第2話 密約

「おい、けいた、かけっこしようぜ」


 両腕を組み、偉そうな口ぶりで、勝負を挑んできたソイツは、俺と同じバラ組で、クラス随一のお調子者、たけるだ。


 かけっこや腕相撲、たけるは何かにつけて俺に勝負を挑んでくる。今日の給食の時間、ご飯を一番たくさん食べられる奴が一番男らしいなどと言い出して、カレーライスの大食い対決始めるきっかけをつくったのもこいつだ。


 だが、たけるがいつも俺に勝負を挑んでくるその魂胆はわかっている。たけるはバラ組で一番モテる俺を負かして、自分がクラス一のモテ園児の座を手にしようとしているのだ。


 いつもなら正々堂々勝負を受けて、その見え透いた浅ましい思惑を正面から打ち破ってやるところだが、今日だけはその安い挑発に乗るわけにはいかない。


「今日は無理」


 俺はたけるに嘗められないようできるだけ余裕のある態度で答えた。


 おそらく、今かけっこをすれば、パンツの中のアレばかりに気が散って、走ることに集中できず、きっとたけるに負けるだろう。そうなれば、たけるを調子に乗らせることになってしまう。想像しただけでも腹立たしい。そんな屈辱は絶対に味わいたくない。


 それに何より、かけっこ中に万が一たけるに俺が漏らしていることがバレでもしたら、お調子者のたけるのことだ、まず間違いなくその事実を言いふらすに決まっている。


 そうなったら最後、俺のイメージは一気にがた落ち、みゆき先生にも幻滅され、残りの園児生活を惨めに過ごすことになる。そんなの絶対に嫌だ! 俺はいつまででも輝いていたい!


「おい! にげるのかよっ! 俺にまけるのがこわいのか?」


 遠ざかる俺の背にたけるはここぞとばかりに挑発の言葉を投げかけてくる。しかし俺は相手にしない。こんな安い挑発に乗せられて、最悪の展開になったらりしたら困る。俺は先を見越して行動できるクールなオトナの男なのだ。


 俺が早歩きでその場を立ち去ると、たけるは俺の背後を早足でついてくる。


「なんでにげんだよ。やっぱり俺にまけるのがこわいんだろ?」


「……」


「おい、なんかいえよ!」


「……」


 俺が逃げると、たけるが横に並んできて挑発してくる。それを振り切ろうと俺が速度をあげると、むきになったたけるがまた追い付いてきて吠える。



 それを繰り返しているうちに、最初は早歩きだったものが、気が付けば小走りに変わり、やがてほとんどかけっこしているのと変わらないくらいの速さになっている。


「よし、あそこのブランコがゴールな、さきについたほうがかちだ!」


 たけるはそう叫ぶと、俺を追い抜いてブランコの方に駆けだす。


 ああ! こうなったら付き合うしかない。仕方がないから、一瞬で勝負を決めてやる!


 俺はたけるの背を追った。しかし、やはりパンツが妙に重たいせいで、走ることに集中できず、俺とたけるの距離は縮まるどころか、徐々に差が広がっていく。


——これは勝ったな!——


 と言わんばかりに、たけるが余裕ありげにこちらを振り返り、勝ち誇った笑みを浮かべている。


—―くそっ! こんなことで負けてしまうのか。


 どれだけ悔しがっても速度が上がることはなく、俺が諦めかけたその時、


 それまでかなりのリードを有していたはずのたけるがブランコ目前にして一気に失速した。


 そして、小走りだったにも関わらず、俺はたけるを抜き去り先ににブランコに着いた。


「よおし! これで俺の勝ちだな」


「……」


 俺はガッツポーズをして、勝ち誇った顔でたけるを見てやったが、当のたけるはどこか青ざめた表情を浮かべ、プルプルと足を小刻みに震わせ、小さな歩幅でとぼとぼとゴールのブランコに歩いて来た。


「どうかしたのか?」


「な、なんでもない」


 さっきまでとはあまりにも様子が違うので、一応聞いてみてみると、たけるは平静を装ってはいるが、明らかに様子がおかしい。


「今日のところはおれのまけでかんべんしておいてやるよ。ちょっとようじがあるからじゃあな」


 それだけ言い残して、たけるはそそくさと立ち去ろうとする。が、立ち去る時も小走りでやっぱり不自然だ。そしてその動きはどこかで見覚えがある。


 そう、それはまさしくさっきの俺の走り方と同じだ。もしかして、コイツ……


「おい、たける」


俺は、遠ざかろうとするたけるを呼び止めた。


「おまえ、もしかして、もらした?」


「——!」


 たけるは恥ずかしさと恐れと怒りと屈辱と、いろいろな感情の入り混じり、今にも泣き出しそうなものすごい形相で、こちらを振り返る。


 図星のようだ。かけっこ中、いきなり減速していたから、たぶんその時に走っているはずみで漏らしたのだろう。


「だったらどうだってんだよ?」


 たけるにいつもの勢いはなく、酷く怯えた様子でこっちを見つめてくる。その姿を見ているとなんだか気の毒になる。


「じつはおれも——」


 たけるがあまりにも不憫でならないので、結局俺は自分も漏らしていることを伝えた。


「そうなのか!」


 たけるはほっとした様子で胸を撫でおろす。


 いつもはなにかにつけていがみ合っているが、今日のところは休戦だ。お互いに漏らしていることは誰にも言わないという密約をかわして、それぞれ別の方向に歩いていった。


 それから俺は改めて一人で腰を落ち着けられる場所を探した。


 すると山の遊具は丁度誰も遊んでいないことに気が付いた。そこは中腹がトンネルになっていて、そこにいれば外からはなかなか見えづらくなっている。外で遊ぶ時間が終わるまで、そこで息を潜めておくことにしよう。


 俺はしゃがみ、片側の穴からトンネルに入っていく。トンネルの中は日が当たらず、暗くてひんやりとしている。四つん這いになって進み、ちょうどトンネルの真ん中あたりまでやってきたところで止まった。ここなら、誰にも見つからずにやり過ごすことができるだろう。

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