最終日・夕方/取り戻したもの
空の底が抜けたような雨があがり、街に夕陽が戻ってくる。
止めていた息を吐くようにアスファルトが日中の熱を放出し、路上はすぐサウナに変貌した。景色もサウナみたく橙に染まる。出窓から潜りこんでくる外気の肌触りはじっとりと不快で、火床とクーラーがかき混ぜる車内の空気はまだマシに感じられた。
「お、山の先に虹がかかっとるで。見てみい」
「どれどれ……わあ、結構きれいに見えるね」
カウンターに立つ滝野の横に並び、左手側の遠方を望む。ひと足先に夜の青みを帯びてきた山間部の稜線に、鮮やかな七色が橋をかけていた。
虹を見るのなど何年ぶりだろう。
「そういえば虹には桃色ってないな。なんでやろ」
「急になにさ。私は柊桃。だけど別に桃色博士じゃないよ」
「気になっただけや。教えてやー理系クラス」
「うーん、要は波長の問題でしょ? スペクトル上にないというか、赤青の混合に近いというか」
「アタシ学がないからわからへーん。もっと噛み砕いてーなー」
「人がまじめに答えてやってるのにムカつくなこいつ。自分でググれや」
人通りのなくなった路傍にぽつんと停まったトラックの中で、迎えるお客さんもいない私たちは延々と無駄話をする。意味のない会話は楽しかった。意義のない時間が心地良かった。
今日が終わる最後の瞬間まで、いつも通りのふたりでいたかった。
東の空に風が吹いているのだろうか。気がつくと虹は霞んでいた。夏至の頃に比べると陽の入りもずいぶんと早くなっている。
「ピンクの虹、あったらきれいやろなあ。どっかにあったら見てみたいなあ」
「だからそんなの自然には存在しないから。それっぽく映るのはあるかもだけど」
「展示とかあらへんかなあ。名古屋の科学館みたいな場所で」
「そんなに見たいなら探すより自分で作れば? 青いバラだってもうあるんだし。たぶん頑張ればできるっしょ、知らないけど」
若干面倒くさくなって投げやりに返事する。滝野は眉を上げた。
(やば、ちょっと冷たかったかな。怒ってはなさそうだけど)
「探すより作れ、か。ふーむ」
「その値踏みするような目はなんだよ」
「いや、桃やなあ思うて」
「どういう意味だよ」
風が雨上がりの匂いを運んでくる。陽を浴びた土と草の匂い。
幕引きが近いのを感じる。
「滝野。来たよ」
「わーっとる。もう逃げたりせんよ」
遠く歩道の先に人影と、一台の車椅子の影が見えた。
影はゆっくりとこちらに近づき、横断歩道の向かいで止まった。信号が青に変わるとまっすぐこの店に向かって渡ってくる。
「いらっしゃいませ。なんになさいますか?」
少し離れた位置にいる彼女たちに、滝野が自分から声をかけた。
車椅子を押す金髪の彼女――吉田さんが目を尖らせて返す。
「まだ買うっつってねえだろ。いつもそんなふうに呼びこんでやがんのか?」
「んな押し売りみたいなことせえへんよ。知っとる顔やから呼んだだけや」
冗談めかして口角を上げる滝野に吉田さんがため息をつく。
私と浦辺さんはお互いの相方の背中越しに苦笑しあった。
「ったく、今日で店じまいだっつーから来てやったのに。しかしガラガラだな」
「さっきまで夕立やったからしゃーない。朝昼は割と客おったんやで」
「空いてる分には都合良いけどな。話してても他人の邪魔にならねえし」
「うちはキャバクラとちゃうで。注文お願いしますー」
最後に会った日にひどく血生臭い喧嘩別れ(と言うには一方的だったが)をしたというのに、滝野も吉田さんもその件は特に引きずっていないようだった。プライベートで解決したのか、あの程度日常茶飯事なのか。気まずさのない応酬は一緒に居た月日の長さを感じさせる。
「てめーみたいなゴリラのキャバ嬢がいるかよ。たい焼き一丁。青は?」
「私も同じで……あっ栗餡もあるんですね。どうしよう、迷いました」
「両方買うてしまえばええんやでー。テイクアウトも歓迎やでー」
「じゃあ一種類ずつ持ち帰りで。ここで食べる分も一個お願いします。あんこで」
「一応言っとくけどおごらねーぞ青。三丁分自腹切れよ」
「えー。吉田さんのけちー。いけずー。独身貴族ー。訳あり物件ー」
「あ゛ぁ?」
怒気を孕んだ声で凄まれても動じずぶーたれている浦辺さん。今さらだけど、大人びた気質というより単にマイペースなのかも。
聞き届けた注文に応えるべく、私は自分の持ち場に戻る。作業台の上のバッターを見れば栗餡の残りが少なかった。売り込み上手な滝野のおかげで材料は着実に減ってきている。
生地と餡を入れ、焼き型の蓋を閉じる作業を四回繰り返す。
そうして焼きあがりを待つ間にまたよもやま話が始まるかと思いきや、
「コーチ。またコーチになりませんか?」
青天の
私は火床の前で身体を斜めに開くよう足の位置を変えた。視界の端っこで状況を追う。
「……言葉足らずでよう意味がわからんな。料理でも教えてほしいんか?」
しばし硬直した滝野があさっての方向に目をやってとぼける。
「それも悪くありませんね。けど、今回は野球の話です」
「ジブンの足が誰の、どんな指導でそうなったか覚えとらんのか」
「忘れちゃいました。ねえコーチ、私、今でも野球してるんですよ」
湿った風がさあっと吹き抜けた。周囲の木々が擦れる音がする。
「……プレイングを?」
「いいえ、マネージャーです。コーチが誘ってくれたあのチームで頑張ってます。……車椅子でプレーするのは、正直まだつらくてできないけど」
その理由が心身のどちらに起因するのかはうかがい知れない。けど「まだ」という言い回しには、再起への意志がたしかに宿っていた。
浦辺さんの眉間に寄っていた皺がぱっと消える。彼女は笑った。
「でも野球してるんです。コーチに教えてもらった、大好きな野球を」
「…………」
黙ってしまった滝野を見て吉田さんがバリバリと頭を掻いた。
「だーもう鬱陶しいな! てめーの罪悪感とか知らねーんだよ!」
「やけど」
「火傷も凍傷もねえ! 事故った当人だってケロッとしてんだ。できるできないやるべきじゃないと、過剰に線引きするこたねーんだよ。好きに行ったり来たりすりゃいい。誰も咎めやしねえよ、あたし以外」
「ジブンはキレるんかい……」
「ムカつくからな。我慢する理由もねー」
自由奔放な言葉に併せて、彼女はカウンターにボールを置いた。
野球用と思しきそのボールを滝野が掴んで手の中で回す。底にマジックか何かでつらつらと文字が書かれているようだった。
「ジブンらの連絡先か」
「捨てんなよ。部屋の一番目立つとこ置いとけ。毎日目に入れて暮らせ」
「タチ悪い嫌がらせ思いつくなあ。さすが吉田」
「あ、発案は私です」
浦辺さんがちょこんと挙手して舌を出した。
滝野はおでこに指を当てた。
「せやけどな」
そこで滝野はちらっと私を見た。
私は型を返して背を向ける。
「私に確認しないでよ。やりたきゃやればいいんじゃない」
「だってアタシ、ももくり辞めるし」
「だから何。だいたい滝野がどこで何しようと言われなきゃ知る由もないよ。名前で検索するの嫌いだし」
私は滝野を突き放し、四枚の焼きあがりの見極めに入る。
「この前、どこへなりとも行けって言ったしね。だから好きにすれば」
「…………さよか。気ぃ遣わせてすまんな、桃、青。考えとくわ」
「おい、あたしは?」
自身を指差す吉田さんを無視して滝野は浦辺さんに手を伸ばした。
出窓からでも届くように浦辺さんが近寄り、首を上に伸ばす。
「えへへ。コーチの手、久しぶりです」
ぽんぽんと頭を撫でる滝野の表情はどこか心苦しそうで、撫でられている浦辺さんのほうが慈しむように微笑んでいた。
(あとで手洗うように言わないとな。一応食べ物扱ってるんだから)
冷めたことを考えながら焼き型の蓋を開く。完成だ。
「はい、四丁あがり。右二枚は箱に入れるから左から出して」
「おっと了解。お待たせしました、たい焼き二枚になりますー」
滝野がとってつけたようなスマイルで吉田さんたちにたい焼きを渡す。経木と包み紙に入ったそれをふたりはまじまじと見下ろした。
「こいつが柊ちゃんの一丁焼きか。きれいだな。いただきます」
「ほんと、キラキラしてますね。いただきます」
見た目への感想を述べてから手中のたい焼きにかぶりつくふたり。
その四つの
「美味いな、マジで。よく覚えてねえけどたしかに爺さんの味っぽい」
ほんのりと頬を紅潮させた吉田さんが口元をゆるませる。くりすや食べたことあるんですか? と訊く前に浦辺さんが視線を上げた。
「柊さんはたい焼き作り、お好きですか?」
「え? うん、好きだよ。それがどうかした?」
「そうですか」
彼女の眼鏡のフレームが夕の光を一瞬反射してきらめく。レンズの奥の墨色の瞳が静かな感情を湛えていた。
「元気出ました。ありがとうございます」
「?」
「いつかまたたい焼き屋さん始めるんですよね。オープンしたら教えてくださいね」
「う、うん。わかった」
浦辺さんはたい焼きを黙々と、そして夢中そうに食べ進めた。
時間にしてみれば十五分にも満たない短い滞在だった。
浦辺さんは去り際にこう言った。
「誰かと一緒にいるのに資格なんて要らないと思いますよ、コーチ!」
晴れやかに笑って手を振る彼女に、滝野は何も答えなかった。
辺りにヒグラシの鳴く声が響いていた。もうじき今日の陽が沈む。
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