第10話「弛緩と緊張」
「やっちゃった……」
後悔しても、後の祭り。
頭から足先まで、全身ずぶ濡れ。着ていた服が張り付いてきて気持ち悪い。
っていうか、これじゃあ服が透けて……。
「なにやってんだろ、私」
エンに乗せられて、ついやってしまった。
「楽しかったー」
満足げに河原の石に腰掛けるエン。
「お姉さんも楽しかった?」
「調子に乗って夢中になっちゃったけど、どうするのこれ」
このまま旅を再開というわけにはいかない。
「小一時間もすれば乾くと思うよ。それに風邪引いたりもしないから、大丈夫」
「そう言われてもね……」
たとえ風邪を引かないんだとしても、気分的には良くない。
けれども、自然乾燥以外に服を乾かす手段がない以上、じっと待つ他ない。
「はぁ……」
小さなため息を吐いて、エンと同じように石に腰掛ける。
「ほんと、なにしてんだろ……」
水遊びをするために、こんなところまで来てるわけじゃないのに。
「…………。おねーさん」
「なに……ふへ?」
振り向いたら、いきなり両頬を引っ張られる。
「はひふふほ(なにするの)」
「ずーっと難しい顔してるよね、お姉さん」
「ほんはほほ(そんなこと)」
「もっと肩の力を抜いて、楽しまないと」
「ぷはぁ。……そう、言われても」
エンの両手を引っ剥がす。
考えずにはいられない。今の状態をどうやったら脱することができるのかという命題を。
「一旦忘れたらどうかな? そんな難しくて、苦しい顔をしたままじゃ、いい考えも浮かばないって思うな」
「そんなこと……ん?」
いきなり視界に何かが割り込んでくる。
「……蝶?」
気がつけば、黄色い羽根をした蝶が複数匹、周囲を飛び交っていた。
「お姉さん! 触っちゃダメ!」
「えっ? ……っ⁉」
私が触れたのか、それとも触れられたのか。
どちらか分からないまま、急に視界が霞んで、身体は言うことを聞かなくなって倒れ込む。
「な、に……。こ、れ……」
「ちょっと待ってて。Toy Arca!」
巨大グマと戦った時と同じ短剣を生み出して、蝶の大群を切り倒していく。
全ての蝶を切り払って、慌てて私の元に駆け寄ってくる。
「今の蝶はパラジバタフ。人に近寄ってきて、自分たちに触った人に麻痺を付与してくる厄介な蝶なんだ」
「あ、う……」
「これを飲んで」
「う、ん……」
エンに補助してもらいながら、街を出る前に買った解毒薬を口にする。
段々とボヤけた視界は戻ってきて、身体にも力を入れられるようになる。
「大丈夫?」
「う、うん……。まだ、感覚が……おかしい、けど……」
口は多少、動くようになったけれど、手足の痺れが、まだ抜けていない。
まるで、高熱を出した時のような、身体の怠さ。
頭も、ぼーっとして。まだ上手く、働いてくれない。
「と、とりあえず……。蝶は、追い払ったん、だよ、ね……?」
「いや、まだだよ」
「まだ……?」
「パラジバタフは、最初に人を襲って麻痺させて、他のモンスターに獲物にトドメを刺させて、その死体を喰らう蝶」
「共生、してるって、こと……」
現実世界にも、そういう動物は、たくさんいる。
つまりは、それと同じ。ということ、だろうけど……。
「だから……」
「……?」
まだ、言うことを聞かない顔を、少し上げて、エンの向いている方を、見ると。
「なるほど。アローンウルフだ」
「アローン、ウルフ……?」
「そう、群れることが決してない、一匹で行動する孤高の狼」
なんだか、カッコよさげなこと、言ってるけど。
確かに、現れた狼の周囲には、一匹のモンスターも、いない。
つまりは、ただの。一匹狼、ということ。
「お姉さんは動けるようになるまでそのままでいて」
「エ、ン……」
「大丈夫。あんな狼一匹、ボクの敵じゃないから」
数歩、私の前に、出る。
「さぁ、かかってきなよ、ボクが相手だ」
両手に、短剣を構える。
対する狼は、こちらを睨め付けて、低い唸り声を、上げている。
こちらを、睨みつけて。
「っ!」
ほぼ、同時に、動き出す。
「はあっ!」
短剣の間合い、短い距離に入る前、エンが短剣を振り下ろす。
お互いに、近づいているのだから、そのまま振り下ろせば、狼を捉える。
けれども、エンの剣は、空振りに終わる。
「なっ⁉」
エンの間合い、そこに入る直前に、左に大きく飛び退いた。
着地した瞬間に、また地面を踏みしめて、私めがけて突進してくる。
やはり、この狼は、エンを見ているようで、見ていなかった。
こいつの獲物は、最初から、私だった。
「っ……」
「このっ!」
私が、その牙にかかる直前、急いで飛び込んできたエンが、狼の左脇に蹴りを入れる。
「お姉さん大丈夫⁉」
「だい……じょぶ」
「ごめん。もうあんなことにならないようにするから」
「ちが……エン……」
そうじゃ、ない。
誰を守りながらの戦い、これ以上に難しい戦いは、存在しない。
背後に、守るべき存在がいる。それだけで、敵に対する意識が、削がれる。
つまり、その行動が、掣肘される。
対して攻める方は、相手の意識を散らしてやれば、その分有利になっていくし、勢いづくことができる。
どちらが有利か、どちらが不利か。火を見るよりも、明らか。
実際、自由奔放な動きで、敵を翻弄して戦うスタイルのエンが、私のせいで守り主体になって、行動を制限されている。
かと言って前に出れば、私の守りが薄くなる。
そんな私たちの周囲を、狼は飛び回って翻弄する。それだけで、圧倒的に有利な立場にいる。
「やりづらい……」
エンも薄々、そのことに気づき出している。
でも、だからといって形勢を変える一手を投じることは、できないまま。
「なら……!」
何か策を思いついたのか、あるいは痺れを切らしたのか、エンが動く。
「ちょっ……エン……っ?」
声が、戻ってきてる……?
「はあぁ!」
一挙に狼に近づくエン。
今度は、下から剣を振り上げる動きで、狼に一撃を加えにいく。
しかし再び、左に大きく飛び退いて回避を試みる狼。エンの一振りはまた空振りに……。
「まだだよ!」
空振った腕の勢いのまま、身体ごと捻って、手にしている短剣を投げ飛ばす。
一直線に飛んだ短剣は、狼の脇腹に突き刺さる。
予想外の攻撃に、回避行動を取っていた狼は着地に失敗する。
「逃がさないっ!」
すかさず距離を詰めて、追撃を図るエン。
けれども、狼の目もまだ、死んではいない。
エンが狼の元へ到達するよりも早く、踏み込んで、私に向かってくる。
「くそっ!」
エンは突破された。体勢を立て直して追いかけても、恐らくは間に合わない。
「お姉さんっっっ!」
エンの叫び声と、狼の牙が同時に迫る——
「ウィンドスピア!」
——狼に向けた手のひらから魔法陣が現れて、風の針を生み出す。
完全に虚を突かれた狼は、なす術なく私の魔法を正面から喰らった。
「これで終わりっ!」
追いついたエンが、間髪いれず首元に剣戟を加える。
力なく倒れた狼は、光の粒となって散っていく。
「お姉さん!」
その中を一直線に、私に駆け寄ってくるエン。
「大丈夫? もう動けるの? 怪我はない?」
「大丈夫、まだ多少身体が痺れてるけど……。もう平気」
解毒薬に即効性があって、助かった。
「良かった……」
膝から崩れ落ちるエン。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「うん……なんだか急に身体から力が抜けちゃって……」
「そっか……。エンの方こそ、ケガしていない?」
「うん、大丈夫」
「それならよかった」
エンが一人で立ち上がれるようになるまで、しばらく支えになる。
「それにしても、やっぱりエンって、誰かと戦う経験が少ないんだね」
「うん?」
「エンの戦いのスタイルを見ていて、薄々気づいてたけど。誰かを守って戦ったこと、今までないでしょ?」
「……うん、あんまり」
「やっぱり」
防衛戦には防衛戦の戦い方というものがある。少なくともエンには、その心得がない。
「ってことは、もしかして」
「うん?」
「ボクがお姉さんのことを守れないって思ってたってこと?」
「あー……」
エンの強さは本物だし、期待していなかったわけではないけど。
それでも多少の不安があったのは事実だ。
「む〜……」
私の態度を察したのか、プクーッと頬を膨らませる。
「拗ねないの。それに、別にエンのことを責めてるわけじゃない。責を受けるなら、私の方なんだから」
周囲への警戒を怠って、あんな蝶の接近を許したのだから。
あまつさえ、その毒牙にかかって、動けないなんていう恥を晒した。
どちらがより責められるべきか、言うまでもない。
「お姉さんが悪いなんてこと、ないと思うけど……」
「ううん。……ここは本来、呑気に日向ぼっこできるような場所じゃないんだから。ゲームだから麻痺して動けない程度で済んでるけど、これが戦場だったら、私は死んでる」
一瞬の油断が、命取りになる世界。私は今、そういう世界に生きている。
それを忘れたからこそ、その罰を受けた。つまりはそういうこと。
「迷惑をかけてごめんなさい。もうこんな失態はしないようにするから」
「お姉さん……」
「さ、そろそろ行こう? こんなところにいて、またあの蝶の大群に襲われたくはないしね」
「……うん」
再び、無限に広がる草原の中へと、歩いていく。
心の中に、後悔を残したまま。
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