バイトでクレーマーを撃退したらなぜか探偵事務所にスカウトされた4

「別に何とも思ってないわよ。顔を上げなさい」


 その言葉を信じて頭を起こすと、吸い込まれるような瞳と視線が交わった。


 今現在対面しているのは、つい先日スカウトを受けた探偵事務所の代表である紫月しづき世羅せいら。こうしてテーブル一枚挟んで向かい合うと、改めて住む世界が違う人間なのだと思い知らされる。


「もしあなたが私に負い目を感じているのだとしたら全くの見当違いよ。私が勧誘して、来てくれたんだもの。そこに不満を持つ必要性がないでしょう?」


 探偵と名乗っているだであって、合理的な考え方をしている。ひとまず、機嫌を損ねて話をなかったことにされる心配はないようだ。


「昨日のアレもそうだったけど、妹のためにバイトを頑張るなんて優しいのね」


「そういうのじゃないです……家族なので助けるのは当然です」


 彼女はそう言ってくれるが、自己評価は全くの逆だ。

 目の前で困っている人がいても、身銭を切って助けるような行動はできない。


 先日のアレは俺が仕事中だったからだ。仮に俺が客としてあの場面に立ち会ったら、間違いなく見て見ぬふりをしていた。俺はそういう人間だ。


 そういった意味では紫月世羅こそ、お人好しにふさわしい人間だろう。

 探偵という特殊な立場であったとはいえ、あそこで俺に助け船を出してくれたのは普通の人にはできない行為だ。


「あなたこそどうして俺なんかを自分の事務所に誘ってくれたんですか」


 俺に金銭的な事情があるのを見抜いていたからだろうか。……いや、そんなはずはない。あの時点では俺の事情など知りようがないし、急にお金が必要になったのもあの後の出来事である。


 すると、ただの凡庸な高校生をスカウトした意図が見えてこない。


「簡単よ。私は君の目に興味があるの」


「目ですか?」


 物心ついてから今日まで目について言及されたことは皆無だ。日本人でも虹彩が青だったり緑だったり、あるいは虹色だったりする人がいるらしいが、俺自身は特徴のない黒である。


 いや、彼女が言っているのは身体的特徴のことじゃなくて――


「ふふっ」


 軽妙な含み笑いが俺の思考を現実に引き戻す。


「深い意味はないわ。はいこれ契約書。こっちは仕事内容とか給与形態とかいろいろ書いてあるから目を通しておいて。少しの間席を離しているから」


 立ち上がった紫月世羅は部屋の奥へ歩き、途中で振り返る。


「あ、分からないことがあったら何でも聞いていいわよ。もちろんこの契約は強制じゃないわ。もっとも君にとって悪い話じゃないと思うけどね」


 彼女が扉の向こうに姿を消したのを認めて、俺はようやく息をまともに吐き出すことができた。無意識の内にかなり気張っていたらしい。


 視野が一気に広がっていき、脳が空間の把握を始める。

 この部屋には俺がいま使っている相談所と見られる場所や、資料の散らばる仕事机、それと背丈ほどの本棚が目についた。空調はもちろんのこと、ウォーターサーバーも配備されており、事務所と言われればなるほどと頷く様相を呈している。


「自宅と兼ねているのか?」


 通ることのなかった1階部分と、彼女が姿を消した扉の奥。そこがプラーベートスペースにあたるのだろう。


 よそ見はそこそこに、俺は渡された書面に目を通していく。

 ひとまずおかしなところはないようだ。基本的には来れるときに来て事務仕事を行い、時給制で換算されるとのこと。また初めの一か月は試用期間で、一か月たったタイミングで今後続けるか続けないかを判断するらしい。


 特徴的な部分をひとつ取り上げるとしたら、依頼達成時には別途で成果報酬が支払われるというところだろう。


 紫月世羅が言う『君にとって悪い話じゃないと思うけどね』とはこのことか。上手くやれば手っ取り早くお金が得られる仕組みのようだ。


 読み進めていくなかで気になる文言を発見する。


『勤務中は紫月世羅の言ったことは絶対厳守すること』


 判断に迷う部分だ。普通のアルバイトであれば上司の言ったことを守るというのはある意味普通である。しかし、紫月世羅とつくだけで途端に不穏な文言になってしまう。考えた結果、今は胸にしまいこんで後で聞くことにした。




「そろそろ決まったかしら?」


 十分弱時間が経って紫月世羅が戻ってきた。

 なぜか腕にスナック菓子を抱えて。


 スタスタと歩いて正面の位置に座り、スナック菓子をテーブルの上に広げた。

 既に口の開いている袋を持ってこちらに向け


「食べる?」


 と一言。眉をひそめて聞いてきたところを見るに、俺が呆然と見つめていたのを、欲しがっていたと勘違いしたようだ。

 突き返すのもアレなんで、ひとつまみ貰う。サクサクと歯ごたえが良い。塩味だ。


「で、決まった?」


 色々と考えていたことが霧散して何も浮かんでこない。頭を振り払うことで、飛びかけていた考えをどうにか手繰り寄せる。


「とても満足のいくものだったんですが、ひとつだけ気になることがあって」


 俺は例の部分を見せた。


「あ~それね! 難しいことはないわよ。私の話を聞いて、ただその通りに動けばいいだけ」


「たとえばどんなことが予想されますかね」


「ん~その時になってみないとなんとも言えないけど、私が入れと言ったら女子トイレにも入り、飛べと言ったら崖から飛び下りてもらうことになるでしょうね」


 脳が勝手にここから逃げ出す方法を考え始める。


「最後のは冗談よ。無意味な命令はしないから安心しなさい」


 その言葉を聞いてももはや安心できない。そもそも最後の言葉が冗談と言っているのであって、その行動に意味のある限りどんなことでもでもやらせると言っているに等しい。


 いやよく考えろ。


 こんなに高待遇な職場は探しても他にない。

 法に触れるようなことはさせないだろうと信じて、条件を飲み込むことにする。


「契約します」


「そうこなくっちゃ!」


 俺は書類に必要事項を書き込み、最後に印鑑を押した。

 これで完全に契約が成立したことになる。


「最後にお互いの呼び方を決めましょう」


「呼び方ですか?」


「ずっと二人称で会話するつもり? いちいちフルネームで考えるのも不便でしょ……そうだわ、私のことはセイラと呼びなさい。君のことはこれからルイと呼ぶことにするわ」


 なるほど、これがさっきの規約の施行対象のようだ。


「セイラさん……これでいいですか?」


「まあいいわ。これが最初の命令ね。勤務中は必ずこの名前で呼ぶこと。いいかしら」


 薄く微笑みかけるセイラさんの表情は、気を抜けば骨の髄まで虜にされてしまうような甘いきらめきに満ちていた。


「まずは一か月よろしくね」


 彼女は何か隠している。

 いま彼女について分かっていることで、それだけが確かなものだった。

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