4 俺と婚姻を結ぶことを聞かされていなかった、のか……?


「ひとまず、今後の話がしたい」


 婚姻届を再び巻いてロベスに預けたアルヴェントにそう告げられたフェルリナは、王城内にあるアルヴェントに割り当てられた客室へと連れて行かれた。


 賓客ひんきゃくにふさわしい豪奢ごうしゃな部屋の内装に気後れしながら入室し、最後尾にいたロベスが扉を閉めた瞬間。


「すまなかった!」


 突如、アルヴェントに身を二つに折るように頭を下げられ、フェルリナは度肝を抜かれた。


 長身を曲げるあまりの勢いに、ぶんっ、と風切り音さえ聞こえた気がする。


「で、でででで殿下っ!? あのっ、どうなさったのですか!? お顔をお上げくださいませっ!」


 すっとんきょうな声を上げ、あわあわと意味もなく手を上下させる。


 つい先ほど、夫婦になったばかりだが、第二王子の身体に不用意にふれていいものだろうか。いや、フェルリナの力程度では、アルヴェントの身を起こすことなどできそうにないが。


 フェルリナの願いが届いたのか、ゆっくりと顔を上げたアルヴェントが、「その……」と気まずげな表情で指先で左頬の傷をいた。


「クレヴェス殿下から、『仮にも聖女が嫁ぐのだから、クライン王国側にも準備がいる』とらされていたんだが、まさか討伐に出ていたとは思いもよらず……。知っていれば、せめて明日にしたものを……。討伐帰りにいきなり呼び出してすまなかった!」


 放っておいたらもう一度頭を下げそうなアルヴェントに、ぶんぶんぶんっ! と千切れんばかりに首と手を振る。


「いえいえいえっ! 私こそ申し訳ございませんっ! 討伐帰りのこんな薄汚れた格好をお見せしてしまいまして……っ! ご用を知っておりましたら、せめて着替えだけでもいたしましたのに……っ!」


「――え」


 告げた瞬間、黒い目がみはられる。


「も、もしや……。俺と婚姻を結ぶことを聞かされていなかった、のか……?」


 驚愕にかすれた声。なぜこれほどアルヴェントが驚いているかわからず、フェルリナは身を縮めて頭を下げた。


「も、申し訳ございません……っ! あまりのことに驚いてしまいまして、先ほどは失礼な態度を……、っ!?」


 どしゃあっ!


 突然、目の前で巨体がくずおれ、驚愕に息を呑む。


 膝から崩れ落ち、四つん這いになったアルヴェントが、床に着いた両手をわなわなと震わせていた。


「そんな……っ! クレヴェス殿下は、ちゃんとフェルリナ嬢の了承を取ったと……っ! いや、確かに『ゴビュレスの呪われた灰色熊』と呼ばれる俺に聖女が嫁ぐことを了承してくれるなんて話がうますぎるとは思ったが……っ!」


 手袋をつけてるんじゃないかと思うような骨ばった大きな手が、ぐわし、と毛の長い絨毯じゅうたんを握りしめる。ひと目で高級品とわかる絨毯なのに、毛が抜けたらどうしよう。


「で、殿下っ!? あ、あの……っ!?」


「血の気の引いた蒼白な顔で震えているのを見た時、『あれっ?』と疑問に思ったし、なんならちょっと傷ついたけどっ! でもまさか、婚姻のことすら聞かされてなかったなんて……っ!」


「殿下、ちょっと落ちついてください。フェルリナ様が怯えてらっしゃいます。貴族や王族の結婚なんて、顔も見たこともない相手とする場合だってあるでしょう?」


 ぽすん。うろたえるばかりのフェルリナに代わり、巻いた羊皮紙でアルヴェントの背中を軽く叩いたのはロベスだ。怜悧れいりそうな面輪には、いまは多分に呆れがまじっている。


「落ち着いていられるかっ! 顔を知らない相手ならまだしも、そもそも相手の名前さえ知らないなんて、完全にだまし討ちだろう、それはっ!」


 がばっと勢いよく立ち上がったアルヴェントが、ロベスを振り向いてえる。


「すでに婚姻届にサインした後ですけれどね」


 ふりふりとロベスが手にした巻いてリボンをかけた婚姻届を左右に揺らすと、「ゔ……っ!」と剣で刺されたようにアルヴェントが呻いた。


「そ、それは……っ! だが……っ!」


 絞り出すように苦しげな声をこぼしたアルヴェントに、「その、殿下……」とおずおずと声をかけると、「何だっ!?」と風圧を感じそうな勢いで振り返られた。


 あまりに勢いが激しすぎて、反射的に悲鳴が飛び出しそうになる。


「あの、どうか、気に病まないでくださいませ……。王太子殿下と父が決めたのでしたら、その時点で私の意思など関係ないのです。ですから、決して殿下のせいではございません」


 やっぱり、この方はいい方だ。


 じん、と胸が熱くなるような喜びがフェルリナの心に広がっていく。


 一国の王子であるというのに、フェルリナに謝ってくれたばかりか、フェルリナが結婚相手を聞かされていなかったことに怒ってくれた。


 それだけで、王太子や父の仕打ちがどうでもよくなるほどの嬉しさが湧き上がる。


 加護なし聖女である自分を、これほど尊重してくれる人など、いままでひとりもいなかった。


 だから、少しでもアルヴェントの気持ちを軽くしたくて、笑みを浮かべて懸命に告げたのだが。


 告げた途端、ぎりっ、とアルヴェントが精悍な顔を強張らせて奥歯を噛みしめた。何か失敗してしまったのかと、無意識に肩が震える。


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