青春の終わりと今日の始まり
最後のお客さんが訪れたのは店を閉める直前だった。
「お店、まだ開いてるかしら」
水のせせらぎのように澄んだ、なじみ深い少女の声に安堵する。
私は火床の前で構えたまま、出窓の方向へと振り返った。
「いらっしゃいませ。でも遅かったね。ひょっとしたらもう来ないのかなーと」
「馬鹿ね。何年執着してると思ってるの」
「知らないって。予備校お疲れ様。よかったら糖分補給していって」
「ありがとう。遅い時間にごめんなさい」
さして悪びれた様子もなく、彼女――江津由香里は柔らかく笑んだ。初めておうちにお邪魔した日と同じオフショルを着用している。
「それ、クーラー効いた部屋だと寒くない?」
「室内では上着羽織ってるから」
「オフショルの意味は……?」
「柊さんに見せる用」
彼女はここで食べる分を一枚、持ち帰りを二枚注文した。
焼く準備をしていると滝野が頭の後ろに手をやって呟く。
「あー、アタシ外したほうがええか? 積もる話もあるやろうし」
「いえ、栗須さんも居てくれていいです。同盟者のよしみということで」
車の後部に向かいかけた滝野を止めて、彼女はこちらを見やる。
沈黙を埋めるように木々が揺れた。火床のガスが小さく音を立てた。
「話なら別に後でもいいよ? 今は一丁焼きで忙しいし」
「ううん、聞いてくれるだけでいいから。でも作業の邪魔なら今度にする」
「聞くだけなら大丈夫だよ」
「ありがとう。うるさかったら言ってね。去年の秋、図書室でたい焼きをふるまってくれたの、覚えてる?」
昔話だった。クリーム色の生地を型に敷きながら応じる。
「忘れないよ、実質デビュー戦だもん。今思うと不出来だったかもだけど。図書委員のみんなの感想、あれ結構お世辞も入ってたよね」
「そうね。でもあれはあれで美味しかった。あのとき初めて埋まった気がしたの」
「何が?」
「心の穴。幸せを注がれるようだったくりすやとは違うけど」
平たく乗せた餡に生地を上がけし、焼き型の蓋をおろす。
蓋の隙間からじゅっと音がして、不可視の時間が流れ始める。
「柊さんの腕前はあの頃よりもずっとずっと上達して。材料の粉も水も突きとめて、本当にあの味を甦らせちゃって。でもちっとも変わらないところもあって。頑固でおバカで、お人好しで」
「最後のほうは悪口っぽいけど愛情表現として受け取るよ」
三本の焼き型の火の当たりを間断なく調整し続ける。
頬への熱気とかすかに漏れる音、そして火床が醸し出す雰囲気。目と耳と肌を駆使して情報を仕入れ、中身の焼け具合を読む。
「粉はなくなってももくりも閉まる。くりすやはこれで今度こそおしまい。二代目の女の子は頑張った。二度とシャッターが上がる日は来ない」
焼き型を引っくり返し、火力を弱める。順繰りに型を持ち替える。
「でもね、私はもう寂しくないの」
適宜位置をずらし、道具類を一瞥し、焼きあがる瞬間を待つ。
「柊さんが生きててくれるから」
頭の中でアラームが鳴った。ひとつずつ蓋を開く。完成だった。
経木に挟んだ一枚を包み紙に入れて滝野の手へと渡す。残りの二枚を包装している間に、滝野が江津さんに告げた。
「お待たせしました。大変熱いのでお気を付けてお召し上がりください」
「ありがとうございます。いただく前に――ねえ、柊さん!」
渡されたたい焼きを口にする前に、江津さんは私を呼んだ。
最後の仕事を終えた私は、出窓の向こうの彼女に向き直る。
「うん? 早く食べないと冷めちゃうよ」
「熱々だから少しくらい大丈夫よ。あのね、私、」
高い位置にいる私を見据えて挑戦的に微笑む江津さん。服越しにその胸が膨らんだ。緊張を払うように息を吸っている。
たい焼きを両手で持ったまま、一拍置いて彼女は宣言した。
「一生通うから。覚悟してね」
重たく湿った夏の夜風が艶やかな黒い髪をなびかせる。
それはどこか芝居がかった、けれど不思議とわざとらしさを感じない、映画のヒロインみたいに見る人の心を射抜く、笑い顔だった。
彼女のほっぺは朱色に染まっていた。
「――――」
つかの間、夏場の暑さを忘れた。
ミウミウ顔負けの華やいだスマイルに魅了され固まってしまう。滝野につっつかれて我に返り、数秒遅れで言葉を返した。
「一生たい焼き屋やれってことかな?」
「ううん。でも、そう捉えてもらってもいいわよ」
「相変わらず重いなあ」
「重く聞こえるように言ってるのよ」
苦笑する私に彼女は余裕たっぷりな含み笑いをこぼして、
「期待してるからね、未来の店主さん」
いただきますと小さく言い添えて、私たちの成果をひとくち食んだ。
**
余熱の残るたい焼きを箱に収めて、カウンターに話しかける。
「結局、余った材料で十枚焼けたけど。滝野は一枚もいらないの?」
「いらんいらん。しかし完売手前とか狙い通りやな。気持ちええわ」
出窓を畳むレバーをぐるぐると回す滝野はご機嫌そうだった。
焼き手としては作った品を辞退されて少々残念だけれど、無理に押しつけるつもりもなかった。手前の取り分が増えてよしとする。帰宅したら打ち上げに行く前に家の冷凍庫に放りこもう。冷凍焼けを避けるべく、今度こそ早めに食べきる心積もりで。
マーカースタンド等の道具一式を車の中に運び終える。片付けを終えた私はすっかり暗くなった周囲を見回した。今後はそう訪れることもない、ひなびた住宅街の片ほとり。
オープンから九ヶ月が経つけど営業日数は百に満たない。
あまりにも短いお店だった。閉店したという実感も薄い。
(なんだかレシピを研究していた時間のほうが長かった気がする。元々お店の営業より、味の再現が主目的だったし)
「これ以上暗くなる前に帰るでー。はよ乗りい」
運転席の窓から顔を出した滝野に呼ばれ、助手席に乗りこむ。
お腹に響く独特の排気音を鳴らして車は発進した。
「焼きゴテ、シャロンちゃんに渡しとったな」
交差点でハンドルを切った滝野がぼそっと不満そうにこぼす。
「いいじゃん、シャロンちゃんかわいいし」
「アタシにはわけわからん理由つけて返さんかったくせに」
「うっわ、まだ根に持ってる。ていうか滝野のじゃないって言ってるでしょ」
「五本はアタシの。だいたいももくり開いた時点で共有財産やろ」
「お店畳んだらあげるってこの前言ってたじゃん。もう全部私のですうー」
しがない言いあいに興じるのは気を紛らわすためなのかもしれない。滝野との残り少ない時間が刻々と実もなく埋まっていく。見慣れた復路の景色が早回しで後方へと通り去っていく。
駅前のロータリーを抜けると、夜の暗さが一段と深まった。
灯りの少ない街道を越え、曲がりくねった坂道に差しかかる。
「……」
「……」
急にお互いの口数が減った。狭い路地を徐行気味に進む。
「滝野って自分勝手だよね」
口を衝いたのは、とっくのとうに整理をつけたはずの鬱憤だった。
滝野が一瞬こちらに目を向け、すぐ正面のフロントガラスに戻す。
「日誌のことも、平日に他の店に勤めてたことも黙ってたし。高知での約束も反故にするし、結局閉店するのだってそう。水の硬度の件だって本当は知ってて秘密にしてたんじゃないの」
違う。お別れの間際になってこんなことが言いたいわけではない。
わけではないのに、止まらない。
溜まった感情が堰を切っている。
「『やっぱももくり続けるわ』って、とうとう最後まで言ってくれない。今だってだんまり決めこんでる。私、結構傷心なんだよ? わかってる?」
「……」
「わかるわかる、もうすぐさよならだもんね。黙りこんでれば逃げきれる。でもそんなふうに生きてたらすぐに周りから愛想つかされるんだから。渡る世間は他人ばっかりで、みんな大人には甘くないんだ」
滝野はなんにも言い返さない。先ほどまでとは打って変わって神妙な面持ちを保ったまま、いいように非難されている。甘んじて言葉の雨に叩かれている。
雨は降り止むすべを忘れている。
「ずっと一緒だって言ったのに。いなくならないって約束したのに」
(まるで駄々っ子だ。何してるんだ、私)
最後なんだから楽しい話のひとつでもすればいいのに、拗ねて。
相手の痛みを慮らずに一方的に痛みを押しつける。
こんなにも幼稚な自分が、果たして誰かの足場になどなれるのか――善くありたい気持ちとは裏腹に罵倒と糾弾の声音は止まず、車が家に着いて対話を打ち切られるその瞬間を待っている。
滝野は車の走るスピードを極端に上げも下げもしなかった。
燃費を抑えるようにアクセルを優しく踏みしめ、坂を登りきった。
家のガレージに停車し、エンジンを切った滝野が車を降りる。暗い車内に取り残された私ものろのろと彼女に続く。外は蒸し暑い夏の空気と名も知らない虫の声で満ちていた。
「すまんかったな」
ガレージの前で待っていた滝野は、それだけ言って頭を下げた。
「……違う、違うんだよ滝野。私が言いたかったのは」
「みなまで言わんでええよ。ほれ」
彼女はこちらの弁明を遮って何か放り投げてきた。
夜の暗闇に紛れて見えづらいそれをどうにか両手でキャッチする。硬い感触を覚えた手の上で、チャリン、と金属音が鳴った。
「これって……車のキー?」
「前にくれてやる言うたやろ? トラックも今置いていくさかい」
錨の形のキーホルダーが付いた昔ながらのプレートキー。ついまじまじと注視する私に、滝野は手向けの言葉を重ねる。
「委任状とか必要な書類は全部藻永さんに預けとるから。しゃきっと気いつけて運転せえよ。どこで聞いたかよう忘れたけど、何、千葉は事故率一位やからな」
いつか私が口にしたネタだ。反射的に面を上げようとした。しかしできなかった。上からごつい手で頭を押さえこまれたのだ。
強制的に向かされた地面にぽつぽつ訂正のツッコミを落とす。
「……事故率じゃなくて事故死亡率ね。あと、それもう古いデータになった」
「え? ホンマ?」
「ホンマ。今は五位までの間をうろついてる」
「よう死ぬんは変わっとらんやんけ」
「土地柄ってやつだよ。それより車検とかってどうすればいいの?」
「自分で調べえや。免許取ったらガキ卒業や、甘ったれんな」
くしゃくしゃに髪をかき混ぜられる。つむじが刺激されてくすぐったい。
滝野の表情はうかがい知れない。滝野からもこちらは見えないはず。そう思ったらふっと安心して、また泡のように情動が溢れた。今一時だけはいくら面に出しても彼女の負担にならない。
私は我慢の利かないガキだから、この気遣いはありがたかった。
あるいは、滝野も今の自分の顔を見られたくないのかもしれない。
「ほな、またな」
滝野が頭から手を離した。淡いぬくもりが夜に霧散する。
拘束が取れて首を上向ける。
「うん、また――」
滝野の目の端が潤んでいる。
「――――」
呆然とする私を置き去りに彼女はすたすたと歩き出した。さっき車で来た坂道を今度は徒歩で悠然と下っていく。先の見えない夜闇をまっすぐと、その強靭な体躯で切るように。
暗がりに彼女の背が溶けていく。
赤いひとつ結びが揺れている。
「滝野!」
無意識のうちに呼び止めていた。
ぴたりと滝野の足がそこで止まる。
長いようで短い間を置いて、彼女はゆるりとこちらを振り向いた。
またあの顔だ。戸惑う子どもの顔。
中学の頃の私に似た顔。
深く呼吸し、肺を膨らませる。凍った血潮に酸素を巡らせる。
「……今まで、」
泣き言でも憎まれ口でもない。
愚痴も批判も、謝罪だって違う。
柊桃が栗須滝野にかけるべき言葉、それは――
「今までずっと! 傍に居てくれて、一緒に居てくれてありがとう!」
――きっと、彼女が振り絞った優しさを嘘にしないための、感謝だ。
「…………」
ぱちくりと目をしばたたかせる滝野。
これ以上継ぐ二の句もない私。
互いの視線が無防備に結ばれる。想いの糸電話みたいだ。ぴんと張った透明な糸を通して気持ちの震えが伝わるよう。嘘つき・身勝手・ええかっこしいな栗須滝野という人の心が、今はすべて理解できる気がした。錯覚だなんて思いたくない。
空には夏の星が瞬いていた。大気が湿っているのだろう。空気中の水分で星の光が屈折してにじんで目に映る。
「初めて桃と会うたとき、石動さんらのこと人がええって言うたけど」
滝野が薄く唇を開いた。小さな声だけどよく響いた。
ふっと息をつき、彼女は照れ隠しみたいにふてぶてしく微笑んだ。
「桃がいっちゃんお人好しやったな。この一年間、感謝しかないわ」
それがこの夜に私と滝野が交わした最後の会話となった。
再び呼びかけることもなければ、二度と振り返ることもなかった。
闇に紛れて遠ざかる姿を見えなくなるまで見送った後。
「お疲れ様」
タイミングを見計らったようにエマの家から江津さんが出てきた。またお邪魔して待機していたらしい。彼女は後ろ手で門扉を閉めた。
「江津さんは滝野にお別れ言わなくてよかったの? 古い仲なんでしょ」
「仲なんて呼べる間柄じゃないし、どうせそのうちまた会えるでしょ。それよりこれから先輩たちと打ち上げよね? 一緒に行きましょう」
「残ったたい焼きをうちの冷凍庫にしまってからね。そうだ、エマは? 家にいるんでしょ?」
「誘ったけど、知らない人ばっかりだろうし不参加でよろしくって」
「人見知りするキャラじゃないでしょ、あいつ」
小さく噴き出してしまい、感情の振れ幅が大きくなっているのを自覚する。
私はぎゅっと拳を握りしめ、足先に力を入れた。
「なら急がないとね。主役が何してたんだーってどやされちゃう。でもあれかな、実はみんな飲み会の口実が欲しかっただけだったり? あ、未成年か」
どうでもいい軽口を叩いて自宅の玄関に向かおうとする。
足が棒きれのように動かない。自分の身体ではないみたいだ。
「あれ。やばい、過労かな? 立ち仕事も慣れたつもりだったんだけど」
へらへらしながら江津さんを見る。
声も、喉自体も震えていた。ごまかそうとした表情筋が引きつった。うまく笑顔を作れない。
かろうじて動く腕を上げてみたら、自然と肩の位置が下がった。
やれやれ、といったポーズが完成。
「おや、これは……自虐?」
半ばピエロと化している私に、江津さんがため息をこぼした。
「もう、しょうがないんだから」
彼女は軽く肩をすくめてから、両手をこちらに広げてみせた。
ん、と私のことを目で招く。こちらはいわゆるハグ待ちのポーズ。
「……ハイタッチのときもそうだったけど、江津さん、いっつもわかりにくいよ。言ってくれなきゃよくわかんない」
「わかってるくせに。いつでも貸すって言ったでしょ?」
片目を閉じ、残った杏形の瞳で心を見透かす江津さん。
そよ風が鼻先をくすぐった。ふと、ミントの匂いを探していた。
「江津さん」
視界がぼやける。
どうやら色々と限界らしい。
いよいよ足の力を失って、私は江津さんに寄りかかった。
「ごめん。急がないとなのに」
背中がびくんびくん痙攣する。肩に押しつけた目元が濡れる。強く掴んだ服の袖口にはシワがついてしまうかもしれない。
押し殺すような嗚咽が、狭まった喉の奥から漏れ出してくる。
「ううん。ゆっくりでいいからね」
体重を預けた私の頭を江津さんはそっと撫でてくれた。
温かい胸の中で泣きじゃくる。本当に、お母さんみたいだった。
**
こうして私、柊桃の一年におよぶ青春は終わった。
人生のレールなどそっちのけで一丁焼きと向きあった日々は、そこで叶えた夢も恋もはじけて消える、泡沫のひとときだった。
それでもなお残るものはあった。だから寂しさも飲みこんでいける。
いい時間だった。嬉しいことも、悲しいことも星の数ほどあった。
――これは、幾十年と続いていく、ある小さなたい焼き屋の始まり。
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