堕ちる

kanaria

堕ちる

堕ちる

 

 いつもは通らない人気のない裏路地を進む。深夜1時、終電を逃しほろ酔いのままの帰路。夏の夜の街は雨上がりということもあり熱気を溜め込みひどく蒸し暑い。深夜ともなると人はほとんどで歩いていない。地方でも駅の近くとなれば人は多いはずだが今日はやけに少ない。路地には自分の足跡だけ。湿り気を帯びたアスファルトを蹴り上げたビチャビチャという音が鳴っている。

——————グシャッ

自分の足跡に重なって聞き馴染みのない、破裂音にも似た音が聞こえてきた。

思えばこれが間違いだった。酔っていたせいで判断力が鈍っていたのだろう。危機感の欠如がのちに自分を苦しめることになることをこの時の自分は知る由もなかった。


 音のなる方へ向かって足を進めていくと、そこには一際大きなアパートが聳えていた。クリーム色の無骨な外観は夜に見るには少しばかり怖さがある。明らかに他とは異質で浮いている。これまで規則性を持っていた建物たちとは違いこのアパートだけが取ってつけたように不自然に感じた。6階建で入口らしきものが見当たらない。視線を感じて建物の上に視線を向ける。月に照らされて人影がぼうと立っているのが確認できた。視線の主は影で顔が見えない。嫌な予感がした。これまで感じたことのない確信めいた予感必ず起こると断言できる直感だった。その予感を肯定するように目の前で人が堕ちた。

初めて聞いた音だった。そして初めて見た人の死だった。ここで引き返そうと心では思っていた。だが、片隅にある好奇心を不謹慎ながら優先してしまったのだ。近づかず通報するべきだ。そう思いながら恐る恐る近づいた。

それはおそらく女性であった。長い髪にちらと見えるか細い手足、顔はひしゃげて原型を留めていない。下には血溜まりが赤黒く広がっている。恐ろしいものを目の当たりにしてしまった。鉄臭い匂いが蒸し暑い匂いと混じり吐き気を助長する。

「い、、、、た、い。」

声を聞いた。今、聞こえるはずのないものから声が聞こえた。喉が潰れているのか声にノイズが混じっている。およそ女性とは思えないほど低くがさがさとした声。苦痛が声を通して伝わってくる。ここで初めて引き返そうと判断できた。この事実は自分のキャパを軽く超えている。今の自分では正確な判断を下せない。夢であって欲しい悪い夢であってくれればいいと早足で駅の方へ向かう。遠のいているはずが全く実感が湧かない。確実に駅へ近づいているはずなのに、声が離れない。ずっと同じ距離感を保ったままこの声が耳を離れない。逃げたい逃げなくては自分では抱えきれない重責、人の死を自分ひとりが抱えられるわけがない。はやく家に帰って逃げたい。

どれだけ走ったのかわからない、時間の感覚があまりなかった。いつのまにか駅に着いていた。無数の街灯が安心感を与えてくれる。ふと見た駅前の時計は3時を差していた。

 あの日を境に夢にあの現場が出てくるようになった。あのしゃがれた声が耳を離れてくれない。起きている間も夢を見ているようにはっきりとしない。同僚や上司にも心配されその日は大事をとって早退した。意識がはっきりとしないまま覚束ない足取りのまま家路を辿る。

目の前にはあのアパートがあった。何故か、あの時は見当たらなかった入り口が眼前にある。吸い込まれるように中へ足が進んでいく。自分の意思とは裏腹に迷いなく階段を上り進んでいく。屋上には何もなかった。ただひとりを除いては。

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堕ちる kanaria @kanaria_390

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