あの女・1

旗本の次男坊なぞと云っても、この江戸の街じゃァ有り難くも何とも無ぇ。

天下泰平のこのご時世、裕福なのは大店おおだなのお大尽と金貸しくらいと相場が決まってらぁ。


それでもワタシのご主人は恵まれてる方でねェ。

先代が上手いこと遣って、だ力の或る内に大店おおだなの家だの、ちぃと離れたむらの地主だのに子供達縁付けて金に困らねぇ様にしちまった。

抑々そもそも直参で、比較的禄高も恵まれてる上にだ。


お陰で食い扶持に困ることも無くのんべんだらりと遣ってるんだが、この旦那困った事に少々道楽が過ぎる。

日がな一日家に籠もっちゃァ、絵ばかり描いていさる。

実家は長男が嫁御娶ったって云うんで、こんな長屋に独り暮らしに成ってからはまァ酷い有様で、時に依っちゃおまんま食うのも忘れちまう程なんで、こちとら腹と背の皮がくッ付くかと思う時すら有ったもんさ。


そんな旦那だが、勿論外に出る事だって有る。

家を出る時分はやれそばを啜るだの、近頃流行りの寿司を食うだのと云うが、外に出ちまえばうろうろと店を冷やかし、浮世絵ばかり眺めている。

チョイと首を捻っちゃァ、やれこの色が善いだの、背中せなの線が上手いだのとぶつぶつと云って絵の幾らかを買ってまた長屋に戻っちまう。

猫のワタシからしちゃァ、そんな物より畳鰯の一枚でも囓った方が余程身になるッてぇのに……


然し何故かその日は勝手が違って、ふらふらと両国まで少し脚を伸ばしましてねェ。

でもまァまたおまんま食い忘れてたんで、そこで座り込んじまッた。

ワタシも何とかしてやろうと声張り上げて「にゃあにゃあ」と騒いだが、旦那ちィとも立ち上がらねぇ。

困り果ててた処にが遣って来たんでさァ。


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