オモラシ

都呂々 饂飩

第1話 X物質

ブリュリュ、


 ——あっ、まずい!


 それは唐突にやってきた。


 それは、俺がジャングルジムの中腹で右足を大きく上に広げた時に、何の前触れもなく俺のお尻から発された音だ。


 初めに鈍い異音が聞こえ、その直後、パンツの中は謎のX物質が紛れ込んだような不快感に襲われる。


 たった今、俺の穿く布地の中で起こった出来事、それは口に出すまでもない、いやむしろ口には絶対に出したくもない。


 だが、自分の身に起きた悲劇から目を逸らしていても事態は好転することはない。ここは状況を正確に把握するためにも敢えて言葉にしておこう。


——俺は、どうやら漏らしてしまったらしい。


 しかも、出た音と、お尻の中のドロリとした感触から察するに、もしかすると下痢かもしれない。なんでこういう時に限って下痢何だろう?


 とにかく、一旦落ち着こう。今はなぜを考えている場合じゃない。これからどうするか、が重要なのだ。


「けいたくーん、はやく、さきにいってよー」


 その時、俺の真下から間延びした声が聞こえてきた。


 下手に動いて二次災害を起こさないよう、俺は体をジャングルジムに固定したまま、首だけを動かして、声のした方を見下ろす。


 そこには、バラ組の友だち、ゆうとくんがいた。


 ゆうとくんは不思議そうにこちらを見つめている。そのゆうとくんの顔の目の前には、俺のお尻がある。


——まずい! においでバレる!


 俺はできるだけお尻に大きな衝撃が加わらないように気を配りながら、真下にいるゆうとくんを避けて、地面に降りた。


「えー、もう降りちゃうの?」


 ゆうとくんが不思議そうに今度はこちらを見下ろしてくる。その様子から察するに、俺のパンツのX物質については気が付いていないようだ。よかった。


 いつもならジャングルジムの頂上に居座っているのは俺なのだが、今はパンツの中のことが気がかりで、全然遊ぶ気分じゃない。


「今日は、ゆうとくんがぎょくざに座っていいよ。いつも座りたそうにしてたでしょ?」


「えっ、いいの?」


 ゆうとくんは嬉しそうにジャングルジムの頂上に到達すると、慎重に体の位置を変えてそこに腰かけた。


「うわー」


 ゆうとくんは俺の存在など忘れ、ジャングルジムの頂上から見える景色に感嘆の声を上げている。


 よしよし、今の間にここを離れて、とりあえず一人になれる場所を探しそう。一度、落ち着いて状況を整理するのだ。


 俺は運動場の隅の地面に埋められたカラフルなタイヤの遊具の一つ、茶色のタイヤに手をついて、そこで遊んでいるふりをしながら、考える。


 頭によぎるのは最悪のシナリオだ。それは漏らしたことがみんなにバレること。もしもそんなことになったら、からかわれ、バカにされ、大恥をかくに決まっている。


 自分で言うのもなんだけど、俺はクラスで一番イケていると思う。クラスで誕生日が一番早く、体もクラスでトップクラスに大きい、かけっこも一番だし、たぶんバラ組の女の子から一番モテているのも俺なのだ


 しかし、もしも俺はが漏らしたことが誰かに知られでもしたら、今まで築いてきた完璧イケイケ園児の俺のイメージは一瞬で崩壊してしまうだろう


 何としても、その事態は避けないといけない。


 そもそも、なぜ奴は出てきてしまったのだろうか。朝はきちんとトイレにいったし、体調も悪くはない。


 もしかして、あれが原因だったのかな? 実は今日の給食は一番人気のカレーライス(もちろん甘口)だったのだ。そして男子の誰かが、「たくさんご飯を食べられる奴が一番男らしいんだぜ」とか言い出して、それから男同士の負けられない大食い対決が始まってしまったのだ。


 それは男のプライドをかけた戦い、当然俺も参加した。結果、いつも食べる量の二杯多めくらいは食べてしまったのだ。


 下痢になったのはたぶんその食べ過ぎのせいじゃないのかと思う。


 まあ、今さらそんなことを言ってもあとの運動会。今一番大事なのいかにしてこのパンツの中の状況をみんなから隠すかだ。


 無難な策としては、先生の誰かにこっそり相談して、誰にもバレない様にひっそりとトイレで処理をすることだ。この策だと間違いなく一人、先生にだけは漏らしてしまったことが露見してしまうけど、被害は最小限に留められる。


 だがこの策にも二つ問題がある。それはトイレに行かないといけないということだ。


 一つは園のトイレを使いたくないという根本的な問題。どうしてかはっきりとした理由はわからないけどなんか落ち着かないのだ。それに、なんか汚い。小さい方はまだ我慢できなくもないが、大きい方に関してはやっぱり自分の家のトイレじゃないと無理だ。


 そしてもう一つの問題、それは相談する先生についてだ。今、運動場にいるのは、バラ組の担任のみゆき先生だけなのだが、俺は彼女にだけは絶対に漏らしたことを知られたくない。


 俺は、砂場で女の子たち遊ぶバラ組の担任、みゆき先生を見つめた。


 正直に言おう、俺はみゆき先生のことが好きだ。あれは俺がまだ年少組だった遠い昔のこと、ふと窓の外を見つめた時、外で年長組の人たちと遊ぶみゆき先生の姿見つけたのだ。その眩しい笑顔に見惚れ一瞬で恋に落ちた。


 それから俺が年長組になり、みゆき先生が担任だとわかったときには、飛びあがって喜んだものだ。


 それから俺はこの溢れんばかりの想いを伝えるためラブレターをしたため、ついでに手製のみゆき先生の似顔絵と一緒にプレゼントした。みゆき先生はめちゃくちゃ喜んでくれて、頭を撫でてくれた。この時、俺は確信した、これは絶対に両想いだと。


 そして、最高の流れに身を任せ、結婚の約束まで取り付けた。「けいたくんが、大きくなっても同じ気持ちだったら考えてあげるよ」と言ってくれたから、これはまず間違いなく俺の渾身のプロポーズを受け入れてくれたということ。


 そんなわけで、未来の花嫁にお漏らししたことを自分から話せるわけもない。そんなことをすれば俺の心はズタズタだ。誰にバレたとしてもみゆき先生にだけは絶対にバレてはダメなのだ。


 だから、先生に相談してこっそり処理する作戦は実行できない。


 結局、迎えが来るまで隠し通すしか他に道はない。


 今、太陽が空の天辺より少し左に傾いているから、お迎えの時間が来るまでにあともうしばらく時間がある。その時間の間、どんな手を使ってもこの失態を隠し通して見せる!


 しかし、そう易々とパンツの中の爆弾は隠し通せないようだ。俺がお尻の妙な重量感と不快感を堪えながら、今後の方針を固めていると、砂場にいたはずのみゆき先生がすぐそばまでやって来ていた。


「けいたくん、一人でいるけど、どうしたの? もしかして体調悪い?」


 みゆき先生は運動場の片隅に一人でいる俺を心配そうに見つめてくる。ほら、やっぱり俺のこと好きだろ。


「ううん、ちょっと考え事してただけ」


 俺は全力で首を振り、あまり近づかれすぎて臭いで漏らしたことがバレるといけないので、みゆき先生とできるだけ距離をとる。


 だが、その行動がかえって不信感を与えてしまったのか、みゆき先生はさらに近づいてきて、目線をこちらに合わせようとしゃがみ、俺のおでこに手を当てようとしてきた。


 その咄嗟の出来事に、俺はついその手をかわしてさらに距離をとってしまう。そんな俺の姿を見て、みゆき先生は悲しみと心配の入り混じった何とも言えない表情を浮かべる。


 すまないハニー、そんな悲しい顔をさせてしまうなんて、俺は未来の夫として失格だ。でも違うんだ。俺はただ君に恥ずかしい姿を見せたくないだけなんだ!


 真意を伝えることはできず、身を引き裂かれるような思いで、俺はお尻に刺激を与えないよう慎重に小走りでその場を離れた。


 もしかすると、今の態度でみゆき先生にあらぬ誤解を与えてしまったかもしれない。本当はもっとお話ししたいし、心配してほしいし、手で熱を測ってももらいたい!


 でも、好きな人に恥ずかしい姿を見られるのは何より嫌なんだ!


 男には何を犠牲にしても守らなければならないものがある。夜な夜なひそひそと裸のお姉さんの写真が載った本を眺めながら、ぶつぶつとおとうさんが呟いていた言葉の意味がようやくわかった気がする。


 俺もようやく一人前の男になれたよ、おとうさん。


 後ろ髪を引かれる思いを胸に、とにかく一人になれる場所を探してあてもなく運動場をさ迷っていると、いきなり俺の目の前に人影が姿を現した。

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