第9話
あの誘拐騒ぎの後、俺はなんとかロドリゲスを説得して父のもとに匿ってもらうことにした。
こうしておけばシャノンとのつながりが生まれるだけではなく万が一の場合の人質ともなる。どう転んでも損にはならない素晴らしい判断だ。
だが、それはそれとして今の俺はもうひとつほかに大きな問題に直面していた。
いつもの講義、シャノンの隣に座った俺はひたすらにその顔を伺い続ける。
背後からサンティロンが睨みつけてくるも、そんなことはどうでもいい。シャノンの様子が例の誘拐騒動から完全におかしくなってしまっているのだ。
机の上に教科書を出すこともせず、ただひたすらにぼーっと宙を眺めている。
俺がいくら話しかけても返事はなく、まるで生ける屍のようにただ睡眠と食事を繰り返すだけの日々を送っているのだ。
完全に元気というものを失い、いつも教室の隅っこに座っているシャノンはもはや廃人同然だった。
金の力で無理矢理教皇の座につけようとしても、当の本人であるシャノンがこの調子ではまず間違いなく失敗してしまうだろう。
俺は自らの犯した痛恨の過ちをひどく後悔していた。
恐らくロドリゲスに蝶よ花よと大切に育てられたシャノンにとってくだんの誘拐騒ぎはあまりにも精神に負荷がかかってしまったのだ。
聖イグラネウス修道院で過ごしている間に感覚がマヒしてしまったらしいが、一般の人間は自害を要求されれればかなり心にくるものがあるのだろう。
あの時、妙に機会を見計らうなどせず、そのまま小屋の中に立ち入ってしまえばよかったのだ、俺は唇を噛む。
まずいぞ、このままでは今までの出費がすべて無駄になってしまう。
俺は頭の中でシャノンに貢いできた金貨の枚数を数えて顔を青くした。ここまであれだけの金をかけてきたのだぞ、今さらパアになってたまるか。
賭博で泥沼にはまっていく人間の気持ちが今ならよくわかる。金への愛が深ければ深いほど、失った時の痛みというのはより激しくなるのだ。
「シャノン、大丈夫かい?」
シャノンに問いかけても返事はない。なにとぞシャノンが立ち直りますように、俺は天を仰いで祈った。
「はい、みなさん。それでは今日からわたしがこの授業を担当することになりました、グロリヤと申します。聖イグラネウス修道院で修道士をしていました。」
いつもの教室ではなく中庭に集まった生徒たちの目の前でグロリヤ師がニコニコと微笑んでいる。
神学校の授業はほとんどが座学なのだが、いくつかそうでないものもある。例えば礼拝の儀式を学んだり、ロンデルニウム内の聖堂を巡ったり。
グロリヤ師が教えるのもそういったもののひとつで、修道士などが行っている修行と瞑想の術についてなのだそうだ。
正直なところ普段から時間をみつけてはグロリヤ師と修行を行っている俺としてはこんなものよりもシャノンに媚びを売るほうが百倍有益なのだが、仕方がない。
「もしかして、あのグロリヤ様なのか?」
「いったいどうしたのでしょう、先代の教皇のときはお断りになったと聞きましたよ。」
というかなぜか周りが騒がしいな。ざわめいている生徒たちを押しのけて俺はミレンのもとまで近づいた。
「おい、グロリヤ師がいったいなんだというのだ?」
ミレンの耳元に口を寄せて尋ねる。ミレンは呆れたようにこちらをみると、その訳を教えてくれた。
「アドライト、君は弟子なのに知らないのかい? グロリヤ師は数百年前に先代の勇者ジョンが魔王を討滅するのにつき従った英雄で唯一今も生きている人なんだよ。」
グロリヤ師があのジョンとかいう胡散臭い勇者の仲間? 俺はにわかに信じがたいその話に小首をかしげた。
「いや、そのジョンとやらが死んでからもう二百年くらいは経っているわけなんだろう? 冷静に考えてそんなに長生きできるはずがないじゃないか。」
「いやいや、いつも信仰に不可能はないっていってるのは君だよね。まぁ、伝説の中の人物なんだから人には言えない秘密の一つや二つはあるんじゃないかな。」
俺がミレンと話をしている間に、グロリヤ師は自己紹介を終えたようだ。
「それでは、今からわたしの修道院で広く行われている修行について説明をいたします。どなたか手伝ってくださる方はいらっしゃいませんか?」
グロリヤ師の言葉に、俺はなにをしようとしているか理解した。しかたがない、普段はタダで修行をつけてもらっているのだ、たまには師匠の手伝いでもするか。
俺が重い腰をやっとこさのところで持ちあげて前に出ようとした時、横から割り入ってきた人影があった。
「その大役、僕にやらせてはくれませんか?」
突っ立っているシャノンにちらりと視線を送ったのち、サンティロンがグロリヤ師に詰め寄った。
なるほど、ここで高名らしいグロリヤ師に認知してもらって教皇への道を固めたいというわけか、悪くないな。俺は心の中で思わず称賛を贈った。
自らの目的を満たすために権威であれなんであれ利用しようとするその姿勢は褒め称えられるべきであろう。
「まあ、これは親切にどうも。せっかく名乗り出てきてくれたのでお願いしますね。」
感激したかのようにグロリヤ師が両手をあわせる。そしてその背後にあるものを指さした。
「では、これを殴って砕いてはくださりませんか?」
「……え?」
サンティロンが一目見て固まる。そこに転がっていたのは荒々しく尖っている岩だった。周囲のざわめきが大きくなる。
「あの、これを殴れってことですか? なにかの比喩や暗示を含んでいるわけではなくて?」
「ええ、そうです。ただ殴って岩を粉々にしてください。」
グロリヤ師が笑顔でサンティロンを急かしたてる。その表情はまるでサンティロンが触れでもすればすぐさま岩が爆裂することを疑ってすらいないといった風だった。
サンティロンがごくりと唾を飲みこんで、目の前の岩をみつめる。
なにをそんなに迷うことがあるんだ? 神への信仰心とやらで枯れ木のような老婆のグロリヤ師が出来るのだから、サンティロンだって出来て当然じゃないか。
「うわぁー、ほんとうにあの修道院って浮世離れしてるんだなぁ……。」
ミレンがひいたように俺をみつめている。その表情は若干ひきつっていた。
「っ! やあっ!」
やがて覚悟を決めたサンティロンが拳を握りしめ、気の抜けるような掛け声とともに岩を殴りつけた。
グシャリ。
残念なことにいろいろと砕けたのは岩ではなくサンティロンの骨のほうのようだった。声にならない叫びを口にしながらサンティロンが腕を抑えてうずくまる。
「あれ、おかしいですね。普通の岩を持ってきたはずなんですが。」
「頭では理解していたつもりだったけど、グロリヤさんって本気でできるって信じてたんだ……。」
グロリヤ師が心底不思議がっているように首をかしげる。隣からミレンの震えた声が聞こえてきた。
「そうですね、他の方で確認してみましょう。サンティロン様のほかにやりたいかたはいらっしゃいますか?」
グロリヤ師が生徒たちに声をかける。先ほどまでグロリヤ師に尊敬の視線をむけていた生徒たちは今や青ざめた顔で目があわないよう必死に体を縮こまらせていた。
「困りましたね、誰も手伝って下さらないとは。アドライト様、試してみてくださいませんか?」
グロリヤ師の頼みに嫌々ながら応じる。生徒たちの好奇心とほの暗い願望に満ちた視線が俺に送られてきた。
気に食わない俺がサンティロンのように悶絶することを期待しているのだろう。
だが、そんなやつらに気を使う必要はない。普段通り俺は掌底を打ちつけ、岩を粉砕した。
周囲の生徒たちの目が驚愕で彩られる。今まであった話し声がぴたりと止んだ。
「グロリヤ師、べつに特段固い岩というわけでもありませんでしたよ。このまま授業を続けましょう。」
「そうですか、それはよかった。それではみなさん、こちらの岩にむかって一列に並んでください。」
俺がミレンのもとに戻ろうとすると、まるで目には見えない馬車が通り過ぎたかのようにさっと道が開けた。
周囲の生徒に畏怖の視線をむけれらながらも、俺はシャノンのことに思いを馳せざるを得なかった。
ここまで投資したのだ、なんとか元手だけでも回収しなければ……。
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