いずれ深淵に至るもの

きざしよしと

第1話 夢見る少女は夢を見ない

 まだらな白いレンガが敷き詰められた街道を、革靴を履いた小さな足が軽快に叩いて駆けていた。ざわざわと密集する人の間を、なんともまあ器用に抜けて、少女は群衆の中心へと急ぐ。


 ボサボサの赤い髪を揺らした、白いワンピースを着た少女だ。大きなマカライトグリーンの瞳がきらきらと輝き、ふくふくとした薔薇色の頬は興奮に彩られている。


「お父さん!」


 やがて目的の男にたどり着いた少女は、両の手を伸ばして飛びついた。勢いをつけた渾身の体当たりだったが、男は怯みもせずに少女の小さな身体を抱き上げる。


「おかえりなさい!」

「おお、テオ。ただいま」


 いかつい鎧を着た、隻眼の壮年の男だ。白髪交じりの髪と、小じわの刻まれた顔からは男がそれなりに歳を重ねているのを感じるが、分厚い筋肉に覆われた肉体からは年齢にそぐわぬ生命力に溢れている。


「そ~れ、ぎゅ~っ!」

「お父さん、おヒゲ、やだぁ!」

「そんな~っ」


 抱き上げた愛娘に、顔を背けられて涙目になっているこの男は、ティルマン・シュトライヒという。


 島一番と謂われるほどの優秀な冒険者であり、少女――テオの父親だ。日夜ダンジョンに潜っては魔物を狩って日銭を稼いでいる。長期の間、家を空ける事も珍しくはない。

 そんな父親の帰りを待ち焦がれた利発な少女が、帰還の度に突撃してくるのは毎度のこと。親子のお決まりのやりとりを、周囲の人々は暖かい目で見守っていた。


「ティルマンさん、今回は何層まで?」

「今回はテアの初陣だったからな、20層までだ。土産もあるぞ」


 野次馬の1人に尋ねられたティルマンは、得意げに後ろの台車を指す。中を見物した人間は光り輝く鱗を見て驚きの声をあげた。


「クラインドラゴンの鱗だ! さすがはティルマンさん!」

「そいつはテアが仕留めたんだ。初めての獲物がドラゴン種とは運のいい奴だぜ」

「ティルマンさんの息子ですからね」

「がはは、違いない」


 豪快に笑うティルマンの後ろで、まろい頬をした赤毛の少年が、照れ臭そうに大剣を抱えている。嬉しいと恥ずかしいが交じり合った誇らしげな兄の顔を見て、テオは「兄さんばかりずるい」と頬を膨らませた。


「テオもダンジョンに行きたい。お父さんみたいな冒険者になるんだもん」

「……テオはまだ小さいからなぁ」


 兄は宥めるように笑った。聞き分けのない子をあやすように額を撫でられるのが気に入らなくて、テオはますます頬を膨らませる。


「もう10歳になったのに。兄さんみたいに15歳になったら連れていってくれる?」


 父は困ったように顔をしかめた。普段は豪快で思い切りのいい彼が、テオのこのおねだりにだけは煮え切らない顔をする。そうして嘘をつけないこの男は、小さな娘の頭を撫でて「すまないな」と低い声で謝るのだ。


「それはできないんだ」

「えっ」


 テオは冒険者の両親のもとに生まれ、自身も将来は両親と同じように冒険をするようになるのだと信じていた。見たこともない植物や生き物に心を躍らせ、まだ誰も到達したことのない深層へと挑戦する誇り高い冒険者になるのだと。

 けれど、どうやら父からするとそうではないらしい。


「テオ、お前はけして冒険者になるな」


 憧れの冒険者である父からの言葉は、小さな少女の夢に深く傷をつけたのだった。


***


 ズィーリオス島。

 島土の4分の3が巨大な円形の地下ダンジョンで出来ているこの島は、いつでも冒険者たちで賑わっている。腕試しか、宝探しか、それとも好奇心か……世界中の国々から夢見る荒くれどもが集まって来るためだ。


 テオは武器を携えダンジョンに向かう冒険者たちを横目で眺めながら、大衆酒場のカウンター席に座ってぼんやりとソーダをすすった。このしゅわしゅわとした甘い飲み物は大好物の筈なのに、彼女の気持ちは晴れないようだった。


「なんであんなことを言ったの?」


 少し離れたカウンター席の向かいで、恰幅の良い禿頭とくとうの男が、存外に高い声でティルマンを窘めた。馴染みの店主の前に座った少女の父親は、きまり悪そうに酒瓶に口を付ける。


「テオは冒険者には向かない」

「そうだとしても、何になるかはテオちゃんが決めることよ」


 ぴしゃりと叱ってくる馴染みの酒場の店主に、「お前は子どもがおらんからわからんのだ」とティルマンはわめいた。


「子どもにはなるべく安全な場所に居て欲しいと思うのは親としては間違ってないだろう」

「テアくんは連れて行くのに?」

「あいつは強いから……」


 口ごもる男に、酒場の店主は「本当に男って勝手ね」とため息をついた。


「無神経だし」

「……悪かったよ、メリエンヌ。許してくれ」


 ティルマンは素直に頭を下げて許しを乞う。


「私のことは別にいいのよ、でも」


 メリエンヌはちらりとテオの背中を見て「見てごらんなさいよ」と促した。

 テオの小さな背中はぼんやりとしていた。外を歩く冒険者たちを眺める彼女の背中は、どこか途方に暮れているように見える。


「なんてつまらなそうな背中なのかしら」

「……」

「あの子の心は誰よりも冒険者なのに、夢を奪うなんてあんまりだわ。――夢を失った冒険者なんて、ころものないフライドチキンのようなものでしょう」

「なんだよ、そのたとえ……」


 少女の父親はうめき声をあげて沈黙した。そうして、気まずげに後ろ頭を掻くと、カウンターに銅貨を置いて席を立とうとする。


「ちょっと」

「これから仕事だ。娘を頼むよ」

「帰ったらちゃんと話をするのよね?」

「……わかったよ」


 メリエンヌの苦言に手を振って応えて男は店を出て行った。すれ違いざまに不貞腐れた娘の頭を乱暴に撫でていく。テオは不服そうにしながらも、彼の逞しい背中に手を振った。見慣れた、いつも通りの背中。大好きな父の背中だ。

 危険をともがらに、冒険を夢枕に、未知へと挑戦をし続ける、逞しい冒険者のそれ。


 ――それが、彼女が見た、父親の最後の姿だった。


***


 それから幾年月が経った。

 少女は成長し、大人の女性になった。

 少しばかり背が伸び、顔立ちからは無垢な輝きが消え、代わりに理知的な光を帯びるようになった。白いワンピースが黒いバーテン服に代わり、今では店長に代わってバーカウンターに立つこともある。


 テオは変わらず冒険者が好きだった。店を訪れる客たちの武勇伝に耳を傾けているのが、社交辞令でないことを店長だけが知っている。


 冒険の話が好きだった。

 それと同じくらい冒険者になりたかった。

 父が死んだ後も。

 兄が島一番の冒険者とわれるようになった時も。

 その兄がついにダンジョンから帰って来なくなった時も。

 テオはずっと冒険者になりたかった。


 けれど、彼女がダンジョンへ潜ることはない。


 ダンジョンの入口に最も近い街の、小さな大衆酒場の窓辺に立ち、むっつりと黙り込んだ気難しそうな表情で、街を闊歩する冒険者たちを眺めるばかり。


『お前はけして冒険者になるな』


 今や遺言になってしまった父の言葉が、今でも彼女の心を縛り付けているのだ。


「つまらなそうな背中ね」


 そんな小さな背中を眺めていたメリエンヌが、沈んだ声で呟いた。

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