ラーメンチャーハンセット

石花うめ

ラーメンチャーハンセット

 冷たくて煩い灯りが散らばる、夜の繁華街を歩きながら、今日の晩ご飯をどのお店で食べるか考える。


 2時間の残業を終えた社会人2年生の僕は、時間も金も無いという厳しい縛りのなかでお店を選ばなきゃいけない。


 チェーン店でサッと済ませるのが一番いいのかもしれないが、せっかくの金曜日の夜だから少しいい物を食べたい。

 何より、チェーンだと心が休まらない。

 今日のお昼ご飯はチェーンの牛丼屋で、上司と一緒に外回り中だったから、急かされながらお腹に詰め込んだ。苦しくなったうえに、ノロマだと言われた。嫌な思いをしたから、一人で食べる晩ご飯で同じ思いはしたくない。

 かと言って、飲みに行くには時間も金も無い。飲みに使う余裕があるなら、早く家に帰って勉強しなきゃいけない。


 僕は今月も営業成績が最下位だったのだ。これで二ヶ月連続。

 見かねた上司からは、彼女を作れとか、生活習慣を変えろとか、メシを早く食えるようにしろとか、仕事のこと以外も色々言われるようになった。

 なんとかして挽回しなきゃいけない。


「はぁ……」


 ため息が出て、コートのポケットに入っているミントタブレットに手が伸びる。それを5粒ほど口に放り込んで、すぐに噛み砕いて飲み込んだ。いつもの癖だ。

 そしてすぐにお腹が痛くなる。これもいつもの事だ。


 別に、爽快さが欲しいわけじゃない。ただ何となく、自分を傷つけることでストレスを解消している。リストカット(したことない)などより、筋トレで自分の筋肉を傷めつけるのに近いような感覚だ。まあ、これをやることで胃が強くなるわけではないけど。


 これをやればこうなる、っていうのは分かっているし、大したストレス発散にはならないことも分かっている。でも、やめられない。


「はあ……」


 そんなことを考えながら歩いていたら、何事もどうでもよくなってきた。

 もういいや。これ以上歩くのも面倒だし、寒いし、適当に空いている店に入ろう。

 この繁華街にはチェーン以外にもたくさん店があるから、次に見つけたところにしよう。

 




 そんなわけで、すぐ近くにあった町中華の店に入ることにした。


 一応営業中の札が掛かっていて、灯りはついているのだが、賑わっている様子はない。

 動きの悪い扉を開けたら、外と変わらない冷気に頬を切られた。

 こんな真冬に暖房すらつけていないらしい。


「いらっしゃいませぇ。ありがとうございますぅ」


 入り口のすぐ横に三角巾を巻いたエプロン姿の老婆が立っていて、僕に会釈した。

 一瞬幽霊かと思って、僕は割と本気で焦った。


「——あの、まだやってますか?」

「はい。好きなとこ、座ってくださぃ」


 厨房では痩身の老爺が腕組みして、棚に置かれたテレビを無表情で観ていた。

 僕と目が合うと、浅く頷きながら「らっしゃい」と言った。


 八席ほどのカウンターのみの店内には、僕たち三人以外に誰もいない。

 つまり客は僕一人だ。


 僕は入り口から入ってすぐの席に座り、寒さに身体を縮めながらテーブル上のメニュー表を見た。壁にも、黄色い画用紙に赤字の太ペンで書かれたメニューが貼られている。


 それらを交互に見ながら何を注文しようか悩んでいると、老婆がお茶を持って来てくれた。


「これ、熱いから気を付けてぇ」

「あ、はい」

「悪いねぇ。エアコンが壊れてて」

「いえ、大丈夫です」

「石油ストーブも、最近石油が高くて、使えなくてぇ……」


 ちょうどテレビで、遠くの国で行われている戦争により燃料価格の高騰が続く、というニュースが垂れ流されている。

 老婆は申し訳なさそうに、ゆったりと頭を下げた。


「ありがとうねぇ」


 温かいお茶を持って来てくれたのは、もちろん冬だからってのもあるとは思うけど、お店としての気遣いなのだろうと思った。だから、ありがたく頂戴した。


「ゆっくりしていってねぇ」


 その後もテーブルと壁のメニューを交互に見て考えていたのだが、壁の方を見るたびに、人懐こい笑顔を浮かべる老婆と目が合った。

 それが妙に気まずくて、手を挙げて老婆を呼び、結局おすすめの「ラーメンチャーハンセット」を注文した。


「セット一つぅ」


 老婆が僕の注文をメモに書き、厨房の老爺に注文を伝える。老爺は既に熱した鉄鍋で卵を炒めていた。静かな店内だから、おそらく注文する僕の声が聞こえていたんだろう。

 老婆は厨房に入り、麺をゆで始めた。


 チャーハンを作る老爺と、ラーメンを作る老婆。

 二人は何も言葉を交わさず、各々の仕事を全うしている。


 僕はただ茫然と、二人の様子を見ている。こういう隙間時間にこそ勉強をするもんだと、隣に上司がいたら言われそうなものだが、何気なく見始めたら目が離せなくなっていた。


 老爺が鉄鍋を振るう度、張り付いた皮膚の下で前腕の筋肉が隆起しているのが見える。おそらく何十年もこの店を支えてきたであろうその鉄腕は、決して太くはないものの、ボディビルダーのそれに負けないほどの迫力がある。


 その奥では老婆が、華奢な身体を目一杯使い、その身体がすっぽり入ってしまいそうなほど大きな寸胴鍋をかき混ぜている。

 器にスープを注いだ瞬間にタイマーが鳴り、今度は湯切りが始まる。お世辞にも俊敏とは言えないが、小気味いい音と共に確実にお湯が払い落されているのを見るに、洗練された動きなのだと分かる。


 静かな店内に流れる作業音が心地いい。


 ラーメンとチャーハンが出来上がったのは同時で、老婆がカウンターに置いてくれた。


「お待たせして、ごめんねぇ」

 そう言ってまたニコニコと微笑む。


「いただきます」

 手を合わせ、僕はさっそくラーメンのスープをすすった。


——温かい。


 癖のないシンプルな醤油スープが、胸の奥に沁みる。爆発的な美味さみたいなものは無いが、昔どこかで食べたことのあるような懐かしい味だ。

 麺はストレートで、優しいスープとよく絡む。


 じっくり時間をかけて食べたいと思った。


 次はチャーハン。こちらは角切りのチャーシューがゴロゴロ入っている豪快な逸品だ。

 レンゲで表面を崩してみる。しっとりとしたタイプで、ネギにもしっかり火が通っている。

 一口頬張ると、まずチャーシューのずっしりしたパンチが舌の上にのしかかった。しかし少し噛むとホロホロとほどけていき、やがてネギや卵と調和して、飲み込む頃にはさっぱりとした旨味に変わっていた。


 咀嚼しながら顔を上げると、笑顔の老婆と目が合った。


「美味しいです!」


 まだ二口目のチャーハンが口の中に残っていたが、そう言わずにはいられなかった。

 ただでさえ優しげな顔をしている老婆の目尻に、ますます皺が寄る。


「ありがとうねぇ」


 ゆっくりと会釈すると、彼女は厨房に戻っていった。

 それから老爺に何やら耳打ちをしていた。


 そしてしばらく夢中になってラーメンとチャーハンを食べていると、それぞれの器の上に、急に拳が二つ現れた。

 それが開かれたかと思えば、ラーメンの上には薄切りのチャーシューを、チャーハンの上には角切りのチャーシューを落としてくれた。


「サービス」


 それは老爺の手だった。顔を上げると目が合った。


「すみません、こんなに」

「いい。若いんだから、たくさん食べな」


 老爺の方は老婆と違って、そこまで愛想が良いわけではない。だけどなぜか、その照れ笑いを隠すような顔を見ていると無性に安心できる。


 静かな店内で、僕は二人に見守られながらラーメンとチャーハンを平らげた。

 平らげてしまった、と言った方が適切かもしれない。夢中になって食べていたら、いつの間にかラーメンのスープまで無くなってしまっていたのだ。


 この安らぎのひと時が永遠に続けばよかったのに。

 そう思わずにはいられなかった。


「ごちそうさまでした」

 僕は合掌し、席を立った。


 お会計をしようとして手書きの伝票をレジに持って行くと、厨房から老婆がすり足で歩いてきた。

 スーパーのビニール袋を一つ、両手で持っており、僕と目が合うと、いたずらっぽく笑った。


「これ、持っていってぇ」


 老婆はそれを僕に握らせる。ずっしりと重いその袋の中には、りんごが何個も入っていた。


「……えっと、全部ですか?」

「うん。持ってってぇ」


 一人暮らしなのに、こんなに貰っても……。と一瞬思ったが、彼女の気遣いを無下にするわけにはいかないと思い、貰うことにした。


「すみません、こんなにたくさん」

「いいのよぉ。ありがとう」

「なにがですか?」


 僕は思わず聞き返してしまった。

 だって、物を貰ったのは僕の方だ。それなのに老婆の方が礼を言うのはおかしい。


 そういえばこの店に来た時から、ずっと引っかかっていた。老婆は事あるごとに「ありがとう」を僕に伝えてくる。普通は言わないだろう、と思うタイミングでも言ってきた。何か意図があるんだろうか。


 予想外の質問だったのか、彼女は一瞬小首を傾げて固まってしまった。

 僕は慌てて言葉を付け足す。


「——いや、あの、……なんかやけに『ありがとう』って言われるので、どうしてかなって思って」


 老婆はすぐに、見慣れた穏やかな表情に戻った。

「実はねぇ」と切り出し、一瞬老爺の方に視線をやる。


「もう、店を畳もうかって、最近主人と話していたのよぉ」


「……え、どうして、ですか?」


 老婆は客のいない店内を見渡す。


「もう、お客さんが、来ないんだよねぇ」


 その声は微かに震えている。


「最近は、安くて早くて美味しい、ちえーんのお店がたくさんできたから。気軽に食べれて、味も保障されてるでしょう。わざわざ、うちみたいなお店にくる人はいないよぉ」


「そんなことないですよ」


 正直、老婆の言っていることも分かる気がする。この繁華街で賑わっているのは、チェーン店ばかりだ。

 でも、このお店の味を知った人は絶対にリピーターになるという自信が僕の中に存在していた。だから、彼女の意見を否定したかった。


「ここは、カウンターで、主人とお客さんとの距離も近いでしょう。こんな愛想の悪い男が目の前にいれば、料理を食べるのにも緊張しちゃうものねぇ」


 老婆が冗談めかして笑う。

 老爺は腕を組んだまま、「るせえ」と不器用な笑みを浮かべた。


「昔は、味だけでも勝負できたけどねぇ。今は、写真うつりも良くないといけないし、ねっと? っていうやつに載らないと、お客さんは来ないみたいだから」


「別に、やたらたくさんの客に来てほしいわけじゃねえ。中には迷惑な客もいる。そういうのはお断りだ。少なくてもいい、俺の料理を、ちゃんと味わってほしい」


「うるさいでしょう。これでは、注文の多い料理店だわぁ」


 こだわりを語る老爺を、老婆がいなした。

 穏やかな彼女がそんな冗談も言うのかと、意表を突かれて僕は少し笑いそうになった。


「味を知らねえ客が増えたんだ。『いただきます』もまともに言えねえ、料理を味わおうって気持ちが無えやつが。そういう奴らは、いつも血の通ってない料理ばっか食ってる。だから舌が死んでる」


 老爺の気持ちを全て受け止めるように、老婆は微笑む。そして僕の方に少し顔を近付け、内緒話でもするかのように少し声をひそめて言った。


「あの人ねぇ、昔は営業マンだったの」


 僕は「そうなんですか」と相槌を打って続きを促す。


「あんな態度だから、営業成績は良くなかったみたい。だから、何か違うことをやろうって、一念発起でこのお店を開いたの。あれは……、結婚してすぐのことだったわ」


「すぐ、ですか? 不安とか無かったんですか?」


「無いと言ったら嘘になるわ。でも、二人で決めたことだったから」


 いつの間にか、老婆の語尾が伸びなくなっていた。ゆっくりだが弾むような口調の彼女は、まるでうら若き乙女のようだ。

 笑顔のしわが刻まれた頬も、心なしか桃色に色づいているように見える。


「あの人、口は下手だけど、嘘はつかないもの」


 老婆は厨房にいる老爺に目配せする。


「うまくいかないこともあったし、無駄に時間をかけて遠回りしてきたような気もするわ。でも、あの人とだから、私もやってこれたのよ」


 老婆は「ごめんね、惚気話みたいな事ばかりで」と笑い、そしてまた穏やかな顔に戻って話を続けた。


「そんなあの人が、お店を閉めたいって言うから、私も止めはしなかったの」


 それでエアコンが壊れたままになっているのかと腑に落ちた。電気代とか燃料費の節約のためであるのと同時に、もう店を畳んでしまうから修理も依頼していないんだろう。


「でもね、今日あなたが来てくれて、ちゃんと料理を味わって、『美味しい』って言ってくれた。喜んでくれる顔を見て、まだもう少し続けてもいいかもしれないって思えたの。主人もさっき、そう言ってた。だから、『ありがとう』」


 老婆の小さな手が、ビニール袋を持つ僕の手を上から包み込んだ。


 それから彼女は、最近この店で起きていることについて話してくれた。

 流行り病の影響で来客数が減り、依然として元に戻っていないこと。

 さらに、今まで通っていた高齢の常連さんたちも、老人ホームに入ったり亡くなったりで会えなくなってしまったこと。

 それから食材や燃料費の高騰。

 そうした少しずつのダメージが積み重なって、お店を畳む方に気持ちが傾いていたのだという。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 彼女の話を聞いて、僕はそう言わずにはいられなかった。


「最近、ちょっと疲れてたんです。でも、お二人の料理食べたら元気出ました」

「まぁ! 嬉しいわぁ」


 老婆は泣きそうな顔で微笑んだ。


「また来てね。次もサービスするから」

「ありがとうございます。絶対また来ます」


 心からのありがとうを誰かに伝えたのは、はたしていつぶりだろう。

 料理を食べて心から美味しいと感じたのは、はたしていつぶりだろう。


 成長とか変化とかが求められて速度が上がるばかりの暮らしの中で、自分の感受性みたいなものが疎かになっていた気がする。

 何事も出来て当たり前のように思われていて、自分や他人の欠けている部分ばかりが目につくようになっていた。


 でも、当たり前のことなんて何も無い。

 僕がこのお店を選んだことも、僕が入ったことによって二人がまたお店を続けようと思ったことも、全てが偶然だ。

 だからこそ、「有り難う」なんだ。


 それが分かったうえで、僕は敢えて「絶対また来ます」と言った。

 あの二人がお店を続けたいと思うなら、僕は僕なりに応援させてもらいたい。

 それに、もしいつか僕に彼女ができたら、そのときは彼女も連れて来よう。


 老婆に手を振られながら、僕はお店を後にした。


 老爺の方は腕を組んだままだったが、扉を閉めるタイミングで目が合ったとき、僕に何かを伝えるように口が動いた。扉越しだったので何を言ったのかは聞こえなかった。「ありがとう」なのか、「頑張れ」なのか分からない。でも、優しい言葉なのは分かっていた。


 街の灯りは、まるで僕を歓迎するみたいに淡い色合いをしている。

「はぁ……」

 思わず幸せの吐息が漏れる。


 僕は一歩、一歩と現実に足を踏み入れる。

 しかし最近ずっと感じていた息苦しさが、今はかなり和らいでいた。


 そういえば、腹痛はすっかりどこかに消えていた。

 その代わりに残っているのは、舌の上に広がるラーメンとチャーハンの優しい味。


 癖でポケットのミントタブレットに伸びた手が止まった。


 今はもう少し、温もりを感じていよう。


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