第25話 焦げた匂い
「ごほっ、お゛あッ……、う゛っ……!」
「に、兄さん。本当に大丈夫なんですかっ?」
「はは……。へ、平気だって……そんなに心配すんなよ」
便器から顔を引きあげながら、乾いた声でそう返した。胃の奥からこみあげてくる不快感と、鼻腔こびり付いてしまった焦げたような匂いを吐き出そうと俺は何度も便器に向かって嘔吐く。
「ごほッ、う゛っ……」
「あ、あの……。お水、持ってきましょうか……?」
「いや、いい……。すぐ落ち着くから」
「でも……っ」
玲華は心配そうな声で扉を弱々しくノックする。俺はまだ胃の中に残っていたものを吐き出して、呼吸が落ち着くまでその場にうずくまった。
手を洗ってトイレを出ると、コップを持った玲華が寂しげな表情で待っていた。
「兄さん、これ……」
「ああ、わざわざありがとな」
俺は手渡されたコップの水を一気に飲み干し、軽く息衝いた。そんな姿を見て安心したのか、玲華は俺の胸に飛びついてくる。
「ちょ、玲華……?」
「ごめんなさいっ!料理、お口に合わなかったですよね……」
「え……。ち、ちげーよ。別にマズくて吐いちまったわけじゃなくて……」
「……兄さんは優しいから、そうやって嘘をついてくれてるんですか?」
「違うって。玲華は関係ないから安心しろ」
俺は玲華の肩を掴んで、目を合わせた。彼女は涙袋が少し腫れているようで、しゅんとした表情でこちらを見つめてくる。
「じゃあどうして吐いちゃったんですか……?もしかして、苦手なものが入ってたとか……。はっ、もしやアレルギーですかっ!?」
「だーもう……、いっかい飯から離れろって……。昔のことをいろいろ思い出しちまって、その……気分が悪くなっただけだから」
頬を掻きながらそう答えると、玲華はきょとんとした顔で見つめてくる。鳩が豆鉄砲を食らったような顔という表現は、この時のためにあるのだろうと思えるほどだ。
「ご、ごめんなさい。私ってば、てっきり何かしちゃったのかと……」
「玲華、このくらいで謝るなっていつも言ってるだろ」
「あう、すみません。じゃなくてっ、えと……」
「はぁ……。俺の方こそ、心配かけて悪かったな」
「ううん、それはいいんです……。だけど……」
玲華は弱々しく俺の背中に手を回して、胸に顔を埋めてきた。彼女の頭を撫でながら言葉を待っていると、やがて玲華が口を開いてくれた。
「……私、改めて兄さんのこと何も知らないなぁって」
「玲華……」
「大好きな人ですから、本当はもっと兄さんのこと知りたいんですっ。でも私義妹なのに、兄さんが昔どんな境遇だったのかもよく知らないですし……。いまさら色々聞くのも怖くて……」
玲華は勇気を振り絞るように、俺を見つめてそう言った。まだ潤んだその瞳を見て、思わず罪悪感に駆られてしまう。俺とて、玲華に隠し事がしたいわけじゃない。ましてや彼女の好意を受け止めると決めた今、そんな意地悪をする理由がないのだから。
「……あの、迷惑だったら無理にとは言わないです。でもご飯は作るので、アレルギーとか苦手な食べ物くらいは全部教えてほしくて……ひゃっ!?」
「迷惑なわけないだろ」
俺は玲華を強引に抱きしめ、耳元で言葉を続ける。
「俺の方こそ隠し事はなるべくしたくないし、玲華の事だってもっと知りたいと思ってるよ」
「ひゃ、ひゃい……」
「だけど……すまん、昔のことはあんまり思い出したくないんだ。いや、思い出せないの方が近いんだが……」
これは事実だ。仮に思い出したくても、俺は過去の事を思い出せないでいる。行方知れずの親父の事だって、あんなお袋でさえずっと口を閉ざしたままだ。俺が俺自身の事を思い出そうとする度に、焦げた匂いが脳内に靄をかけて……。
……いや、考えるのはよそう。過去に囚われたってロクなことにならない。考えるべきは、これからどう生きていくかだ。
「に、兄さん……」
「ん?」
「ちょっと、苦しいかもです……」
俺はハッとなって玲華を離す。どうやら無意識のうちに腕に力を込めてしまっていたらしい。
「わ、悪い。つい考え込んじまって……」
「ううん、平気です。でも、あんなに抱きしめながら耳元で囁かれると、胸の奥が痛むといいますか……///」
「なっ、やっぱりどこか痛めたのか!?」
「な、なんでもないですからっ!とにかく、兄さんが思い出したくない事は無理に引き出したりしません。その代わり、辛い時は私を頼って欲しいです」
「ああ、もちろん頼りにしてるとも。いまだって、お前と抱き合ってたら不思議と気持ちが落ち着いちまったし」
「ふふ、それなら良かったです。勇気をだして、ぎゅってした甲斐がありました」
玲華はえへへと、照れ笑いを浮かべる。だが俺も恥ずかしいことを言ったせいで途端に恥ずかしくなり、お互いに顔を見合わせて笑い合った。もう一度軽く抱擁を交わしてリビングに戻ろうとすると、なにやら廊下の奥から鋭い視線を感じた。
「……いつまでそこでイチャついてるわけ?」
「と、冬華……見てたのか」
「当たり前じゃん。中々戻ってこないから気になって覗いたら、なんか抱き合ってるし……」
ジト目でこちらを見つめる冬華。俺と玲華は顔を見合わせて、再度顔が熱くなっていくのを感じた。
「こ、これは違うんです。兄さんを慰めようとしただけで、別に抜け駆けするつもりは……」
「ふーん。裸見られた後なのによくそんなことできるよね」
「あぅ……。お、思い出させないでくださいっ!」
「別にどーでもいいけどさ。はぁ、あんまり驚かさないでよね」
「冬華、心配かけて悪かったな」
「はぁ……?お兄の心配なんかしてないし」
「ふふっ、冬華は素直じゃないなぁ。本当は兄さんのことが心配だから、そこで佇んでたんですよね」
「ちがっ……。あたしはただ、その……トイレが空くの待ってただけだもん」
それだけいうと、冬華は顔を逸らしながらこちらへと向かってくる。思えばしばらくトイレを占有してしまっていた。吐瀉物を流した後のトイレを冬華に使わせる訳には行かないので、俺はドアの前に立って静止しようとする。
「ちょ、急いで掃除するから待っててくれないか?5分でいいから、綺麗にさせてくれって……うおっ」
トイレに入るのを引き留めようとしたところ、冬華はドアノブに目もくれず俺の胸にぽすんと音を立てて顔を埋めてきた。ツンとした塩対応が多い冬華にしては珍しい行動に、思わずたじろいでしまう。
「おい、どうしたんだよ」
「ん……。別に、なんでもないし」
冬華はそう答えると、俺の腰に手を回した。そしてそのまま、俺の胸板に頭をぐりぐりと押し付けてくる。もしや、これは甘えてくれているのだろうか。
「冬華まで甘えてくるなんて珍しいな」
「そんなんじゃないもん……。ただ、さっき嘔吐いてた時のお兄……あの時と同じ目だったから……。ちょっとだけ、怖かった」
「冬華……」
どうやら俺は、知らぬ間に冬華に怖い思いをさせてしまっていたらしい。あの時、と言うと暴漢から冬華を守った時のことだろうか。正直なところ、自分が何をしたのか、どんな目をしていたかなんてよく覚えていない。ただ……冬華を襲った奴に対して、殺意のような衝動に駆られていた事は確かだ。
「……怖がらせてごめんな。次からは気を付けるからさ」
「ん……」
冬華はそれだけいうと、俺を抱きしめる力を強めた。俺はそんな妹をそっと抱き留めながら、玲華の顔を横目に見る。彼女は俺に向かって目尻を腫らしたまま微笑みを返してくれたのだった。
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