心そこにあらず

放逸兎

第1話 心そこにあらず

 小さい頃からaさんは父親と話す事が苦手でした。口数が少なく物静かな父親で、向こうから声をかけてくる事がほとんど無く、日常生活において最低限の掛け合いぐらいしかしていませんでした。aさんが女性という事もあり、思春期になって父親の事を避ける様になってから、何故かそれ以来、会話をするのが気まずくなってしまい、両者の間に妙な溝が開いたまま年月だけが過ぎていきました。

 aさんが父親の事を教えてもらう時は本人からではなく、一人っ子だったaさんが家族で唯一話せる母親からでした。

 父親は中学校の教員で国語を教えていて、部員が一人か二人ぐらいしかいない文化系の部(帰宅部)の顧問をしている。土日は割と家にいる事が多い。家にいる時はだいたい居間の掃き出し窓の側に置かれている合皮のリクライニングチェアにもたれ掛かり、TVを観るか読書をしているかのどちらかで、夕飯が終わると書斎に籠り明日の仕事の用意(授業内容をまとめた資料を入念にチェックしたり生徒が提出したノートにサインを入れたり)をしている。それと、たまにではあるが昼頃から夕方まで何処かに散歩しに行く時もある。一日、家にいると流石に気分が萎えるのだろうとaさんは言う。

 ある日aさんは母親に父のどこが良くて結婚したのか聞いた事があったそうです。二人は親戚の紹介で、お見合いをきっかけにお付き合いをする様になり、出会って半年後に父親から結婚の申し入れをされたとか、母親が言うには初めて会った時の父親は大人しく華奢で少しうつむき加減なその風貌は、どこか頼りなさそうな印象を受けたそうでこの人との縁組みは無いだろうなぁと、当初思っていた事を打ち明けてくれたそうです。しかし意外にも父親の方は積極的にアプローチをしていたらしく、直向きに誘ってくる父親のその内に秘めた情熱に母親は惹かれていったそうです。あの父親にそんな一面があった事にaさんは驚いたのと同時にますます彼のことが分からなくなってしまいました。そして、aさんが成人を迎える年にある出来事が起こったのです。

 その日、いつも就寝に入る時刻に急に両親の寝室から父親の慌てふためいた様な声が聞こえてきたそうです。


「おい!どうした!?どこか痛いのか!?」


 突然の父親の荒げた声に、ただ事では無い事が起きたと瞬時に察したaさんは両親の部屋にかけつけました。寝室では腹部を押さえ顔中汗だくで呻き苦しむ母親の姿がありました。aさんはすぐに救急車を呼び、一行は病院へと向かいました。移動途中に母親の腹痛はピークを超えて、多少痛みは和らいだものの、病院で検査をしたところ胆石性の急性胆嚢炎だと分かりました。実は以前からaさんの母親はみぞおち辺りが痛い痛いと日頃から口にしていたそうです。翌日に緊急手術が決まり母親はその日に入院する事になりました。

 手術方法は腹腔鏡下手術といって小さな穴を開け、そこに炭酸ガスを入れ腹部を膨らまし、小さなカメラを内部に入れ、機械を用いて胆嚢を摘出する手術との事で、開腹手術よりも手術創が小さく患者への負担が少ない為、昨今はこちらが主流になっているそうです。

 翌日、無事にaさんの母親は手術を終え、5日ほど入院生活を送る事になりました。aさんは安堵感に浸るのと同時に母親のいないこの5日間を父親と二人で過ごす事に少し不安な気持ちになったそうです。たったの5日間という期間ですが、今まで父親を避けつつあったaさんは彼とどう接していいか分からなくなっていたのです。母親からも、あの人は炊事洗濯が何もできない人だから悪いけど私の代わりに面倒を見てやってくれ、と念押しされ、aさんは身の引き締まる思いでいっぱいだったそうです。

 その頃のaさんは既に就職をしていて、新人営業マンとして仕事を覚える事に忙殺された日々を送っていたのですが、仕事に加え、朝は父親の朝食と弁当を作り、前日に回しておいた洗濯物を干してから仕事に向かい、仕事が早く終われば洗濯物を取り込み夕食の用意をするなど、母親が入院してからは多忙を極めていたそうです。

 そんな中、aさんに更に追い打ちをかける出来事が起こりました。aさんの母親が入院してから4日目に、病院側からaさんに電話がかかってきました。内容は母親が合併症を引き起こしていたらしく入院期間が延長してしまうとの事でした。これにはaさんも愕然として心が折れそうになったのですが、たった数日で弱音を吐いてはこの先、到底自立する事なんか出来ないと自分に言い聞かせ、何とかメンタルを保っていたそうです。一方、父親はというとその話を聞いてから何故か職場から帰ってくる時間が遅くなったそうです。残業がある日でも8時半には帰宅していた父親でしたが、11時を回っても帰ってこない日が続いたそうです。父親とコミニケーションをあまり取らないaさんは彼がどこで何をしているのか皆目見当もつかず、自身が仕事で疲れていたのもあり、もう父親の事は放っておく事にしました。

 母親が入院して10日目の日曜日の朝、その日aさんは仕事が休みだったので溜まってしまった洗濯物と家の掃除をする事にしました。日頃、仕事で疲れ切った身体に鞭を打ち、aさんは掃除機を取り出し家中を回っていました。居間に入り、食卓周りの床を掃除をしていると掃き出しの前に父親がいることに気付きました。aさんはその時、父親がいつもの場所に居ると分かると父親の方を直視せず、そのまま掃除機をかけ他の部屋に移ろうと通り過ぎようとしたのですが、ある違和感を感じて、ピタッと動きを止めたそうです。aさんは顔を上げ、ゆっくりと父親の方に目をやると父親が裸で両手両足を床につけた四つん這いの状態で、床にこぼれていたグラスの液体をぺろぺろと舌で舐め啜っていたそうです。aさんは父親のその奇行を呆然と眺めていたのですが直後、頭がパニックになり、そしてそのあまりの滑稽さに逆に彼女の中で怒りが湧いてきたそうです。


「何やってるの…?…何やってんのよお父さん!!しっかりしてよ!私が毎日どれだけ大変な思いをしてるか分かってるの!?いつも自分の事ばっかりで!ちょっとは協力してよ!」


と今まで腹に溜まった思いをぶちまけたそうです。父親はそれを聞いて床を舐めるのをやめ、上体を起こし、両足だけで立ち上がり、aさんの目の前まで近づきました。その時の父親を見てaさんは、なぜかは分からないが父親の顔がいつもと違って見えたそうです。この人はこんなに目元が吊り上がっていただろうか?輪郭も心なしかいつもよりシャープに見える。普段、父親の顔をあまり見ていないから私が忘れているだけ?aさんはそう思いを巡らせたそうです。しばらくaさんの顔を凝視していた父親はゆっくりと口を開けたかと思うと、別人の様に見えるその目がカッと見開き、もの凄い甲高い声で

 

「あんたなんかね、別に愛してなんかいないんだよ、勘違いしないで頂戴」

 

 と、aさんに吐き捨てたそうです。父親はそのままaさんの横を通り過ぎて行きました。aさんはあまりのショッキングな出来事に膝から崩れ、自然と涙が込み上がってきては、その場でおいおいと泣き崩れてしまったそうです。

 aさんはその日の午後に母親の元にお見舞いに行きました。聞けば母親は順調に回復を見せ、後2日ほどで退院できるとの事でした。aさんはやっと肩の荷が取れたかの様にホッとして、それから午前中に起きた父親との奇怪な出来事を母親に話しました。それを聞いた母親は、


「あの人は昔から心が弱くなるとそうなの、色々と持ってきやすくなるのよ、あの人はあんたの事をちゃんと愛しているから、そんな心配しないで大丈夫よ」


 と軽く笑いながら諭してくれたそうです。あの奇行は心の弱さからくるものなのか?母親は勘違いをしている。そもそも、私が泣き崩れたのはストレスフルな毎日に張り詰めすぎた自信の心の線が怒りによって切れ、ダムから放流される水の様に感情が流れ出てしまった事によるものだとaさんは頭の中で言い聞かせていました。しかしながら頭の中で否定をしているにもかかわらず、なぜか不思議と母親の言葉でaさんの心は落ち着いていたのでした。

 後日、aさんの母親は退院して、父親の方も帰りが遅くなることはなくなり、元の生活に戻りつつありました。aさんは今回の一連の出来事で母の存在の大きさを改めて実感し、そして自身ももっと成長しなければと家を出る事を決意したそうです。

 それから半年後、aさんがやっと仕事にも一人暮らしにも慣れ始めてきた頃にaさんの母親から電話がかかってきました。日曜日で休みとはいえ、時刻はまだ七時を過ぎたぐらいの早朝に、一体何事かと思い、眠い目を擦りながらaさんは電話に出ました。


「もしもし、どうしたの?こんな朝早くに…」

aさんの母親は落ち着いた口調で言いました。

「お父さんがね…さっき、警察に逮捕されちゃったの…」


 「え?」


 母親の唐突な知らせにaさんは思考が追っついていかず、身体を起こし聞き返しました。


「お父さんね、前に女子高生の子にお金渡して密会してたらしいのよ」


「ちょっと待ってよ、なんなのよそれ?それってつまり買春って事!?意味わかんない!今からそっち帰るから!詳しい事は後で」


 目が一気に覚めたaさんは、焦燥感に駆られながら急いで実家へと帰省しました。家には食卓に一人ポツンと表情を崩さずに一点を見つめている母親がそこにはいました。母親はaさんに気付くなり、一連の流れを説明してくれました。


「今朝の5時半ぐらいだったかな、誰かがピンポンを何回も押すもんだから私それで起きちゃってね、最初はあんたが帰ってきたのかと思って、aなの?って聞いたら警察だって言うのよ、私もびっくりしちゃって戸を開けたら、刑事さんがいてお父さんはいるか?って言うのよ」


「それ逮捕状が出てたってこと?完全に犯罪者じゃない…何で買春なんか…」


「うん…でもお父さん、連れてかれる時に俺はお金渡しただけだって言ってた…だからお母さんもよく分からないの、向こうの子とあの人との何か食い違いがあったのかもって」


「食い違いって、そもそも未成年の子に何でそんなお金なんか渡す必要があるの!?」


「……あの人はね、弱い人なの、私が側で見てないと何しだすか分からないのよ」


 aさんの母親は少し物悲しそうにそう呟いたそうです。

aさんはこの母親とのやり取りで父親が私の知らないところで以前にも似た様な事をしてたのではないか?そう思ったそうです。そして続け様に母親はこう言ったそうです。


「人はね、心がどこか遠くに離れた時に邪なモノが寄ってきやすくなるの。あんたもこれから先の人生、色んな辛い出来事があると思うけど、辛い時こそ落ち着いて自我を保たなきゃダメよ」


 今回の事件を通して母親はaさんに処世術というものを教えようとしたのだろうけど、aさんはその時の母親の話を"言葉通り"に受け止めていたそうです。父親は何か良くないモノに憑かれていたのではないかと、前にaさんが目にした父親の奇行もきっと母親の言う邪なモノに憑かれていたからそうなったんだと、自分の中でそう言い聞かせていたそうです。そして、そんな弱かった父親を理解し寛大な心で見守っていた母親の強さに改めて気付かされたのでした。

 その日、父親の事で大変な一日だったaさんですが久々に母親と会い、話をしていてとても良い気分転換になったそうです。つい実家の居心地の良さにゆっくりしてしまい、気付けば日が傾きかけていたので、そろそろaさんが帰路に着こうとしました。すると母親が部屋の奥から箱入りの日本酒を持ってきたそうです。何でも少し前に夫婦で北関東の方に酒蔵見学をしに行ったそうで、その時、試飲した純米吟醸がaさんの母親にはドンピシャにハマりお土産に買って帰ってきたそうです。しかし、aさんは明日の仕事に差し支えるからと、また近々、顔を出しに来るから次の機会にしようと母親に言いました。母親はもう少しゆっくりしていってもいいじゃないかと執拗に酒を勧めましたが、aさんはそれを拒み、母親に言い聞かせてその場はお開きになりました。

 aさんは帰る前に一度、身なりを整えようと洗面室に行きました。髪をとかし化粧品をバッグから取り出そうとした時、居間の方で何やら

 

 ビチャッ…ビチャビチャ…

 

 と水の垂れる様な音が聞こてきました。aさんは何事かと思い、居間の方に行くと母親が先程持っていた酒瓶を真顔で、高らかに、両手で逆さまに持ち上げて、ひたすらに床に酒を溢していました。いや、注いでいたと言うべきでしょうか、何にしてもaさんは唐突な母親の行動に言葉を失い、ただただその場を見てる事しか出来ませんでした。そして酒が全て注がれると、母親はゆっくりと膝をつき顔を床に伏せて、その酒をペロペロと舐め回していたそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心そこにあらず 放逸兎 @insane_age

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ