あの女・2

「何だい、こンな所でひっくり返って。昼間っからささでも煽ってなさるのかい?」


人間の牝にしちゃァ随分と艶っぽい声で、旦那に声を掛けてきた。

旦那は絵の事以外はてんで朴念仁ときてるんで、目を白黒させちまッておどおどとするばかりだ。


や……俺は……腹が減って……」


「何だい、喰い詰め浪人かい? 仕方がないねぇ」


女は袂から饅頭を一つ取り出して、旦那に寄越した。

ついでにアタシにも畳鰯を差し出す。


「アンタ、この仔に礼を言ッときな。この仔があんまり鳴くんで、あたしゃ様子見に出たんだよ」


「かたじけない……」


何とも情けない声で礼を言うと、饅頭をもさもさと口に入れて……噎せ込んじまった。


「何やってんだい! 落ち着いて食べなよ」


女は背中を擦ろうと近付いて、何かに気付いた様に止まッちまった。

目を白黒させる旦那をまじまじと見て、豆鉄砲でも喰らった顔をする。

暫くして旦那が落ち着くと、女も正気付いた。


「全く面目次第も御座らぬ。折角斯様な施しを……」


「善いのサ、そんな事ァ。饅頭も畳鰯も、ご贔屓さんからの頂きモンだからね。其れよりアンタ、その額の痣はどうしたんだい?」


旦那の額の左ッ側に有る蝶々みたいな痣を指さす。


「生まれついて有るものだが……此れが何か?」


「……そうかい。アンタ名前は?」


「旗本の三ツ木家次男、三ツ木慎之介と申す」


名を名乗ると、女は驚いた様だ。

そりゃア其うだ、喰い詰め浪人だとばかり思ってた相手が直参旗本……ッても現代いまのお人にゃわからねぇでしょうな。

まァ金持ちのお侍の家だと思って下さいな。

そこの坊っちゃんときた。

驚くのも無理はないねぇ。


「何だってそんな家の若様が、こンな所で行き倒れてンだい?」


「俺は絵を描くのが好きでな、つい夢中に成ると寝食を忘れてしまう。この先の絵描きの師匠の家に向かう途中だったのだが……」


まるで悪戯を咎められた悪童みたいに小さく縮こまる旦那を見て、女はからからと笑った。


「仕方のないお人だねェ。アンタ、一体どんな絵を描きなさるんだい?」


「美人画を……其うだ、其方そなたを描かせてはくれぬか? 屹度きっと善い絵が描けるに違いない」


その女は婀娜あだっぽくはあったが、美しくも有った。

女に慣れぬ旦那が描く美人画にゃあ足りぬ、牝の質感が匂い立つようだ。


「描くのは結構だが、あたし寝子ねこも金猫。タダでは駄目だし、安くはないよ」


金猫ッてぇのは、吉原の公娼とは違って両国辺りの私娼の格の事でサァ。

金猫抱きたきゃ金一歩、銀猫抱きたきゃ銀ニ朱ってなもんで……そうさね、金猫が現代の3万円、銀猫がその半分くらいかね。


其方そなた遊女であったのか。では今宵そちらへ伺おう」


「正気かい、旦那。態々わざわざ絵を描く為に女郎買おうなんて!」


冗談だとでも思ったンだろうね、女はまたからからと高笑いしすったんだが、世間知らずの旦那の事だ。

真面目も真面目、大真面目と来た。


「何処へ訪ねれば善い? 俺は作法を知らぬ故、其方そなた教えては呉れまいか」


ポカンと口を開けちまッて、旦那を暫し見詰めると女は婀娜あだな笑いを浮かべた。

すぅと手を伸ばし、脇の建物をべんと叩く。


「此のときわ屋ッて云う猫茶屋で、若紫わかむらさきって女郎を買いたいと言って呉れりゃァ、話の通るようにしておきますよ」


「若紫とは大層な。まるで吉原の花魁の様な優美な名だな」

たかが私娼の名前にしちゃァ大仰で、さしもの旦那も驚いたようだが、若紫はふふっと嘲笑うだけだった。


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