65 これ以上、お前のいいようになどさせるものか……っ!


 黒い炎が呆然と立ち尽くすフェルリナに迫る。


 万全の威力ではない。


 だが、障壁の詠唱が間に合わないいま、フェルリナにできることなどただひとつだ。


 自分の後ろに立つアルヴェントは傷つけさせまいと、避けることもせずブレスを我が身で受け止めとうとして。


「フェルリナ!」


 不意に強い力で腕を掴まれたかと思うと、大きな身体に抱きすくめられる。


 直後、フェルリナを抱きしめた誰かの背中にブレスが直撃した。


 フェルリナの耳元で苦しげに呻いた声は――。


「フェルリナをお前などに傷つけさせるかっ!」


 抱き寄せていた腕をほどいたアルヴェントが、かろうじて腰に引っかかっていたベルトから短剣を引き抜く。


「これ以上、お前のいいようになどさせるものか……っ!」


 ドラゴンに駆け寄ったアルヴェントが短剣で紅い片目を貫く。


 巨体が一度大きく痙攣けいれんし、やがて動かなくなった。


 激しく動いたアルヴェントの身体から、黒紫色の鱗が花びらのようにはらはらと散っていく。


 ブレスの直撃を喰らったにもかかわらず、鱗がはがれ落ちたあとの背中は、少し赤くなっている程度だ。


 いったい、何が起こったのか。


 自分が目にしているものが信じられず、呆然と立ち尽くしていると、剣をさや納めたアルヴェントが駆け戻ってきた。


「フェルリナ! 怪我は……っ!?」


 鎧を嚙み砕かれたアルヴェントは右の上半身があらわになっているが、そこにはもう鱗は一枚も残っていない。


 噛まれたはずの傷が消えていて、安堵のあまり腰が抜けそうになる。


 だが、それより早く、アルヴェントに両腕を掴まれた。その手からもすでに鉤爪は消えている。


「フェルリナ! なんという無茶を……っ! 自分の身を第一にしてくれと言っただろう!?」


 険しいことこの上ない顔で叱責したアルヴェントが、フェルリナの腕ににじむ血を見た途端、顔を強張らせた。


「いやっ、すまん……っ! きみを傷つけた俺が言えた義理ではないな……っ! なんと詫びればいいのか……っ! 君を傷つけたこんな腕などへし折ったほうがいいかっ!?」


「ア、アルヴェント様っ!? なんてことをおっしゃるんですかっ!?」


 とんでもないことを言い出したアルヴェントに目を見開く。


「それより、アルヴェント様にお怪我は……っ!?」


 異形化した時に驚異的な回復力を得たせいだろうか。見たところ怪我はなさそうだが、体内に異常が残っている可能性もある。


「俺は何ともない。それよりきみの怪我だ! きみの玉の肌を傷つけてしまうなんて……っ!」


 いまにも消え入りたいと言いたげに大きな身体を縮めるアルヴェントに、フェルリナは優しく微笑みかける。


 いま目の前にいるのは、まごうことなくアルヴェントだ。


 アルヴェント以上に、フェルリナを大切に気遣ってくれる人などいない。


 本当に元に戻ってくれたのだと、嬉しさと安堵に目が潤みそうになる。


「アルヴェント様、謝らないでください。ご心配はいりません。こんな傷なんて、何ともありませんから」


 短く呪文を唱え、鉤爪で切られた傷をあっという間に治す。


「ほら、これで大丈夫です」


 これ以上アルヴェントが気にしなくてよいようにと、にこやかに微笑みかけると、息を呑んだアルヴェントに不意に強く抱きしめられた。


「よかった……っ! いや、治ったからといって、きみを傷つけた俺の罪まで消えるわけではないが……っ! きみに傷を残したら、死んで詫びても足りない……っ!」


「なんてことをおっしゃるんですかっ!? そんなこと、おっしゃらないでくださいっ!」


 アルヴェントの言葉に、思わず眉を跳ね上げる。


「アルヴェント様が私などを大切にしてくださるのは、この上なく感謝しております。ですが!」


 黒い瞳を見上げ、きっぱりと告げる。


「騎士ではないとはいえ、私もみなさんと一緒に遠征に出ているのです。不測の事態で怪我を負う覚悟はしております! むしろ、私でしたら自分で怪我を治せるのですから、アルヴェント様こそご自身の身を大切にしてくださいっ!」


 黒い瞳を真っ向から見据えてきっぱりと告げる。


 と、アルヴェントの精悍せいかんな面輪が不意ににじんだ。


「アルヴェント様に何かあったらどうしようかと……っ! ドラゴンに噛まれた時は、心臓が止まるかと思いました……っ!」


 勝手に涙があふれ出す。泣きやまなくてはと思うのに、張りつめていた緊張がほどけて、こらえていた涙があとからあとからこぼれ落ちる。


「す、すまん……。頼むから、泣かないでくれ……」


 困り果てたアルヴェントが、壊れものにふれるようにそっとフェルリナを抱き寄せる。


 ぽすり、と額が当たったのは、固い鎧ではなく、あたたかな素肌だ。


 とくとくとすぐそばで聞こえる鼓動が、アルヴェントの無事をあらためて実感させてくれる。


「フェルリナ。どうすればきみの涙を止められる? きみに泣かれたら、どうすればよいかわからなくなる……」


 アルヴェントの大きな手のひらが、なだめるように優しくフェルリナの背中を撫でる。


 心をほどくあたたかな手のひらに、ぐすっと鼻をすすりあげて。


「傷、が……」


 フェルリナは涙でぼやける目を瞠った。


 アルヴェントの広い胸。

 そこに斜めに三本走っていた黒紫色の大きな傷が消えている。


 いや、傷跡自体は残っている。けれど、それは他の傷と同じくうっすらと白く変色していて、むごたらしい黒紫色ではなくなっている。


 フェルリナの言葉に、いま初めて気づいたというように自分の胸を見下ろしたアルヴェントが、黒い目を瞠る。


 引き締まった大きな身体が、びくりと揺れた。


「ほ……」


「アルヴェント様……?」


 かすれた声をこぼしたきり、凍りついたように動きを止めたアルヴェントを見上げる。


 精悍せいかんな面輪がこらえきれないとばかりにくしゃりと歪んだ。


「本当に、呪いが解けたんだな……っ」


 言葉にならない想いを伝えるかのように、フェルリナの身体に回された腕に力がこもる。


「はい……っ!」


 アルヴェントの喜びが伝わってきて、フェルリナの声まで潤んでしまう。


「もう、アルヴェント様は呪いから自由です……っ!」


 たくましい身体を抱きしめ返し、感極まった声で告げた途端、脳裏に数日前のアルヴェントの声が甦る。


 その瞬間、無意識に身体が大きく震えた。


「フェルリナ?」 


 いぶかしげに名を呼んだアルヴェントから腕をほどく。


 顔を見ていられず、フェルリナは視線を伏せた。


「ほ、本当に、おめでとうございます……。これで、呪いだけでなく、私からも解放されますね……」


 違う。こんな風に恨みがましい泣き言を言うつもりではなかったのに。


 アルヴェントがフェルリナから自由になって、本当に好きな相手を見つけられることを言祝ことほぐつもりだったのに。


 泣きそうになる己を叱咤し、フェルリナは早口で言を継ぐ。


「だ、大丈夫ですっ、聖女としてはこれからも騎士団のために力を尽くしますので……っ! ですから、アルヴェント様はその――、ア、アルヴェント様っ!?」


 突然、糸が切れた操り人形のようにフェルリナの足元にずしゃあっ! と崩れ落ちたアルヴェントに、すっとんきょうな声が飛び出す。


「どうなさったんですかっ!? ドラゴン戦の負傷がいま……っ!? 傷はどこですかっ!? すぐに治癒の魔法をかけますから……っ!」


 あわてて屈み、アルヴェントに伸ばした手をぎゅっと掴まれる。


「すまん……っ! いい加減、愛想が尽きたよな!? きみに酷い言葉を投げつけて泣かせたばかりか、暴走して怪我までさせた輩など……っ! 軽蔑されて当然だ! 許してくれとは言わない。だがせめて、謝罪だけでも……っ!」


「な、何をおっしゃるんですか!? アルヴェント様を軽蔑するなんてありえませんっ!」


 掴まれた手を握り返し、きっぱりと告げると、アルヴェントがうつむいていた顔を呆然と上げた。


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