続・学校に職場の上司がいる日常1
それは日溜まりのような暖かくて心地の良い記憶だった。
俺は車の後ろの席で揺られていた。
隣では妹が寝息を立てていて、俺の肩に寄りかかっている。
俺が小学一年生になったこの夏。俺と妹と母は自然を求めて、離れたところまで旅行に来ていた。
今は昼間にアスレチックや森林探検を楽しんだ帰りだ。
俺も妹も全身が汗だくになるまで動き回ったため、車に戻るころには疲れ果てていた。
妹は既に脱落して、俺も眠ってしまうのは時間の問題だった。
母が言うには、今夜は近くの民宿に泊まることになっているらしい。
まだ俺が寝ていないのはただのエゴだ。
ルームミラー越しに、運転席の人物の口元がこちらを向く。
「あら、寝ていなかったの? ルイ」
鏡に写っていた顔は母のものではなかった。
でも知っている顔だ。テレビに出てくる人にも負けない綺麗な顔に、吸い込まれそうになる魔性の瞳。
あれは――
「黒崎さん、起きてください」
耳の近くで囁かれた言葉が脳を刺激する。
何者かに起こされる形で俺は目を覚ました。
「おはようございます。移動教室ですよ」
最近多く耳にする透明感のある声。
眩しさに目を細めながらどうにか頭を起こすと、体を預けていた机の前に、古賀あさひが立っていた。
どうやら俺は授業に遅刻しそうなところをあさひに助けられたらしい。
「古賀っち早く行こうよ。遅刻するよ」
遠くからもう一人の女子の声がする。
電気を消したのだろう、ほのかに教室が暗くなる。
「うん、ちょっと待って璃子ちゃん」
教室の入り口の方に声を送り、それから慌ただしく言ってきた。
「チャイムにすら気づかないなんてよっぽど疲れているんですね。とにかく私は起こしましたから、ちゃんと第一化学室まで来てくださいね。いいですか第一化学室ですよ」
言い終えるやいなや、あさひは廊下に飛び出していった。
「……助かる」
古賀あさひと、璃子ちゃんこと横澤璃子なる女子。
貴島と決別したのは昨日の出来事だったが、既に明るくたち振る舞える程度にはメンタルが回復できたようだ。
二人の仲の良さがあったからこそ成せた手腕なのだろう。
クラスが別々であったのも大きな要因の一つかもしれない。
俺は授業に遅れない程度に急いで準備を始めた。
◯
結果的に、四限の化学の時間には間に合い、実験も不備なく成功させることができた。
その日の7限後のホームルームで、教室にやってきたセイラさんは表情を固くして、未だ会話を続けている生徒達にとあることを伝えた。
「来週にある体育祭で使用するTシャツのデザイン案が紛失してしまいました」
予定上では来週の土曜日に体育祭が開催されることになっている。
この学校の体育祭では、連合ごとにイメージに沿った意匠をTシャツにプリントするのが恒例であった。
そして俺たちのクラスの生徒がその大事な役割を請け負うことになっていた。
「どういうことだよ。昨日の内にやっておくという話だっただろ!?」
クラスからの不満が爆発する。
各々顔を向かい合わせて、直接口にせず、遠回しに教師陣の不手際を糾弾する。
セイラさんは全く動じずに状況を説明していった。
「紛失したのは昨日の水曜日です。教室の後方の壁に掲示してあった用紙が、放課後にはなくなっていたことが確認されています」
「やばくないかこれ。田村さん欠席しているし、新しく用意できないぞ」
男子が言うようにコンクールで賞を取ったことのある生徒がクラスにおり、デザインはすべて彼女に任されていた。複製することは難しい。
「期限は今週末です。それを過ぎれば当日に発送が間に合わなくなるでしょう。それまでにデザイン案の原本を見つけるか、代わりのデザインを誰かが描かなければいけません」
これを聞いてクラスメイトは口々に意見を言い合っていく。
「誰かスマホで撮っていないのか?」
「いちおう教室ではスマホ禁止だからな。ここで言うやつはいないだろ」
「誰か絵のうまいやつが思い出して書くしかなくね」
「田村さんが可哀想でしょ。病気が治って学校に戻ってきたら自分の描いたものから誰かが描いたものにすり変わっているのよ」
「たしかに~」
最初はいかにリカバリーするかという方向性で進んでいたが、次第に責任を誰かに求めるような発言が増えていった。
「ていうか急になくなるのはおかしくね? 絶対誰か盗んだだろ」
「わかる私もそれ考えてた」
「他連合のやつじゃねえか? 田村がいるだけでデザイン賞はとったようなものだしな」
セイラさんは彼らをとがめるようなことはせず、ただ現状を説明していく。
「最悪無地のまま発注してもいいと担当の先生から話を伺っています。この話は以上ですが、考えがあるという人は私のもとまで来てください」
生徒任せにするような発言だった。
その後は何事もなかったかのように通常のホームルームに入り、連絡事項を言い終えると教室を出て言ってしまった。
教室は静寂に包まれていた。
ややあって、誰かが話し始めたのを皮切りに、ざわめきが広がっていく。
どれもこれもが『大変なことになっている』という認識を共有するものばかりで、明確な解決策を見出そうという発言はほとんどない。
誰もが責任を負いたくないのだ。
これはデザイン案が紛失したことに対するものだけではない。既に失敗が確定しているような案件をわざわざ受け持ちたくないという心情が前面に出てきている。
このクラスだけの問題ではない、体育祭の連合の成績が掛かっているのだ。
そんな中である一人の女子が立ち上がった。
「みんな今日はとにかく解散しましょう。ここでぐだぐだしていても何も生まれないわ。とりあえず、田村さんに新しく描けるかどうか聞いてみるから。明日しっかりと話し合いましょう」
あさひの友人である横澤さんだった。記憶によれば学級委員だったはずだ。まさにその立場の人間に相応しい行動をしている。
自然とクラス中の視線が彼女を中心に集まる。
彼女をあさひは心配そうな顔で見ていた。
それもそのはず。まだ彼女の心傷が癒えていないのは自分が一番分かっているのだろう。
「はい! 解散!!」
手のひらを打ち合わせた音に促され、徐々に人が動いていく。
浮いた表情の者は誰一人いない。
俺も人の流れに合わせて教室を出た。
◯
教室を出た俺はひとまずセイラさん会おうと思ったが、とある予定を思い出し、方向転換した。
そもそもセイラさんを探しにいったところで、会えるとも時間があるとも限らない。
校舎内を歩いて移動して4階の空き教室の前にたどり着く。
ここは俺が所属している文芸部の活動場所であり、毎週木曜日がその活動日であった。
扉を開けると、席に座って本を読んでいた一人の女子生徒が、勢いよく顔を上げた。
「ようこそ文芸部へ! ……って黒崎くんか」
「悪かったな新入生じゃなくて」
6月に差し掛かっているが、未だ我が文芸部は新入生を捕まえられずにいた。
同級生であり部長でもある倉持(くらもち)咲菜(さな)は、ガックリと肩を落とす。
「今年は厳しいんじゃないか? もう来年にかけたほうが賢明に思える」
「だめだよ。もし来年新入部員がいなかったら廃部だよ廃部」
去年俺が入部したとき既に上級生は部活を引退したあとだった。今年入部しなければ廃部が決まるという年に、俺たちは入学してきた。
「まあ私も黒崎くんが来ていなかったら今頃もう辞めてただろうし、悲しいかな時代の流れというものは」
部室に残された活動記録によれば、十年以上前は毎年文集が複数発行されるほど人が集まっていたらしい。しかし今ではこの通りだ。
倉持さんは頬に指先を当てて首を傾げる。
「でも『本学校に在籍する学生は何かしらの部活、またはそれに準ずる活動を行わなければならない』という校則を踏まえれば、一人ぐらいは入って来てもおかしくないと思うんだよね」
彼女は言葉を区切って体の向きを変えると、ジト目で俺の姿を射抜いた。
「去年の黒崎くんみたいに」
皮肉の混じった発言を俺は否定することができなかった。そもそも俺自身も文芸部に興味があって入部したわけではなかった。
部員が自分のみだったら活動しなくていいだろう、という低俗で安直な考えのもと、一年前の俺はこの教室を訪れたのだ。
そこで倉持さんに見つかり、あとは今の通りだ。
「そっかーもう一年以上も経っているんだー」
ぐっと腕を天井に伸ばしながら、倉持さんは感慨深く息を漏らした。
俺は荷物を机の上に置くと、彼女の正面の席に腰を下ろした。
「はい。今週書いてきたやつ」
「毎度毎度すごいな。俺には絶対に無理だ」
えへへ、そんなことないよー。と倉持さんは、はにかみながら頭をかく。
いつからそうなったのかは忘れたが、彼女が書いてきた小説を俺が読んで感想を言うというのが文芸部における主な活動内容となっていた。
「じゃあ早速」
俺はこの時間が嫌いではなかった。
彼女が描く物語に没頭していると、色々なことを考えずにいられる。
気づけば、毎週木曜日の放課後は、つかの間の休息時間になっていた。
「にへへ」
ただ、原稿用紙の裏側で変な顔をする癖は、集中力が削がれるので辞めて欲しいとずっと思っているが。
手元から数十枚の紙がなくなるまでのしばしの間、俺は読書を楽しんだ。
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