第二章 ロンデルニウム神学校編
第1話
「きゅ~……。」
ミレンが頭から煙を出しながら机に突っ伏している。なんと情けない姿だ、俺は鼻で笑ってやった。
「さすがは田舎者なだけはあるな、文字の読み書きもできんとは。」
「だって古代ロマニア語だなんて話したこともないんだもん。どうして教会の人たちは書き言葉だけよくわからない言葉を使うのさ。」
俺たち聖職者が読み書きするのは古代ロマニア語などとかいうすでに死んだ言語だ。なにしろ俗語は野蛮だというのだ、まったく理解できないことである。
「どうしてアドライトはそんなに完璧なんだい? ずるいじゃないか。」
「覚えておかなければ出世に響くからな。」
たとえ非効率なことでも金のためなら俺は喜んで学ぶ。
そうして講義室のど真ん中に陣取って情けないミレンにロマニア語を教えていると、背後からぼそぼそと影口が聞こえてきた。
「ああ、あそこにいるのが例の聖イグラネウス修道院の野蛮人たちか、ここまで牛臭い匂いがしてくるな。」
「大司教のご子息とはいえ北の辺境、さらに商家の下賤な血が混ざっているというではないですか、まったく汚らわしい……。」
「その隣のあの娘も見下げたものです。言葉を解さないとはまさしく蛮族ですね。」
俺たちをけなす言葉にミレンの顔がこわばる。なにを耳を貸しているのだ、あいつらは所詮枢機卿たちの家のボンボンどもではないか。
「なんだか学校ってもっと楽しいところだと思ってたな……。」
ミレンが机に突っ伏したまま呟いた。
「なんだか毎日毎日古くさくて難しい本を読まされてそれがどれだけ優れてるか賛美してるだけじゃないか。」
ミレンの言葉に俺は笑いをこらえた。愚かなくせしてなかなか本質を捉えているではないか、ミレン。
「そこの君、口を慎みたまえ。貴君には理解できないかもしれないがここで学んでいる古典は素晴らしい価値を秘めた名著ばかりで……。」
ミレンの言葉を聞きつけたのかなにやら苛立ったように食ってかかってくる背後の生徒を無視した俺は講義室にそっと入ってくる人影を捉えた。
「ミレン、ここから先はお前ひとりで頑張るんだな。」
「あ、ちょっと!」
ミレンを残して俺はすぐさまその隣に席を移す。にこやかで晴れやかな微笑を顔に張りつけながら俺は隣のシャノンに話しかけた。
「どうだい、昨日教えた『異端の告解』の解釈は理解できたかい?」
「う、うん……。わかりやすかった…です……?」
黒髪をだらりと垂らした根暗な雰囲気の少女がポツポツと口を開く。このシャノンという名の少女こそが俺が目をつけたあの日の教皇候補であった。
「その、あたしにかまってて……いいんですか? ミレンさん怒ってますよ……?」
シャノンが蚊の鳴くような声で背後で俺を睨みつけているのだろうミレンのことを話題に挙げる。
そんなことをして将来の教皇様の取り巻きからこぼれ落ちてしまったらどうするんだ。ミレンを殺すのは後でもできるだろう。
「いや、ミレンじゃなくて俺は君のことが助けたいんだ。」
俺はそのまますっとシャノンに銀細工の髪飾りを差し出した。
かつて父上の開く宴会で常に女に追い回されていた司祭の姿を頭の中で再現する。シャノンから全幅の信頼を置かれるような好青年を俺は演じる必要があった。
「これ、些細なものなんだけれど姉が無理やり送りつけてきてね。箱の中にしまって腐らせるわけにもいかないからもらってくれないかい?」
もちろん、姉など俺には存在しない。将来の教皇様への追加投資、もとい賄賂のために作り出した幻想の存在である。
「え、こんな高いものもらえません……。」
ふむ、これは駄目と……。俺は頭の中の長大な贈り物の表から髪飾りを削除した。だがここで高価なものを贈るのをやめるわけにはいかない。
将来にわたってシャノンから富を搾り取るためには最初のうちに恩をできる限り売っておくことが大切である。
そのためには今のシャノンでは想像もできないような高価な装飾品などを無理にでも送りつけ、義理で相手をがんじがらめに縛りつけなければならないのだ。
「そんなこと言わないで、俺を助けると思ってさ。」
俺がシャノンの手の中に握りこませようとしているその瞬間、脇からのびてきた手がその髪飾りをかすめ取っていった。
「やはりこれほど素晴らしい銀細工はこんなドブネズミみたいに醜いこの娘よりあなたにこそ似あうね。」
「ほんとうですか、サンティロン様! わたし嬉しいです!」
髪飾りを奪っていった青年が近くにいた少女の髪に飾りつける。そのままなにやらふたりだけで騒いでいた。
あ"……? その髪飾りは俺が将来の布石としてシャノンに贈ったものだぞ、サンティロンなどというよくわからん奴のために大枚はたいたわけがないだろうが。
俺とシャノンの間に入りこんできたサンティロンという青年に殺意がわく。俺の一世一代の賭けを邪魔しやがって。
「サンティロンとかいうのかな、その髪飾りは俺がシャノンに贈ったものだから返してほしいんだけれど。」
「ふぅ~ん、そうなのかいシャノン? てっきりシャノンは僕にこれをくれたんだと思っていたんだけれど。」
サンティロンとかいう青年がシャノンに笑顔で語りかける。その目は一切笑っていなかった。
「は…はい……。」
シャノンが体を縮こまらせながら頷く。
……いかんいかん、こらえろ俺。シャノンの臆病な立ち振る舞いに心の底からのいら立ちを覚えた俺はなんとか必死にそれを飲みこもうと努力した。
というか、このサンティロンとかいう男はいったいなんなんだ。どうしてこれほどまでにも取り巻きがいてチヤホヤされているのだ?
俺は気がつかれないようそっとサンティロンを観察した。
シャノンと同じ冠をかぶっていることから教皇候補の一人なのだろう。その金のかかっている身なりからして枢機卿などの有力者が背後にいるな。
なるほど、つまりは次代の教皇の最有力候補というわけか。
俺は合点がいった。それならば同じ教皇候補であり大司教の息子に近づかれているシャノンを警戒する訳が分かる。敵は少なければ少ないほどいいからな。
だが、俺は髪飾りを奪われたことを許すつもりはない。
戦いの術をなにも学んだことのないサンティロンから髪飾りを奪うことなど息を吐くより簡単だ。
一瞬の隙をついたからか、サンティロンは奪われたことに気がつくのですら遅れている。
その間に俺はその髪飾りをシャノンに挿した。
「やっぱりこの髪飾りはシャノンが挿して初めて映えるよ。」
歯が浮くような台詞を口にしてシャノンをおだてる。今まで口にしたことすらないような言葉に吐き気すら覚えているのを俺は隠した。
シャノンの頬にわずかに朱がさす。
どうやら効いたようだ。俺は心の中であくどい笑みを浮かべた。この調子でシャノンに俺のことを信頼させきるのだ。
「おい、貴君はさきほどのシャノンの言葉を聞いていなかったのかい? その髪飾りはシャノンが僕にくれたんだよ。」
「ごめんだけれど、聞いていなかったな。君の聞き間違いじゃないかい?」
サンティロンが俺のことを睨みつけてくる。所詮は花よ蝶よと育てられた世間知らずだ、例の竜の瞳と比べれば少しも恐ろしくない。
俺は鼻で笑ってやった。
「……後悔するぞ、貴君は必ず僕の前に跪いて許しを請うことになる。」
俺を脅しているのはどうでもいいのだが、どうにもこのサンティロンについて気になることがあった。
俺はしばらくの間頭の中を探る。そしてその訳を理解した。
この声に聞き覚えがあると思ったら先ほどミレンの言葉に反応して名著がどうのこうのと文句をつけてきたやつではないか。
……よし、そんなに古典が好きなのならこいつの教養とやらを試してみようじゃないか。
「『異教の王はわたしに跪くよう命じ、わたしは勝利を確信した、なぜならこの王は言葉を諦め権威にすがったからである。』、アレクシエス『異教の告解』より。」
「っ! 『誰として神に屈するを逃れることはできない。神の語る真理の前には何人たりとも口答えできず、跪くほかないからだ。』、マリセオン『神の解釈』より。」
「『なによりも気をつけなければならないのは神の名を軽々しく掲げ、こちらに服従を誓わせようとする詐欺師たちである。』、同じくマリセオン『神の解釈』より。」
「……。」
俺の引用に言い返すことができないのか、青い顔をしてサンティロンが黙りこむ。
なんだ、こいつ自分で古典が素晴らしいなどと語っておきながらろくに読みこんでもいないじゃないか。なんと哀れな頭の出来だな。
恥辱で顔を真っ赤にして睨みつけてくるサンティロンに俺はにっこりと微笑んだ。
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