9 結婚した日の夜の大切なことと言えば


「……ナ、フェルリナ」


「ふぁ……?」


 耳に心地よく響く低い声がすぐそばで自分の名を呼んでいる。


 同時に、優しく肩を揺すられて、微睡まどろみから浮き上がったフェルリナは、ぼんやりと声を上げた。


「フェルリナ。すまないが、起きてもらえると嬉しいんだが……」


 困り果てた声に、ゆっくりとまぶたを開ける。途端、目の前に左頬に傷が走る精悍な面輪が飛び込んで、フェルリナは小さく悲鳴を上げた。


「す、すまんっ!」


 途端、火傷やけどしたように、アルヴェントがフェルリナの肩を掴んでいた手をぱっと放す。


「アルヴェント、様……?」


 夢うつつに呟いた拍子に、寝落ちる前のことを思い出す。


 馬車が動き出してしばらくした頃、目の前に凛々しいアルヴェントが座っているのに気後れして居心地の悪さを感じていると、疲れているのならクッションにもたれて目を閉じておけばいいと言われたのだ。


 視界を遮断すれば、アルヴェントを見ずに済むと素直に従い――。


 そこから先の、記憶がない。


「すっ、すすすすみませんっ、私……っ! えっと……っ!」


 いったいどれだけの時間、眠ってしまっていたのだろうか。


 身を横たえていたクッションから飛び起き、あわてて立ち上がろうとすると、座席の前に片膝をついていたアルヴェントに制された。


「そんなにあわてなくていい。今夜の宿に着いたので起こしたんだが……。歩けそうか?」


「もう宿に……っ!?」


 王城を出たのは午後早くだったはずなのに、もう日暮れだなんて、かなり長い間、眠りこけていたらしい。


「も、申し訳ございません……っ! 私ひとり、のうのうと寝てるなんて……っ!」


 身を縮めて詫びると、穏やかな声が返ってきた。


「気にしないでくれ。討伐帰りなら当然だ。それより、こちらこそ、疲れていたのに無理をさせてすまなかった」


「い、いえっ! 私こそ、アルヴェント様の目の前で寝こけるなんてご無礼を……っ!」


「気にする必要はないと言っただろう?」


 うろたえるフェルリナに、ふっと笑みをこぼしたアルヴェントの手が、不意に左のこめかみへ伸びてくる。


「じっとしてくれ。髪飾りが……」


 寝ている間に乱れてしまったらしい。チェルシーが髪を結ってくれた時に挿してくれた花の透かし彫りがあしらわれた髪飾りの位置を、アルヴェントが直してくれる。


「よし、大丈夫だ」


 満足そうに頷いたアルヴェントの笑みに、ふたたび心臓がぱくんと跳ねる。


「ありがとうございます……」


「それほど疲れているのなら、宿でゆっくり休んだほうがいいだろう。ナレットとチェルシーをつけるから、ゆっくりしてくれ」


 乗った時と同じように、アルヴェントにエスコートされて馬車を降りる。


 目の前に建っていたのは、フェルリナが今まで一度も足を踏み入れたことのない立派な宿だった。


「おいっ! ナレット、チェルシー!」


 アルヴェントの声に、馬のところにいた二人が同僚に手綱をあずけて飛んでくる。


「フェルリナを頼む。フェルリナは今朝、魔物の討伐から帰ってきたばかりなんだ。疲れているだろうから、ゆっくりさせてやってくれ!」


「かしこまりました!」


「フェルリナ様ぁ~。参りましょう~」


 アルヴェントからナレットとチェルシーに引き渡され、あれよあれよという間に、割り当てられた部屋に通される。


 部屋の豪華さに、フェルリナはめまいを起こしそうになった。


「あ、あのっ、ナレットさん、チェルシーさん……っ! お部屋を間違えてませんか……っ!?」


「間違えてませんよ?」


「さすが、高級宿! すぐに湯船の用意をしてくれるそうです~。もちろん、入られますよねぇ?」


「えっ、あの……っ!?」


 昼間、ドレスに着替えた時と同じだ。ぐいぐいくる二人におろおろしている間に、部屋の片隅の衝立ついたての向こうに置かれていたバスタブに宿の侍女によって湯が張られ、ナレットが着替えの準備を、チェルシーが髪飾りを取っていく。


「だ、大丈夫ですっ! ひとりで脱げますから……っ! ナレットさんもチェルシーさんもお疲れでしょう!? 後はひとりで大丈夫ですから……っ!」


 ドレスを脱がされ下着姿になったところで、羞恥心の限界が来て叫ぶ。


 だが、ナレットとチェルシーから返ってきたのはにべもない拒絶の言葉だった。


「団長のご命令ですので、フェルリナ様から目を離すわけにはまいりません!」


「お望みでしたら、アタシがくまなく洗ってさしあげますよぉ~?」


「だ、大丈夫ですっ! ご遠慮しますっ!」


 わきわきと楽しげに手を動かすチェルシーに、心の底から遠慮する。押し問答の結果、二人には衝立の向こうで待機してもらうことになった。


 自分ひとりだけが先に湯を使わせてもらうことを申し訳なく思いながら、なめらかなバスタブにたっぷりそそがれた湯の中にちゃぷりと入る。


「はふぅ~っ」


 バスタブに身を沈めた途端、あたたかな湯の心地よさに無意識に声が出る。


 馬車で眠ったので、ある程度疲れが取れていると思っていたが、長時間馬車に揺られていたせいか、完全に回復しているわけではないらしい。


 バスタブにたっぷりと満たされたあたたかなお湯に、ゆるゆると疲労が融けていく心地がする。


 魔物の討伐の時はいつも、よくて桶一杯の水で身体を清める程度、悪ければ数日そのままという場合だってあることを考えれば、なんという贅沢ぜいたくだろう。


 こんな部屋を用意してくれたアルヴェントには感謝しかない。


 入浴の気持ちよさを思う存分味わっていると、衝立の向こう側からナネットとチェルシーの声が聞こえてきた。


「フェルリナ様、本当にお手伝いは不要ですかぁ〜?」


「必要でしたら、いつでもお声かけくださいね! 今日は大切な日ですし!」


「大切……? この後、食事以外に何かあるんですか?」

 後はもう、食事をとって休むだけだと思っていたのだが。


「あっ、騎士団の皆様にご挨拶でしょうか?」


 だとしたら、挨拶の言葉を考えておかなくては。第一印象は大切だ。


 唇を引き結んだフェルリナの耳に届いたのは、ナネットとチェルシーの楽しげな笑い声だ。


「もーっ! フェルリナ様ったら違いますよ!」


「結婚した日の夜の大切なことと言えば、初夜に決まってるじゃないですかぁ~!」


「ふぁっ!?」


 予想だにしていなかった不意打ちに叫んだ途端、バスタブの中で姿勢を崩した。縁を掴んでいた手がつるりとすべる。


 どぷんっ! と大きな音が立ち、頭が湯の中に沈む。


「フェルリナ様っ!?」

「どうなさいましたっ!?」


 即座に衝立のこちら側へ回り込んだナネットとチェルシーに、腕を掴んで引き起こされる。


「……げほっ、ごほっ!」


 バスタブの縁を掴んで身を乗り出したフェルリナの髪からぼだぼたとお湯がしたたり落ちる。


 沈んだ拍子に湯を飲んでしまったらしい。二人に答えなければと思うのに、咳き込むばかりで全然言葉が出てこない。


「だ、大丈夫ですか、フェルリナ様っ!?」

「しっかりなさってくださいぃ〜!」


「だ、だいじょ……ぶ……」


 うろたえる二人になんとかそれだけを告げる。


 頭がくらくらする。だが、それが咳き込んだせいなのか、湯にのぼせたせいなのか、それともチェルシーの爆弾発言のせいなのか、判然としない。


 ようやく呼吸が落ち着いたところで、フェルリナはおずおずと二人を見上げた。


「あ、あの……っ、さっきのは……っ! ほ、ほんとなんですか……?」


 チェルシーに言われるまで、初夜のことなどまったく全然、欠片も考えていなかった。


 でも、二人が言うとおり、確かに今日は結婚した日の夜だ。


 けれど……。


「こ、心の準備が、その……っ」


 結婚すら青天の霹靂へきれきだったのに、初夜だなんて想像の彼方すぎる。


 半泣きになりながらバスタブの中から二人を見上げると、ナレットとチェルシーが「うぐっ」と呻いた。


「フェルリナ様っ! それは団長には攻撃力が高過ぎます……っ!」


「団長の理性がぶっ飛んじゃいますよぉ~っ!」


「……?」


 きょと、小首をかしげると、二人がそろって「ぐはっ!」とふたたび呻いた。


「やっぱり全身くまなく綺麗に洗いましょう!」


「髪だって濡れちゃいましたし、この際綺麗に洗っちゃいましょ〜! アタシもお手伝いしますので〜!」


「えっ、あの……っ!?」


 この流れは数時間前に経験した気がする。


 ……結果、長湯しすぎてフェルリナは夕食にも出られないほどのぼせたのだった……。


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