58 本当に、ちゃんと休めているのか?


「フェルリナ、その本は何だ?」


 遠征から帰ってきて二日目。今日も王城の書庫から借りてきた本を両手に抱え、部屋に戻ろうとしていたフェルリナは、自室の前で出くわしたアルヴェントからの問いかけに、思わず口ごもった。


「こ、これは、その……。えっと、気分転換に……っ」


 アルヴェントに見とがめられた時の口実を考えていなかった自分のうかつさを呪いつつ、とっさに思いついた言い訳を口にする。


 だが、目を逸らしながらの物言いは、あまりに不自然だったらしい。


「気分転換?」


 アルヴェントの声がいぶかしげに低く沈む。かと思うと、大股おおまたに歩み寄ってきたアルヴェントが、フェルリナが両手に抱える何冊もの本を覗き込んだ。


「古文書ばかりではないか。こんな難解な本では、気分転換にならないだろう?」


 もっともすぎる指摘にすぐさま答えられずにいると、不意にアルヴェントが身を屈めた。大きくあたたかな手のひらが頬を包み込む。


「顔色が悪いな。……本当に、ちゃんと休めているのか?」


 おととい、ロベスがひそかにフェルリナに会いに来たことは、アルヴェントには秘密にしている。


 アルヴェントには『ゆっくりと部屋で過ごさせていただきます』とだけ言い、部屋にほぼこもっていたが、休むどころか、寝る間を惜しんで古文書を読み解いていた。


 ロベスにもしっかり休むようにと言われたが、こんな状況でゆっくりとできるはずがない。


「も、もちろんです。その……っ」


 うまい弁解が思いつかず言い淀んでいると顔を覗き込んでいた黒い目が細くなった。


「ゆうべ遅くまで部屋の明かりが灯っていたのは、うっかり消し忘れて寝落ちたからだと朝食の時に言っていたが……。本当は違うんじゃないか?」


「え、えっと……っ」


 朝食の席で指摘された時、良心の呵責かしゃくを覚えながらも、反射的に嘘をついてしまった。


 いままで嘘などほとんどついたことがなかったため、ばれてしまったらどうしようかと不安だったが、その場では何も言われなかったのでうまくごまかせたと思ったのだが……。


「も、申し訳ありません……っ」


 これ以上はごまかしきれないと、両手に抱えていた古文書を胸の前で抱きしめて詫びる。


「アルヴェント様にご心配をおかけするつもりはなかったのですっ! ですが、ドラゴンと戦う可能性が高いのだと思うと、どうしても落ち着いて休むことができなくて……っ! 呪いを解く方法を何とか見つけられないかと探していたんですっ!」


「俺のせいできみが倒れるようなことになったらどうする!?」


 深く頭を下げた途端、厳しい怒声が降ってきた。


 びくりと肩が震える。


 騎士団長であるアルヴェントが命令を守らぬ団員を叱責するのは当然だ。ましてや、フェルリナは嘘までついていたのだから。


 理性ではわかっているのに、恐慌に陥った感情が勝手に目を潤ませ、涙がこぼれそうになる。


 アルヴェントの怒りがフェルリナに向けられたのは初めてだ。


 苛烈な怒気に、恐ろしさでかちかちと歯が鳴りそうで、フェルリナはぐっと奥歯を噛みしめた。


 だが、アルヴェントの怒りはおさまらない。


「言っただろう!? 頼むから、自分の身を第一に考えてくれと! きみに何かあれば、俺だけじゃなく、騎士団全員の安全に関わるんだぞ!? それなのに、俺のためなんかに……っ!」


「ですが……っ!」


 恐怖も忘れ、思わずがばりと顔を上げる。


 アルヴェントは決して『なんか』と軽んじてよい存在ではない。


「ご指示を守らなかったのはお詫びいたしますっ! ですが、私はもっとアルヴェント様のお役に立ちたいのですっ!」


 初めて、フェルリナの価値を認めてくれた人。


 それだけではない。いつもフェルリナを気遣ってくれるアルヴェントの不器用な優しさが、これまでずっとないがしろにされてきたフェルリナの心をどれほど癒してくれたか。


 最初は契約で夫婦になっただけだった。買われたも同然の聖女なのだから、しっかり働かなければクライン王国以上に酷い扱いをされるかもしれないと警戒していた。


 けれど、フェルリナの心配は杞憂きゆうに過ぎなかったのだと、アルヴェントと少し言葉を交わしただけで、不安は淡雪のように融けていった。


 アルヴェントと一緒に過ごして人となりを知るたび、どんどん惹かれていって……。


 いまになってようやく、身体に鞭打むちうってまでドラゴンの呪いを解く方法を探しているのか、自分の気持ちに気づく。


 アルヴェントを愛しているからだ。


 ドラゴンの呪いを解く方法を必死に探しているのもすべて、アルヴェントの隣でこれからの人生を歩いていきたいゆえなのだと。


「私はアルヴェント様の妻なのですから……っ! 夫婦として、だんな様のために力を尽くすのはいけないことですか……っ!?」


 黒い瞳を見上げ、真摯な想いを込めて告げる。


 アルヴェントを喪いたくない。そのためならば、どんなことでもしてみせる。


 フェルリナがアルヴェントのためにできることなど限られている。


 だからせめて、アルヴェントのために尽くしたいこの気持ちだけでも受け入れてはもらえないかと。


 けれど。


「いらんっ! きみは聖女として騎士団を守ってくれればそれでいい! それ以上のことをする必要はないっ!」


 怒りに満ちたアルヴェントの言葉が、刃と化してフェルリナの胸を貫く。


「あ……」


 心臓に、穴が空いたかと思った。


 こぼれた声はかすれ、言葉にならない。


 フェルリナの思い上がりだったのだ。


 妻としても少しは想われていると信じていた。


 アルヴェントが『俺の大切な妻だ』と言ってくれた時、どれほど嬉しかったことか。


 きっとあれはアルヴェントの優しい嘘だったのだ。初めて来た異国で、フェルリナが早く落ち着いて力を振るえるようにと。


 アルヴェントが求めているのは、本当は聖女としての力だけで……。


 もしかしたら、フェルリナなどが『妻』ということすら、内心で忌々しく思っていたのかもしれない。


 ぽっかりと空いた胸の痛みにつられるように、まなじりから涙がこぼれ落ちる。


 途端、夢から覚めたようにアルヴェントが目を瞠った。


「フェルリ……」


 びついたよろいまとっているかのように、アルヴェントがぎこちなく手を伸ばそうとした瞬間。


「団長っ! 偵察隊から早馬が来ました! ドラゴンがタンゼスの町に近づきつつあると……っ! すぐに出立のご準備を!」


 ロベスの声が廊下の向こうから響く。同時に、こちらへ駆け寄ってくる姿が見えた。


「ドラゴンがもう……っ!?」


 驚愕の声を上げたアルヴェントがこちらを振り返るより早く。


「じゅ、準備をしますので……っ! 失礼いたしますっ!」


 身をひるがえし、フェルリナは逃げるように自室に飛び込んだ。


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