第7話
シャノンがぱちりと目を開く。そこは古びた小屋の中のようだった。
外で降り注ぐ小雨によって小屋の地面の土はぐじゅぐじゅの泥になってしまっている。こんな小屋をシャノンは知らなかった。
いったい自分はなぜここにいるのか、シャノンは周囲を見渡す。
すると、シャノンと向かいあうようにして父であるロドリゲスが椅子に縛りつけられているのを目にした。
「お、お父さん……?」
シャノンが懸命に呼びかけても、いっさい反応しない。焦りだけが募っていくシャノンの前に、一人の覆面の男が姿を現した。
「シャノン、であっているな。」
底冷えするような声でシャノンを詰問してくる。たまらずシャノンが首を縦に振ると、その男はそうかとだけ呟いて、短剣を取り出した。
シャノンが口を挟む間もなく、鋭い刃がロドリゲスの足を貫く。
「ガアアアアアアッ!」
あまりの痛みに今まで気を失っていたロドリゲスが絶叫した。そのまま体を前に傾けて、脂汗を流して痛みをこらえている。
「な、なにをするんですか……!」
シャノンは目の前の凶行が理解できないように、覆面の男に問いかける。その目は恐怖と混乱でいっぱいになっていた。
「シャノン、貴様は本来選ばれるはずがなかった教皇候補の座に我々教会を騙してついた、そうだな?」
「え……?」
あまりにも突拍子もない言葉に当惑するシャノンをみた覆面の男はそのままロドリゲスの足の傷口を狙って蹴りつけた。
また小屋に男の野太い叫び声が響く。
「神は富への執着を憎んでいらっしゃる。それなのにも関わらず神は寛大にも汚らわしい貴様ら商人の生をお許しになった。」
未だロドリゲスの血で濡れた短剣を、シャノンの頬にピタピタとあてる。覆面の男は淡々とシャノンに語りかけた。
「その恩を忘れ、あまつさえ教皇になろうなどというなど思い上がりも甚だしい。貴様ら商人ごときが神の地上の代理人に選ばれるはずがないというのにな。」
べったりと頬についたロドリゲスの血がシャノンの口の中に入ってくる。吐き気がするほど鉄の味が舌を刺激した。
「いいか、貴様の行いは悪魔の所業であり、貴様らは詐欺を働いて教皇候補の座を得たのだ。いいな?」
「わ、わかりました……。」
ロドリゲスに刃をかざされるとシャノンは青ざめた顔で頷くしかない。シャノンの返答を耳にした覆面の男は満足げに頷いた。
「そうかそうか、自らの行いの悪を認めたか。ならそのまま自害するがいい。」
覆面の男の言葉に、ロドリゲスがばっと顔をあげた。その表情は絶望に彩られている。
シャノンは未だ覆面の男の言葉を理解できていなかった。
自分で自分を殺すなど、今までで一度も考えたことがない。そんな恐ろしいこと想像もしたくなかった。
覆面の男が呆然となっているシャノンの手の中に短刀を握りこませる。
「一般に教皇候補の命を奪うことは出来ない、神の加護によってその身は守られているからだ。だが自害だけは別だ。罪を認めたのなら自らの命で贖うべきだろう?」
「シャノン、そんなバカなことはよしなさい! この男の言うことに従ってはダメだ!」
ロドリゲスがシャノンを止めようと叫んでいるのを覆面の男は腹を蹴りつけて黙らせた。
胃の中身を吐きだしているロドリゲスを指さしながら、覆面の男が嘲笑う。
「もしもだ、お前が自ら命を絶たないというのならその罪はここにいる愚かな父親に償ってもらうことになる。娘の咎は育てた親にこそあるのだからな。」
覆面の男が言外に告げていることをシャノンははっきりと理解した。この小屋から出られるのは父かシャノンのどちらかだけなのだ。
目の前の父をじっと見つめる。
幼い頃に母親を流行り病で亡くしてから、ロドリゲスの愛情をたっぷりとうけてシャノンはすくすくと育つことができた。
ありていに言えば父のことを愛しているのだ。
震える手が勝手に持ち上がっていく。信じられないようにこちらを見ているロドリゲスをできる限り無視しながら、シャノンは喉元に刃をあてた。
「ここであたしが死ねば……、お父さんは助けてくれますか……?」
涙を流しながら、シャノンが覆面の男に問う。男は含み笑いを返すだけだった。
シャノンを見つめる覆面の男の軽蔑の視線。その目つきにシャノンはどこか見覚えがあった。
そうだ、神学校のみんなの目だ。
シャノンが神学校に入ることになったのは、十歳の時に自らの名が聖堂の礼拝堂の石板に刻まれた時だった。
そして、当然のようにシャノンはのけ者にされた。
貧相な貿易商人の家柄だったシャノンは、周囲の高位の聖職者の子息子女からしてみればネズミのようなものだったのだ。
そして、なによりもシャノンを苦しめたのは、聖書のある一節であった。
『富に貪欲なる者は救われることはない。なぜなら心の底では神ではなく黄金をこよなく信奉しているからだ。』
この一文をもって、教会は商人は悪であり排斥すべき背教者として非難している。教会の権威が絶大なロンデルニウムにおいてそれは顕著であった。
そして、商人ばかりが集まって暮らしている街の端からその中心地までやってきたシャノンは初めてその思想に身を晒された。
ことあるごとに級友からは貪欲で強欲だとなじられる。例えば食事を他の者よりも多くとったとか、金の力で講師を誘惑しようとしているだとか。
皮肉なことにその級友たちのほうがはるかに富んでいたのだが、そのことは決して追及されることはなかった。
商人を罪人だと糾弾するその同じ口で聖職者は尊いものだとされているからである。
なにをするにしても非難されたシャノンはやがて教室の隅でひとり時間をなんとかやり過ごすようになった。
結局のところ、神学校には誰もシャノンの味方になってくれる人間はいないように思えたからだ。
明るかった性格は見る影もなく、口影も減っていく。
しまいには周りの言う言葉を正しいと思いこみ、自らが罪人であるとそう考えるようになってしまった。
商人は悪であり、その娘であるシャノンもまた悪なのだと、そう自己暗示をかけて端で縮こまる。そうすれば運次第で誰にも否定されずに済む。
シャノンにとって、神学校は単なる苦痛でしかなかった。
そんな日々の中のことだった、アドライトと名乗る少年が姿を現したのは。
生粋の聖職者の家柄なのにも関わらずアドライトという少年は違った。他の級友のように父のことを笑ったりなどせず、いつも親身になっていろいろ教えてくれた。
なにがあっても、たとえあのサンティロンと対峙してもいつもシャノンの味方でいてくれた。
今までずっと一人ぼっちだったシャノンにとって、それは救済だった。
辛くて苦しくて嫌で嫌でしかたがなかった神学校での生活も、アドライトがいれば救われた。久しぶりに日常が楽しく思えた。
まぁ、アドライトのきざったらしい態度はすこし気恥ずかしかったのだけれど。
それだけではない。むこうは覚えていないようだったが、かつてシャノンはアドライトに救われたことがあるのだ。
それは実に些細なことだったのだけれど、そのことを心の支えにしてシャノンは冷たい神学校での生活を日々しのいできていた。
そんなアドライトが目の前に姿を現し、自分に話しかけてくれる。
それだけでシャノンにとってはアドライトが救世主のように感じられたものだった。
だが、シャノンはアドライトに慣れてしまって自らが罪人であるという自覚を忘れてしまったらしい。
シャノンは眼前で鈍く光る刃を感情のない瞳で見つめた。
そうだ、忘れていた。商人の家柄である自分は神にも救われない悪なのだから、こうなってもまったくおかしくないのだ。
「どうした、はやくしないか。それともあのアドライトとかいう少年も連れてきたほうがよかったか? 別に殺す人間が二人になろうともかまわないぞ?」
覆面の男の言葉にシャノンは覚悟を決める。
暴れるロドリゲスを覆面の男が押さえつけている間に、シャノンはくっと手に力を入れた。
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