第26話

 白色に照らされた山の斜面で、一人の修道士と一匹の竜が死闘を繰り広げている。


 竜の真紅の吐息と修道士の腕が交差し、瞬間それは黄金の雨あられへと姿を変えた。まるで英雄譚の一節を切り取ってきたかのように荘厳で美しい光景である。


 それを呆然と見つめながら、ミレンはただひたすらにうずくまっていた。


 竜の吐く灼熱の炎があの日を思い出させる。ミレンの父も母も友達すらも飲みこんで生まれ故郷が焦土と化したあの日のことを。


 あの日、一人だけ生き残ってからミレンは人間を避けるようになった。もう二度とこの村で起こったことが繰り返されるのを見たくなかったからだ。


 村が焼かれてから数年は火のそばに近づくことすらできなかった。肉を焼くたびあの日の怨嗟の叫びが耳を貫いた。


 どうしてもあの日のことだけは忘れたかった。


 あれからミレンは何度も村に足を運んだ。だが、荒れ果てた村の脇に墓をいくつかつくるだけで、すぐさまその場を立ち去っていた。


 ミレンは逃げていたのだ。あの日の惨劇から、あの炎の竜から。


 そんなミレンの目の前にアドライトという修道士の少年が姿を現した。そして、それはミレンを永遠に変えてしまった。


 故郷の人々と違って、ミレンのせいで引き起こされるどんな災厄からもアドライトは不遜な表情で助け出してくれた。


 片目を失いながらもコカトリスを討ち、勇者ジョンの試練を打ち破るのにも手を貸してくれる。そんなアドライトにミレンはどっぷりと漬かってしまった。


 今だってそうだ。勇者であるミレンを守ってアドライトが竜と戦っている。


 ミレンは背筋にゾクゾクとした感覚が走るのを覚えた。ミレンはもう戦わなくてもいいのだ、どんな時だってアドライトが助けてくれるのだから。


 ミレンはただアドライトにすべてを委ねて守ってもらえばいい。


 そんな甘美な誘惑にかられたミレンは、知らず知らずのうちに握っていた聖剣の柄から手を放そうとした。


 勇者なんか知らない。これからはただひたすらにアドライトを崇拝すればいい。ミレンの瞳が狂気に呑まれた危険な光を放とうとしたときのことだった。


「ミレン、逃げ出してしまってすまない! いまさら裏切りを許してもらえるとも思っていない。だが、せめてもの償いとして助力したいのだ。」


 山のふもとから鎧をまとったクリシェドが駆けてくる。自分がうずくまっているのを目ざとく見つけたクリシェドに、ミレンはどす黒い感情が湧いてくるのを感じた。


「なんだい、今ごろ君みたいな臆病者が来たって意味なんてないさ。アドライトがすべてなんとかしてくれる、君はお呼びじゃない。」


 なんなんだこいつは。ここにはミレンとアドライトだけがいればいい。心の底からの怒りと苛立ちをミレンは目の前の騎士にぶつけた。


 クリシェドが唇を噛むのをみて、溜飲が下がる。ミレンは自分でもなにを言っているのかわからないままにまくしたてた。


「なぜ今さらになって僕たちのところまで来たのかわからないけれど、僕たちはもうふたりだけでいい、君の入りこむ隙間なんてないんだよ。」


「……それでも、わたしはアドライトの期待を裏切ったことの償いをしなければいけない。」


 ミレンの言葉を最後まで聞き終えてもなお、クリシェドはアドライトの助太刀をするつもりらしい。


 アドライトと竜の戦っているところへ駆けるクリシェドの背中をミレンは憎々しげに睨んだ。


 なぜこの傲慢な騎士は自分とアドライトの仲を邪魔しようというのか。


 シャラリと聖剣を鞘から抜き放つ。憎悪に呑まれてミレンがその凶刃をクリシェドにむけようとしたその時、首飾りから青白い光が放たれた。


「っ!」


 その穏やかで柔らかい光を目にして、ミレンの心が鎮まっていく。自分がなにをしようとしていたかを思い出してミレンは身震いした。


 クリシェドを殺す? よりにもよって勇者である僕が?


 魂が抜け落ちてしまったかのようにその場に崩れ落ちる。ミレンはがくがくと体を震わせながら自らの正気を疑った。


 確かに自分がアドライトに執着してしまっていることはうすうす気がついていた、だがそのためにかつての仲間を手にかけるだと?


 一度吟遊詩人から愛に狂う騎士たちの物語を聞いたことがある。その時には意味がわからず父に笑われたものだが、今ではその気持ちがゾッとするほど理解できた。


 アドライトは自分のことだけを見ていてほしい、助けてほしい……。


 そんな浅ましい渇望に、ミレンは心底吐き気がした。


 こんなことを考えていてはいけない、とにかく他のことを考えなければ。口元を押さえながらミレンはふらふらと立ち上がる。


「……待ってくれ、クリシェド。僕もいくよ。」


「そうか、ミレンも来てくれるなら心強い。」


 目の前でほっとしたように笑顔を浮かべているクリシェドへの殺意を、ミレンは心の奥底へと押しこめた。




 目の前まで迫った竜の尾を俺はひょいとのけぞってかわす。眼前を通り過ぎていく鋭い鱗をみつめながら、俺は一歩前へと踏み出した。


 炎がちらちらと頬を掠める中を、突進する。


 驚いたようにこちらを見つめる竜の顔面に拳を叩きつけた俺は、ぐにゃりとなにか柔らかいものが潰れる感触に手ごたえを感じた。


 痛みと怒りがないまぜになった咆哮を竜があげる。


「なにを文句を言っている、これで片目どうしハンデなしだろうが。」


 潰された右目からだらだらと血を流しながら、竜がこちらを睨んでくる。満身創痍で立ち尽くしながらも、俺は思いっきり嘲笑してやった。


 怒りに燃える竜が大きく息を吸う。


 炎の吐息を吐きだすつもりだろう。俺は横っ飛びに逃れる用意をしようとして、途中でやめた。


「オオオォォォォォォォッ!」


 上空から重厚な鎧に身を包んだ騎士が飛びかかってくる。いきなりの乱入にあっけにとられている竜の背中にその騎士は長大な槍を突き刺した。


 背中から伝わってくる激痛に竜が悶える。


 その暴れぐあいに槍を抜いてそばの岩の上に着地した騎士に、竜の怒りにみちた吐息が迫る。


 だが、それが騎士を焼き尽くすことはなかった。


 その吐息の前にたつミレンが聖剣を空高く掲げる。短く息を吐きだすと同時に振り下ろされたその刃は炎の濁流を一刀両断にふした。


 その隙をついて俺は竜の首に掌底打をみまう。遠く吹き飛ばされていく竜を横目に、俺は騎士のそばに飛び降りた。


「なんだ、ビンタ女。愛が欲しいと父の教会まで逃げ帰ったんじゃなかったのか。」


「……いや、わたしはようやくわたしの過ちに気がついた。」


「ほう?」


 金を見下す者は誰であろうと俺の敵である。だからいつものように嘲って挑発してやろうとするも、珍しく殊勝な態度に俺は眉をもちあげた。


「正直なところ、わたしはまだ貴様の話を理解できていない。だが、愛されていないと子供のように駄々をこねていたわたしは間違っていることはわかった。」


「そうか。まだ金の有難みを理解できないとは筋金入りの愚か者だな。」


 とにかくそんな上等な槍を買い与えられて愛されていないなどとほざくことは止めたらしい。だが、金貨を信仰していない時点で意味はないな。


 そう俺が切って捨てようとしたところでビンタ女が口を挟んでくる。


「だから、教えてほしい。貴様の見る世界を、わたしが今まで知ろうともしなかった世界を。」


 キラキラと金貨が宙を舞う。ビンタ女が投げてよこしたその金貨の正体はすぐにわかった。俺がビンタ女に手切れ金として渡した金だ。


「代金はそれで足りるか?」


「……なかなかわかってるじゃないか、気に入った。」


 そうだ、初めからそうすればよかったのだ。


 欲しいのなら欲しい、知りたいのなら知りたい、そう明け透けに口にすればいいものをうじうじと悩んでいるのはあまりにも愚かしい。


 その欲望、意志の表れこそが金だ。


 今、クリシェドは知りたいという欲望を金貨で表した。ならばその意志に応えることこそが金貨を信奉する俺の役割だろう。


「だが、足りんな。俺の高貴で偉大な思想を伝授するにはこれっぽっちでは全く足りん。」


 俺は金貨を投げ返す。どうせここで受け取ったところで竜の炎でぐにゃぐにゃに曲げられてしまうのがオチだしな。


「クリシェド、俺は今お前の言葉に見どころを感じた。だからこの金はお前への投資だ。代金は出世払い、ツケでいい。」


「……ああ、わかった。」


 戸惑った様子のクリシェドが。この金はクリシェドへの投資だといったのは嘘ではない。


 クリシェドの父は教皇の選出権を持つ枢機卿の一人でもある大司教で、絶大な権力を手中に収めている。


 もしもその愛娘に俺の金に関する薫陶を授ければ、俺への利益はとんでもないものとなるだろう。教会内での出世街道は一直線間違いなしだ。


「まずはあの竜退治だ。金への信仰こそが無限大の力を生み出すところをお前に見せてやる。」


 それになにより、金を信仰する同志が増えるのを喜ばぬわけがないだろう。高笑いしながら、俺は解き放たれた竜の吐息にむかって手をつきだした。

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