返っていた。


「海って、本当に塩辛いんですね……」


「体験出来て良かったな」


「はい……海がどのようなものかを知らなかったなんて、わたくし、人生の半分は損をしていたのかもしれません」


「なら、今日はその損した分だけ思いっきり海を堪能していけばいい」


「…………はい。アイバさん、本当に――本当にありがとうございました。わたくし、今日の事は一生涯忘れません」


 王女は足を海に浸かったまま、俺に深くお辞儀をして来た。


「大袈裟だな。これからいくらでも連れて来てやるさ。あんたが望むならな」


「うふふ、アイバさんはまるで白馬の王子様のようですね」


「俺は王子様なんてガラじゃねえよ」


「そうでしょうか? 少なくともわたくしにとっては外の世界へ連れ出してくれた王子様ですよ、アイバさんは」


 そう言って、ユリアーナ王女はクスクスと上品に笑っていた。


 さっき王宮で会った時に見せていた沈んだ表情は、もうここには存在していなかった。


 彼女には、ただ笑っていてくれればそれでいい――


 ――なんていうのは俺のエゴでしかないんだが、少しでもこの笑顔が守られるよう、俺も出来る事をしなくちゃな。


 ユリアーナ王女の笑顔は、自然と俺を前向きにさせる力をくれるのだった。

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