二日酔いくん

 意外だが、フォークリフト免許は前述した通り3日間の実技講習で取得できる。正確には初めに学科講習が+1日あるので拘束時間は4日だが、それでも短い。機械操作に難がある人間には中々のハードルだ。心の準備に10日はくれ。

 実技講習もコースの簡単な説明とハンドル・アクセルの位置、エンジンの掛け方を教わったらはいどうぞ、といった様子でバトンを渡される。

 自運転スキルが生まれたての子鹿レベルの私は途方に暮れた。体で覚えろという事か。


 コースは初回と言うことでT字路を端から端まで行ったり来たりする単純なものだった。とはいえ右左折もバック走行もある。いきなりハードルが高すぎやしないだろうか。フォークを操作しての荷吊りがないだけまだマシなのだろうか。

 教員による折り目正しい模範走行が終わり、いよいよ受講者の番が回ってきた。私は2番目だ。1番じゃなくて良かった。運転への自信が地の底に落ちているので、境遇の同じ初心者であるトップバッターの運転を見て安心したいところだ。自分より下がいるとは思わないが、私はとことん低いレベルで争っていたい。


 そんな姑息で熱い期待とともに隣に座る男を振り返り――私は目を疑った。

 寝ている。それも睡魔に抗う様子もなく、灰色のツナギ姿の彼は俯いたまま、完膚無きまでに全身で船を漕いでいた。最前列やぞ。ハート強すぎか。

「……ふが」

 案の定教員に肩を揺らされ、褪せた茶髪の男はようやく面を上げた。眠たげに頭を振った彼の浅黒い頬は痩せ、眼窩が落窪んだような深い隈を湛えている。ぎょろりとした双眸がこちらを向いて、隣の私を捉えた。

「あ、あの……具合が悪いのですか」

「んにゃ、ただの二日酔い」

 彼はヘルメットを被り、教員にギリギリ聞こえない小声でそう教えてくれた。見たままかよ。

 心の中で「二日酔いくん」と命名した彼はゆらりと立ち上がり、フォークリフトの前に立った。万全でない体調で黒鉄の獣を操縦しようなど、私からしたら自殺行為に等しい。もしかしたらコースから少し離れて見ていた方が良いかもしれない。


 そう身構えた私だったが――しかしヘルメットのツバを一度だけ正した彼の目は――数秒前とは打って変わってシャキッとしていた。酔いが一瞬にして覚めたかのようだった。

 そのままキビキビとした動作で車体全周の指差し確認を行い、「前ヨシ! 後ろヨシ!」と力強く呼称して軽々と席に乗り込んだ。さっきまでの死人のような出で立ちは何だったのだろう。

 二日酔いくんはそのまま手慣れた動作でサイドブレーキやリフトの爪の角度を調整し、「前ヨシ」と進行方向を見据えて発進しだした。

 いやちょっと待て、これは初心者講習のはずだ。

 私の疑問を置き去りにして、フォークリフトは滑るようにコースを周回していく。それなりのスピードで右左折をこなしているはずなのに、車体は無理に軋んだり揺れたりする様子はない。矢鱈目鱈にアクセルを吹かしているのではなく、驚くほどの細やかさで足元のブレーキやらクラッチやらを操作し、エアリーな小回りを実現している。

「うっま、あの人……」

 傍で長い脚を組んでいた金髪ギャルは思わず、といった様子でそう漏らした。見回せば、受講者全員が二日酔いくんの運転に釘付けになっている。

 無理もない。裸馬を乗りこなす遊牧民のような豪快さと、ふと見せる繊細なブレーキ操作はもはや達人のそれだった。ここはひのきの棒の振り方を教わる最初の村ではなかったのだろうか。彼ならばすぐにでも魔王の城だって攻略可能だろう。


 パーフェクトな走りで戻ってきた彼に自然と拍手が沸き起こった。気持ち的にはもう最終日だった。

 どっかりとパイプ椅子に腰を下ろした二日酔いくんに、興奮冷めやらぬ私は素直な気持ちで声をかける。

「凄かったですね。初見であんなに乗りこなすなんて」

「まあ仕事で毎日乗ってるからな」

「は」

「昔免許取ったんだけど、どっか行っちゃって……免許探すのメンドいからもっかい取りに来た」

「えぇ……」

 そんなことあるのか。そうそうあってたまるか。唖然とする私を置いて、彼はもうダメだと言わんばかりに頭を振った。

「うーぇ、気持ちわる……あ、もう寝てていい? 起こさなくていいから」

 良くねえわ、と答える前に私は教員に呼ばれた。ついに私の番が回ってきたようだ。


 まさかのトップバッターが無免許運転の常習ということで取り乱してしまったが、これは私の教習だ。私の肩には弊社のなけなしの教育費が乗っている。何としてでも乗りこなして帰らねば、上司にも財務の斉木さんにも合わせる顔がない。

 二日酔いくんみたいに、私も無事に帰って来れるだろうか。

「はい、じゃあ文川ふみかわさん初回ね。進行」

「――はい」

 汗ばむ左手でサイドブレーキを解除し、私は顔を上げた。

 揺れるヘルメットの唾越しに、遠くに立つコーン達が震えて見える。

「……前ヨシ」

 私を乗せた車体はゆっくりと、獰猛さを噛み殺したようなエンジン音を上げて動き出した。

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