第9話

「あ~、頭いてぇぇ……。」


 ダレスが呻きながら起きあがる。俺は酒場の机でパンを口にしながら声をかけた。


「起きたか、あの約束については忘れてないだろうな。」


「お前は誰だ…よ……。あ!」


 ダレスの顔がさっと青くなる。怒りに燃える妻の表情を目にしたダレスは昨日の出来事をすべて思い出したようだった。


「もちろん、今日にでも船を出してもらうぞ。」


「ダレス、あんたこの人に酒を奢られたあげくにとんでもないことを約束したらしいじゃないかい。とっとと船を出して責任とっちまいな!」


 酒場にかけつけた妻と俺とにつめよられたダレスは冷や汗を流しながら頷くしかなかった。


 波に揺れる小船に乗りこむ。ミレンはともかくとしてビンタ女は不安そうに乗りこむのを躊躇して船を見渡した。


「アドライト、本気でこの船でクラーケンとやらと戦うつもりなのか?」


「そうですぜ、クラーケンは船乗りにとって悪夢みたいな怪物でさ。こんな小船で戦うような相手じゃないですから考え直したらどうですか?」


 船乗りとしてクラーケンの恐ろしさをよく知っているダレスはよっぽど海に出たくないらしい。


「怖いのか、ビンタ女? なら試練の時のようにまた逃げるがいい。だが、ダレスには金貨を渡したのだ、やってもらわなければ困るぞ。」


「っ、なめるな! わたしとて誇りある聖領騎士団の騎士だ、タコの化け物ごときに怖気つくはずがない。あとビンタ女と呼ぶな、わたしはクリシェドだ!」


 べつにビンタ女がいようがいまいがどうでもいい俺としては親切心でそう助言したのだが、なぜか激昂した様子で船に飛び乗る。


 その後ろで俺にくぎを刺されたダレスはうなだれて帆をはった。


「それよりも貴様らこそ足をひっぱるなよ。アドライトはともかくとして、その召し使いのミレンとやらはどれほど戦えるのだ?」


「まあ、それなりには戦えるさ。」


 ビンタ女が八つ当たりするかのようにミレンに鋭い視線をむける。それをさらりと受け流したミレンは聖剣の柄に手をかけた。


 海からの風をうけてその小さな漁船はみるみるうちに港を離れていく。対岸にうっそうと生い茂る背の高い木々がどんどんと近づいてくる。


「なあ、ここらへんで引き返しやしませんか? 対岸に渡っても森がえんえんと広がってるだけですぜ?」


 ダレスは船が海を進むたびによりそわそわと不安がり始めていた。今すぐにでも引き返したいのを必死にこらえている様子だ。


「そういえば、クリシェドとやら。お前の用事とはいったいなんだ?」


「聖領騎士団からの命でな、北方にあるという伝説の聖剣の探索をしている。たしか北の深い谷の奥の岩に突き刺さっているとかでな。」


 ビンタ女が依然として俺に敵意を飛ばしながら口を開く。


 俺とミレンは聖剣という言葉に思わず互いに目をあわせてしまった。聖剣といえば今ミレンが腰に身に着けているものだ。


(ミレン、そういえばお前は聖剣をどこから持ってきたんだ? まさかあのビンタ女が言っている聖剣とはお前のそれじゃないだろうな?)


(……えっと、たぶんこの剣のことだね。だって僕が村の近くの谷に突き刺さってたのを抜いたものだから。)


 このミレンのやつ! 厄介ごとの予感がした俺は思わず舌打ちをした。なんでそんな大事なことを俺に黙っていたのだ!


(いいか、絶対にあのビンタ女にそのことはばらすな。必ず話がこじれるからな。)


「なんだ、なにか文句でもあるのか?」


 こそこそと話をする俺たちをいぶかしんだのか、ビンタ女がこちらを睨んでくる。ミレンが頷くのを確認した俺はなんでもないとばかりに首を横にふった。


「変な奴らだな? まぁいい、聖領騎士団は十年おきに優れた騎士をその谷へと送り、勇者となる資格があるかどうかを確かめるしきたりがあるのだ。」


「ほう、新米のお前が最も優れた騎士に推挙されるなど聖領騎士団の底が知れるな。」


「侮辱はそこまでにしろ。わたしは騎士同士のトーナメントを正々堂々と勝ちあがりこの地位を手に入れたのだ。お前らにとやかく言われる筋合いはない。」


 ビンタ女はどこか鬼気迫った様子で俺たちに言い返した。その目からはわずかに狂気が感じられる。


「そうだ、わたしはもっとも優れた騎士であるはずなのだ。今にみていろ、聖剣を手に入れた暁には貴様らなど―――――。」


 なにやらぶつぶつと呟いているビンタ女を放って、俺たちは周囲の海を見渡した。


 ちょうど小船は陸地と港との間のあたりまで来ているのだから、そろそろクラーケンとやらが現れてもおかしくないはずだ。


 しばらく周囲の海を見渡していると、遠くのほうで黒い影がこちらにむかってさざ波をたてながら近づいてくるのがみえた。


「おいダレス、あれはなんだ?」


「……鯨じゃねえ、もっと大きいもんだ。あれはきっとクラーケンだぜ。」


 ぶるぶると震えながらダレスがその正体を口にする。


 いよいよクラーケンと戦う時が近づいてきた。ミレンが聖剣を抜きはなち、いつでも切りかかれるようにする。ビンタ女も巨大な槍をかまえてクラーケンの到来を待ち構えた。


 真っ黒なその影が近づいてくるにつれ、その巨大さがよくわかる。


 恐らくはこの船の数十倍はあるであろう巨大なクラーケンは、船底を向こう側へと潜りぬけていった。


 クラーケンが通り過ぎる際に作り出した波だけで船が大きく揺れる。


「ダラス、船を全速力で右に走らせろ!」


「は、はひぃぃ!」


 俺が叫んだと同時、恐怖に駆られたダレスが恐らく今までの人生で最も素早く動いた。長年の航海でしみついた勘が風の流れを見事にとらえる。


 海風をきれいにとらえた船がすさまじい速さで右に動くと同時、クラーケンの巨大な触腕が海を割って飛び出てきた。


 水しぶきが船にかかる。その合間を縫って俺とミレンが飛び出した。


 クラーケンのぬるぬるとした触腕の上に飛び移った俺たちはこの機会を逃さないとばかりに暴れまわる。


 ミレンがその青白く光る剣閃を走らすたび、その触腕が面白いように断ち切られて海にぼとぼとと落ちていった。


 踊るようなミレンの剣術はまだ未熟なものの、勇者の名に恥じないものだった。


 負けじとばかりに俺も思う存分拳をふるう。俺の掌底がぶるぶるとした表皮に触れる度、弾けるように触腕が吹き飛んでいく。


 アッという前に海上に出した触腕を潰されたクラーケンはたまらず海中に逃げていく。


 さすがに海の底まで追撃はできない俺たちはいったん船に飛び戻ってきた。


「あ、あ、あぁぁ……。」


「ビンタ女、どうした? お前もサボってないで戦わんか。」


 なぜか船の上で腰を抜かして座りこんでいるビンタ女に俺は顔をしかめる。なんだこいつ、まさか討伐に参加せず楽するつもりなのか?


「アドライト、来るよ!」


 ビンタ女と呼ばれても反応できないほど怯えているのか、それともそれは単なる演技なのか俺が迷っている矢先に、ミレンが叫ぶ。


 見ると、クラーケンが自らの弱点である頭部をさらしてまで俺たちをとらえようと触腕をのばしている。


 到来した絶好の機会に、俺とミレンとは無言でも互いの意図を理解した。


 手袋を外した俺は、船にめがけてむかってくる無数の触腕のすべてを拳で叩き落とす。


 あまりにもの勢いに触腕を吹き飛ばされかかったクラーケンはそれでも俺たちへの攻撃を続けようとして異常に気がついた。


 触腕が、黄金に変わっていっている。


 このまま全身が金に変わることを恐れたクラーケンは自らの触腕を切り離し、水底に逃げようとした。


「ミレン、しくじるなよ!」


「いわれずともわかるさ!」


 その瞬間をついて飛び出したミレンは金に変えられた触腕を足場にして、跳ぶ。空中で体勢を整えたミレンが、クラーケンの両目の間に剣を振り下ろした。


「ああああああ!」


 ミレンの裂帛の掛け声とともに放たれた斬撃がクラーケンを両断する。


 船乗りの恐怖を一身にうけて海に君臨した怪物はそのまま海底へと沈んでいった。

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