5 『ゴビュレスの呪われた灰色熊』


「殿下! 顔っ!」


 ぽすん、とふたたび丸めた羊皮紙でアルヴェントの肩を叩いたのはロベスだ。アルヴェントがはっと我に返ったように左手で顔を覆う。


「す、すまん……。恐ろしかっただろう」


 大きな手のひらで左頬の傷が隠されて初めて、フェルリナはアルヴェントが思っていた以上に端整な顔立ちをしていることにようやく気づいた。


 『ゴビュレスの呪われた灰色熊』という二つ名と、黒紫色の大きな傷跡の印象が強すぎて、印象が引っ張られてしまうのだろう。


「いえ、恐ろしくなど……っ! 少し、驚いてしまっただけで……」


 ふるふるとかぶりを振ると、アルヴェントがほっとしたように表情を緩めた。が、すぐに精悍せいかんな面輪がしかめられる。


だますように婚姻を結んだ本人である俺が言えることではないが……。きみは、この国に二人しかいない聖女のひとりだろう? だというのに、その意思をないがしろにするとは……っ!」


「わ、私は……。加護なしの外れ聖女ですから……」


 アルヴェントの顔が落胆に歪むのを見ていられず、視線を伏せてぼそぼそと告げる。


「イーメリア様と違い、私にはレベルアップ支援の加護がありませんから……」


 アルヴェントがどこまでフェルリナのことを伝えられているのか、まったくわからない。もしかしたら、高く売るためにクレヴェスがちゃんとした情報を伝えていない可能性すらある。


 固く目を閉じ、ぎゅっと身を縮めて降ってくるだろう侮蔑の声に身構えていると、放たれたのは、虚をつかれたような声だった。


「加護なしであることは聞いている。だが……。聖属性魔法はちゃんと扱えるのだろう?」


「は、はいっ! それはもちろん……っ!」


 がばりと顔を上げ、こくこくと頷くと、安堵したように凛々しい面輪がゆるんだ。


「ならば、それで十分だ。ゴビュレス王国には、長らく聖女が生まれていなくてな……。聖属性も使える魔法士がいるものの、数が少ない上に魔物の討伐が頻繁なため、どうしても手が足りていなかったのだ。なので、聖女であるフェルリナ嬢がゴビュレス王国へ来てくれるだけで、ありがたいことこの上ない」


 本心からそう思っているのだとわかる、真摯しんしな声。と、困ったように太い眉が下がる。


「王子に嫁いだのに魔物討伐に行かされるのかと責められたら、その点は謝るしかないのだが……」


「い、いえっ! 魔物の討伐でしたら、いままで何度も参加しておりますっ! お気になさらないでくださいっ!」


 安堵したのはフェルリナのほうだ。


『聖女の魔法が必要だ』


 結婚した理由をごまかされるより、目的をはっきり言ってもらえたほうが、よほど安心する。しかも、加護なしでも問題ないと言ってもらえるなんて。


「ありがとうございます……っ! 私、一生懸命、頑張りますっ!」


 がばりと頭を下げたフェルリナは、そういえば、仮にも夫となった人に伝えるべき言葉を言っていなかったことを思い出す。


「そ、その……っ。不束者ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いいたします……っ」


 告げた途端、かぁっと頬が熱くなる。鏡がないのでわからないが、下手したら耳まで紅くなっているのではなかろうか。


「い、いやっ! そのっ、俺も……っ」


「殿下。挙動不審すぎますよ」


 言葉になっていない切れ切れな声と、冷静極まりない指摘の言葉に顔を上げると、アルヴェントが片手で顔を覆ってそっぽを向き、ロベスがじっととした目で主人を見ていた。


 フェルリナの視線に気づいたロベスが、にこりと隙のない笑顔を浮かべて恭しく一礼する。


「申し訳ございません。ご挨拶が遅れ失礼いたしました。わたくし、アルヴェント殿下の補佐をしております、副団長のロベスと申します」


 自己紹介してくれた青年は、二十過ぎとおぼしきアルヴェントと同年代だろう。落ち着いた雰囲気なので、もしかしたらもう少し年上の可能性もある。


 長身でがっしりした体格のアルヴェントが隣に立っているので目立たないが、ロベスもひと目見ただけで、よく鍛えられているのがわかる身体つきをしている。


「すみません、『ゴビュレスの呪われた灰色熊』の中身がこんなので驚かれましたでしょう? 図体はでかくて二つ名ぴったりですが、実際の中身は熊というより……」


「おいっ! お前っ、いきなり何を吹き込もうとしているっ!?」


 にこにこととんでもないことを言い出したロベスに、顔から手を放したアルヴェントが食ってかかる。


「ご心配なく。殿下が本当は見た目ほど怖くはないのだとフェルリナ様にお伝えして、緊張をほぐそうとしただけです。熊っぽい見た目に違わず、実は蜂蜜入りの甘いお菓子が好きですとか、中身は灰色熊というよりむしろ熊のぬいぐるみのほうが近いですとか……」


「おま……っ」


 掴みかかろうとするアルヴェントの手を、ひょいとロベスがかわす。


「よけるなっ!」


「そのご命令は承知いたしかねます。それより、よろしいのですか? フェルリナ様を放っておいて」


「っ!?」


 息を呑んだアルヴェントが、ばっとフェルリナを振り返る。途端、黒い目が驚きに瞠られた。


 くすくすとこらえきれないように笑うフェルリナを見て。


「も、申し訳ございません……っ! で、ですが、お二人のやりとりが新鮮で……っ」


 笑っては失礼だ。わかっているのに、身分の上下など感じさせない二人の仲のよさに、ついつい笑みがこぼれてしまう。


 まさか、『ゴビュレスの呪われた灰色熊』と恐れられる方が、副団長とはこんなにくだけたやりとりをする方だったなんて。


 第一印象とは大違いだ。アルヴェントに抱いていた恐怖がほろほろと崩れていく。


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