3 婚姻届へのサイン
当然だ。討伐から帰ってきたばかりのフェルリナは、身を清めて着替えすらしていない薄汚れた姿なのだから。
こんな格好で隣国の第二王子の前に出るなんて、本来ならばありえない。
精悍な面輪をしかめて沈黙したアルヴェントをとりなすように、クレヴェスが口を開く。
「アルヴェント殿下。そこにいるのが、ご所望の聖女だ。本来なら正装させて引き渡すべきだろうが……。そちらも早く手に入れたいと言っていただろう? 何より、討伐帰りの姿を見れば、こやつが討伐に慣れているとひと目でわかると思ってな。どうだ? そちらが望んだとおりの聖女だろう?」
「すぐに引き合わせることはできないと聞いていたが……。討伐に出ていたのか?」
クレヴェスの笑んだ声に、フェルリナに視線を向けたままアルヴェントが低い声で問う。フェルリナを見るまなざしは、まるで商品を観察するかのような冷徹さだ。
「さすがに、討伐の途中でひとりだけ抜けさせるわけにはいかんからな。で、どうだ? 急ぎなのだろう? こちらは、このままゴビュレス王国へ連れ帰ってくれてかまわない。父親も了承済みだ」
クレヴェスの声に、父が壊れた人形のように何度も頷く。アルヴェントが
フェルリナもただただ無言で、かすかに震えながら灰色の髪の偉丈夫を見上げることしかできない。
初めて逢った、自分の夫となる御方。いや、夫だとは思わないほうがいいだろう。聖女とはいえ加護なしで男爵の娘にすぎないフェルリナと、第二王子とでは、そもそも身分が違い過ぎる。誠心誠意仕えるべき主人だと思うべきだ。
否応なしに目を引く左頬の傷を除けば、『ゴビュレスの呪われた灰色熊』という二つ名から連想するような粗暴さは感じられない。
だが、油断してはだめだ。隣国の王太子の前なので取り
でなければ、『呪われた灰色熊』などという物騒な二つ名がつくはずがない。
クレヴェスの言葉に、アルヴェントが小さく吐息して口を開く。
「……では、フェルリナ嬢はすぐにこちらで引き取らせていただこう。ロベス、書類を」
アルヴェントが後ろを振り向く、そこで初めて、フェルリナはアルヴェントの後ろに細身の青年が控えていることに気がついた。アルヴェントの第一印象が強すぎて、青年の存在にまで気が回らなかったのだ。
ロベスと呼ばれた青年が、手に持っていた巻かれた羊皮紙を恭しくアルヴェントに差し出す。
執務机まで歩み寄ったアルヴェントが羊皮紙に巻かれていたリボンをほどき、重なっていた二枚の羊皮紙をそれぞれ卓上に広げる。見下ろしたクレヴェスが苦笑を洩らした。
「婚姻届まで持参するとは、用意周到だな。それだけ、聖女を欲していたということか」
「秋のうちに、魔物の討伐を済ませておきたいからな。一日も早くフェルリナ嬢を連れ帰りたい」
クレヴェスが渡したペンを受け取ったアルヴェントが、さらさらと二枚の羊皮紙にサインをする。
まるで、売買契約書にサインするような気軽さで。
次いで、ペンを返されたクレヴェスと父がそれぞれ羊皮紙にサインした。
「フェルリナ嬢。最後はきみだ」
三人がサインする様子をぼんやりと見ていたフェルリナは、不意にこちらを振り返ったアルヴェントの声にびくりと肩を震わせる。
「あ……っ。は、はい……」
フェルリナがここでサインを断るなんてことができるはずがない。
本人の知らぬところで、すでに契約は交わされているのだから。
くずおれそうになる足を叱咤し、執務机に歩み寄って、ペンを握る。早くサインをせねばと気が
「……読まずにサインしてよいのか?」
焦っていると隣に立つアルヴェントから深みのある声が降ってきた。
「え……?」
予想だにしない言葉に反射的に隣を見上げると、黒い瞳が静かな光をたたえてフェルリナを見下ろしていた。
「突然のことに驚き、緊張しているのだろう。婚姻を白紙にすることはできんが……。心配なら、ちゃんと読んでおくといい。別に、ふつうの婚姻届と変わらんがな」
とつとつと紡がれる低い声。口調はそっけないものの、そこに確かに含まれている気遣いに、フェルリナはようやく視界が開ける心地がする。
「あ、ありがとうございます……っ」
礼を述べ、羊皮紙に目を走らせる。
平民でも貴族でも、結婚する時は神殿に届け出る。もっとも、婚姻届として書面に取り決めを書き起こし、神殿と当人達で一部ずつ保管するようなことは、後継者問題や権利関係などが煩雑な貴族か、大きな商家くらいしかしないらしいが。そもそも、平民は字の読み書きができない者さえいる。
もちろんフェルリナは婚姻届などいままで読んだことがなかったが、ざっと目を通した限り、特に問題はないように思われた。
フェルリナがゴビュレス王国の第二王子であるアルヴェントの妻となること。フェルリナを庇護する責任は今後、アルヴェントが負うことになり、クライン王国も、父親である男爵も、フェルリナの進退に介入する権利を失うこと。
アルヴェントはフェルリナを正式な妻として遇し、誠実に夫としての務めを果たすこと。フェルリナもまた、アルヴェントを夫として誠実に妻としての務めを果たすこと、などなど。
クライン王国と縁を切るに等しい文言に少しひっかかりを覚えはしたが、もしかしたら異国に嫁ぐということはこういうことなのかもしれない、と自分を納得させる。
加護なしとはいえ、フェルリナは聖女だ。どちらの国に属することになるのか、はっきりさせておいたほうが後々のためにもよいに違いない。
少なくとも文面を見る限りは、売買契約でも奴隷契約でも、ない。
ほ、と小さく吐息して、フェルリナはようやく震えのとまった手で、二枚の羊皮紙にサインをする。
「ひとまず、これで婚姻は成されたな」
「ああ、おめでとう! アルヴェント殿下の結婚を心からお祝いするよ。せっかく手に入れた聖女だ。有効に使ってくれ」
淡々と告げたアルヴェントの語尾を食うように華やかな声を上げたのはクレヴェスだ。苦い表情のアルヴェントと満面の笑みのクレヴェスを見ていると、いったいどちらが新郎なのかわからないほどだ。
クレヴェスにしてみれば、加護なし聖女に予想もしないほどの高値がついたのだから、当然だろう。
王太子に
「アルヴェント殿下、誠におめでとうございます! これで我が娘はあなた様のもの。今後は殿下のご
「フェルリナ嬢」
「は、はいっ!」
アルヴェントの声が男爵の言葉を断ち切る。不意に名前を呼ばれて、フェルリナはぴんと背筋を伸ばした。
「この部屋を出れば、しばらく家族とも会うことはなかろう。何か、言っておくことはあるか?」
問われて、不意に気づく。
アルヴェントだけが、フェルリナを『聖女』ではなく名前で呼んでくれる。ちゃんと、フェルリナというひとりの人間が存在するのだと見てくれているかのように。
(この方は……。もしかしたら、見た目ほど怖い方ではないのかもしれない……)
不安の中、幻の希望に
アルヴェントの渋面は、いったい何を考えているのかフェルリナにはまったくうかがい知れないし、自分がこれからどのように扱われるのか、予想もつかない。
それでも、すでにサインはしてしまった。
「王太子殿下、お父様……。長らく、お世話になりました」
淑女としての礼儀作法を総動員して丁寧に頭を下げる。けれど、それ以上の伝えたい言葉は出てこない。
結局、父との関係はその程度だったのかと……。ほんの少しだけ、つきりと胸が痛んだ。
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