2 喜べ。お前の嫁ぎ先が見つかったぞ
フェルリナが団長に連れて行かれた先は、王太子クレヴェスの執務室だった。フェルリナを侍従に引き渡した団長は、自分の役目は済んだとばかりに背を向ける。討伐を終えてようやく帰ってこられたのだ。早く休みたいのだろう。
フェルリナが来訪することはすでに知らされていたのだろう。侍従がすぐに室内におうかがいを立てる。
執務机に置かれた書類にサインしていたクレヴェスは、入室の許可を得て恭しく一礼したフェルリナを見た途端、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「聖女とは思えんほどみすぼらしい姿だな」
ならば身支度を整える時間を与えてくださればよいのに、と思うが、フェルリナの身分でそんなことを口に出せるわけがない。
それよりもフェルリナの度肝を抜いたのは、執務室のそばで
フェルリナが聖女だとわかってから八年。
最初は我が家の誉れだ、輝かしい未来が来るに違いない、とフェルリナを褒めそやしていたのに、加護の使えぬ聖女だとわかった途端、まるでフェルリナなど最初からいなかったかのように、交流を絶っていた父が、なぜここにいるのか。
フェルリナをちらりと見たきり、王太子を注視する父親に
王太子であるクレヴェスは二十一歳。貴族令嬢がこぞって王妃になりたいと願う美青年だが、酷薄そうな笑みに、フェルリナは見惚れるより先に肝が冷える。
次期王妃では、と噂されるほど親しくしているイーメリアからフェルリナの加護なし聖女ぶりを聞いているクレヴェスが、フェルリナをひどく蔑んでいるのは、いままで何度も投げつけられたことのある侮蔑の言葉で知っている。王太子がこうなのだ。それを受けて騎士達がフェルリナを
だが、フェルリナだけでなく父親まで呼び出されるとは、自覚がないままにどれほどの大失敗をしてしまったのだろう。考えるだけで血の気が引いて足が震えてくる。
「フェルリナ、喜べ。お前の嫁ぎ先が見つかったぞ」
「…………え?」
予想だにしなかった通告に、かすれた声が洩れる。かまわずクレヴェスが言を継いだ。
「男爵の許可もすでに得た。これは決定事項だ。ちなみに、嫁ぐのは今日だ」
「っ!?」
フェルリナだって男爵とはいえ、貴族の娘だ。婚姻は家のために結ぶものであり、そこにフェルリナ自身の希望など
だが、討伐から帰ってくるなり、「今日嫁げ」とはあまりに急すぎる。非常識と言っていい。
「フェルリナ、王太子殿下のご命令は絶対だ。何より、お相手はやんごとなき御方。お前が聖女でなければ、決して
額から脂汗を垂らしながら父が言う。
だが、相手が尊い方なのなら、なぜ父はフェルリナと視線を合わせてくれぬのだろう。フェルリナを使って成り上がろうと考えていた父ならば、身分の高い結婚相手に大喜びするはずなのに。
「お教えくださいませ。私のお相手はどなた様なのですか……?」
問う声が震える。
王太子と父が決めた婚姻ならば、フェルリナに
だが、心に押し寄せる不安が、勝手に口を動かしていた。
クレヴェスの笑みが、嘲りを宿して深くなる。
「喜べ。お前の相手は、なんと隣国の第二王子だぞ。――お前は、『ゴビュレスの呪われた
クレヴェスの宣告が、矢のようにフェルリナを貫く。ふらりとかしぎそうになるのを、フェルリナはかろうじてこらえた。
『ゴビュレスの呪われた灰色熊』
畏怖と驚嘆といくばくかの嘲りを持って呼ばれるその二つ名は、フェルリナも何度も聞いたことがある。
隣国ゴビュレスの第二王子にして、隣国の第二騎士団の団長。
この大陸に存在する七つの王国は、緩やかな連合体を成している。大陸の東部には前人未到の広大な魔物の領域があり、ひとつの国の力では抗しきれないからだ。
ゴビュレス王国はクライン王国の北東部に位置し、南東部のマレリエス王国と並び、魔物との境界を守る最前線の国だ。
国土の多くは
その討伐の指揮を執る第二王子・アルヴェントは、王城よりも遠征先でいることのほうが多いらしい。
だが同時に、アルヴェントが王城に居つかぬのは、粗暴で礼儀作法を
それゆえについた二つ名が、濃い灰色の髪にちなんだ『ゴビュレスの呪われた灰色熊』だ。もちろん、本人を前にしてそんな二つ名を呼べる者など皆無だろうが。
まさか、そんな相手に嫁がされるとは。
呆然と立ち尽くすフェルリナの耳に、クレヴェスの楽しげな声が流れ込む。
「初めてお前が聖女であることに感謝したぞ、フェルリナ。お前がゴビュレスの呪われた灰色熊に嫁ぐおかげで、材木代と今年の拠出金が無償になったのだからな。ゴビュレス国は頻繁に討伐があるらしい。しかも、ゴビュレスには現在、聖女はいないという話だからな。加護なしとはいえ、喉から手が出るほど欲しかったのだろう。これ以上ないほど楽な交渉だったぞ!」
クレヴェスの哄笑が
だが、フェルリナは答えるどころではなかった。
クレヴェスの言葉が、ぐるぐると頭の中で渦巻いている。
いや、この結婚は政略結婚とさえ呼べない。
まるで、商品のように――フェルリナは王太子と父親に、いや、国に売られたのも同然なのだ。
「第二王子の妃とは、加護なし聖女とは思えぬほどの出世ではないか! ゴビュレス王家も考えたものだ。身内として取り込んでしまえば、どれほど酷使しようと、どこからも文句が出ることはない。飼い殺しの奴隷ができたも同然だな」
クレヴェスの言う内容は真実なのだろう。隣とはいえ異国に嫁入りすれば、そこでの生活がどれほど過酷だろうと、逃げ出すすべはフェルリナにはない。
しかも、ゴビュレス王国の討伐ならば、きっとクライン王国とは比べ物にならぬほど過酷だろう。
いったい、どんな生活が待っているのか……。
絶望のあまり、視界が
と、扉が叩かれ、侍従が来訪者を告げる声に、弾かれたように身を震わせる。
「ゴビュレス王国第二王子、アルヴェント殿下がいらっしゃいました」
「ああ、お通しせよ」
クレヴェスの指示に、すぐさま扉が開けられる。
「失礼する」
低く野太い声。
黒い礼装に身を包んだ偉丈夫だった。
硬そうな灰色の短髪を持つ長身は、扉の
全身から発されているのは、『灰色熊』どころか、討伐で何度か戦ったことのある強敵・クロウベアを連想させるような威圧感だ。
彫りの深い精悍な顔立ちは凛々しさにあふれているが――。
左の頬にななめにざっくりと走る黒紫の古傷を見た途端、こぼれそうになった悲鳴を、フェルリナはかろうじて噛み殺す。
だが、鋭く呑んだ呼気が耳に届いてしまったらしい。素早い動きでアルヴェントがフェルリナを振り返る。
磨いた刃を連想させる黒い目が、フェルリナを見とめた瞬間、細くすがめられた。
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