第15話

 俺はドナテラの言葉に飛び上がった。


「なにを言い出すんだ! お前はただ単に首飾りに幻覚を見せられただけだろう!」


 慌ててドナテラに詰め寄る。こんなところでこれほど有能な協力者を失うわけにはいかない。それに俺のかわりに手を汚してくれる身代わりが消えては困る。


 だが、ドナテラはただひたすらに震えるばかりだった。その瞳には恐怖と絶望の入り混じったものがある。


「そういわれても、ダメなのだ。力を使おうとしても故郷の皆の顔が出てきて心をグチャグチャにかき乱されてしまう。」


 悲しそうな、憐みの視線をむけられているような気がずっとする。まるで自分の今までの凶行を非難するような、そんな視線をずっと感じるのだという。


「だからわしはもう駄目じゃ、使い物にならん。」


 ぶるぶると震える手のひらをみつめながら、ドナテラは告げた。


「もうわしは復讐が出来なくなってしもうた。」


 弱弱しく笑うドナテラに、俺はもはやなにも口にできなくなってしまった。


 これほどまでの恐ろしい力が首飾りに秘められているとは思いもしなかった。あれほどまでに教会を、勇者を憎んでいたドナテラが罪悪感に囚われるとは……。


 俺はもしもその力が自分に降りかかったらどうなるかを想像して震えた。


 金に執着できなくなった俺など、もはや俺ではない。あの首飾りに心を変えられてしまえば、その先に待っているのは清廉潔白な聖職者、死よりも恐ろしい末路だ。


「すまんがもうお主の勇者の暗殺は手伝ってやれん。これからはこの身が朽ちるまで海の底に沈んで腐っておるわ。」


 ドナテラが自らの体を水に変えていく。口封じをする間もなく、姿を消した。


 ドナテラが去った後、俺は頭を抱えた。これでより一層勇者の暗殺が難しくなる、あの得体のしれない首飾りについては絶対に対策が必要だ。


 ある意味でドナテラが俺のかわりに首飾りの犠牲になってくれたのは僥倖といえるだろう。もしも俺がくらっていれば一巻の終わりだった。


 俺はあらためて肉壁の大切さを実感しながら、どうやって首飾りの秘密を暴くか考え始める。そのころにはすでに用済みのドナテラのことなど頭から消えていた。




 水に姿を変えたドナテラはゆっくりと海にむかって地下を進んでいた。全身を無気力が支配している。


 とにかく疲れた、とドナテラはぼんやりとした頭で思った。


 今はともかく何も考えず海の底で揺蕩っていたい。それだけが今のドナテラの望みである。


 そう考えていたドナテラをしかし、次の瞬間衝撃が襲った。


 巨大な骨だ、巨大などくろに掴まれている。そうドナテラが気がついたころにはいつの間にか地下の巨大な空洞へと引きずり出されていた。


 ドンドンドンドンドン……。


  奇妙な太鼓の音が響き渡る。地下の巨大な坑道を何万もの死者の群れが歩いていた。ウジ虫の湧き、すっかり腐りはてた体を引きずってゆっくりと進んでいる。


 それを目にして、ドナテラはいったいなにが起きているのかすぐに理解した。


「偉大なる死者の王、アグランデレア……。」


 震える声でその名を口にする。


 かつて教会が隆盛を極めるよりはるか前、死と疫病をつかさどった古の神アグランデレア。


 ドナテラが目にしているのは今や魔王の腹心となり下がったそのアグランデレアが率いる死者の軍勢だった。


「海神の巫女か……。」


 地の底を這うような声が響く。巨大な王冠を身につけた骸骨が、輿に揺られながらドナテラのすぐ前までやってきた。


「アグランデレア様、光栄です。」


 ドナテラはすぐさま跪いた。


 目の前にいるのは自らの信奉する神よりもはるか太古からこの地に根差してきた偉大なる古神。ドナテラと比すれば格の差など火を見るよりも明らかだった。


「どうした、あの忌々しい魔都にて勇者暗殺の任についていたのではなかったのか。」


 アグランデレアが億劫げに体を前に乗り出す。ドナテラは一瞬ためらったのち、ことのいきさつを語った。


「なるほど、教会の中に内通者を見つけたはよかったものの肝心の勇者に力及ばなんだか。」


「申し訳ございませぬ、これもすべてわしの未熟がゆえ……。」


 偉大なる神の前で恥をさらしたドナテラは、ひたすら平身低頭に努める。そんなドナテラを慰めるように輿から降りてきたアグランデレアが肩に手をおいた。


「いいや、年若き巫女に重責を担わせたこの冥界の王の咎よ。実力がたりぬというのならそれはそれを任じたものに責があるというもの。己を恥じる必要などない。」


「ありがたきお言葉。……こちらの軍勢はいったいどこへとむかわれているので?」


 アグランデレアの慰めに感謝の意を表しつつも、ドナテラは気になって仕方がないことを問いかけた。


 アグランデレアは先の勇者との戦いにおいてすさまじい傷を負い、消失の危機にまで陥ったはず。その後は療養と軍の回復のため表には出てきていないはずだった。


「いやなに、愚かな教会が政争でいくつか戦いをしていたおかげで思ったよりも早く軍勢が整ってな。これから教会に一泡吹かせにいくのだ。」


 アグランデレアの瞳にほの暗い憎悪が宿る。その暗い感情はさざ波のように死体の群れに伝わり、行軍をぴたりと止めさせた。


「三百年もの眠りの間、この冥界の王はずっと怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。せめて此度はあの憎き教会の大聖堂を吹き飛ばしてくれよう。」


 アグランデレアは魔王の配下の中でもひときわ教会を敵視している古神だ。


 自らを信奉する王国を滅ぼされ、神像の目の前で王族を皆殺しにされた恨みがアグランデレアを狂気の復讐へと駆り立てている。


「むろん、いろいろと工作はしてある。教会の中の勢力争いをうまく利用して内通者をいくつか拵えた。むこうからすればこちらは政争の具なのだろうが、そう侮っている間に教会を炎の底に沈めてくれようぞ。」


 アグランデレアの憎しみが地下を満たした。ドナテラですら体が震えるほどの怒りだ。


「勇者はこの冥界の王にすべて任せよ。必ずや血祭りにあげてやろう。」


 暗い笑みを浮かべているアグランデレアを見つめながら、ドナテラは胸の奥にチクリと痛むものがあった。


 ドナテラはアグランデレアを尊敬している。死という忌み嫌われるものと司りながらも卑屈にならず、常に公正明大な神であり続けていた。


 だが、首飾りの光を目にした今のドナテラには、アグランデレアは過去の妄執に囚われているだけのように見えてしまっていた。


 聡明で賢明な地下の支配者であるアグランデレアは、もうすでに何人教会の枢機卿を殺そうとも自らの信者は生き返らないことなど身に染みて理解しているはずだ。


 それなのに、それに気がつかないふりをして沸き立つ憎しみに身をまかせ、復讐という快楽に逃げている。その先に待つのは相手と同じ次元への堕落だけなのに。


 そして、こんな考えを浮かべてしまう自分がなによりもドナテラは恐ろしかった。


 聖剣など比べ物にならない。あの首飾りは確かに傷をつけてはこないかもしれないが、こちらの心をじわじわと侵食してくる。


 これ以上なにか余計なことを口走らないようその場を去るのでドナテラは精いっぱいだった。


 地下の坑道は再び命ない者たちで埋めつくされる。暗黒の感情に囚われたアグランデレアは再び自らの軍勢に行進を命じた。

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