桃がカッコよかったからや
「……」
「……」
「……ごちそうさまでした。美味しかったですよ」
杏子ちゃんの進路を賭けた一丁焼きを焼きあげること三枚。
私は星月さんに期限延長を申し出ようと考えていた。
「ありがとうございます、柊さん。後は私が頑張って説得します……」
健気に微笑む杏子ちゃんに私は何も答えることができない。
「桃さんは充分頑張りました。一週間足らずでここまで焼けるなんて、立派な職人さんです」
そう讃えながら星月さんが水を注いだグラスを渡してくる。力なく受け取るも、今は喉を潤す気力すら湧かなかった。舌に残るかすかな甘みさえも苦み走って感じられる。
値付けは一枚目から順に百とんで四十、六十、五十だった。
いずれのたい焼きも半分を分けてもらい自身でも味見している。納得のいく採点であった。なればこそ敗北感が募った。
運に恵まれた。手応えもあった。その上でぎりぎり届かなかった。
客観的に見れば紙一重。しかしその紙一重こそ、おそらく途方もなく分厚い壁なのだ。模倣と再現の違いを痛感し、無言で奥歯を噛みしめる。
(……どうして届かないんだろう)
問題は、何がいけなかったのか自分で見当がつかない点だ。
特に二枚目のたい焼きは会心の出来と呼べる代物だった。
火力、焼き時間、焼き型を返すタイミングのどれもがドンピシャリ。そう思えたはずの渾身の一枚なのに再現に至らない。
改善案が思い浮かばない。
埋めるべき欠落が見つからない。
ここから何をどうすればブレイクスルーできるのか、まるでわからない。
(まさか、前提が間違ってるのは星月さんじゃなくて私なのか?)
頭上に重く圧し掛かる謎に対しての至極シンプルな回答。冗談じゃないぞ、と振り払い、ひとまずは交渉を試みる。
「えーっとその、星月さん。つきましてはご相談があるのですけれど」
「一月三日まで、ですね。構いませんよ」
やはりお見通しといった様子で星月さんが承諾する。待ってくださいとわざわざ付け加える必要はなさそうであった。
あと数日あればにじり寄れるなんて楽観した期待は持てない。それでも私はあがく他ない。今しがた食べたたい焼きの味を記憶の中で反芻していると、
「先延ばしにした末に失敗すれば、杏子も諦めがつくでしょう」
彼女はそんな、一片の希望も感じさせない皮肉を口にした。
「な――」
何を言うんだ、という抗議の声が出かかって喉元で詰まる。
私には何も言い返せない。言い返すに足る実力がない。
私の隣で杏子ちゃんはただ黙って床を見つめている。泣きそうでも怒りそうでも、儚くも凛々しくも突っ張ってもいない。ただ黙って床を見つめている。感情のすべてを殺している。
「――ぅ」
立ちくらみを起こしそうになった。
足がすくみ、息が苦しくなる。
フラッシュバックする過去の景色。もういいのとさっぱり笑ったエマ。鳴らないサックス。生産を終えたゆうひかり。ふいに紛れこむ別の情景。
杏子ちゃんの姿がエマに、エマの姿が江津さんに置き換わる。
あってはならない未来の彼女が、同じように私に笑いかける。
強がりのくせに。
(私はこれからも、周りの人を巻きこんでは諦めさせていくの?)
黒々としたものが肺を満たす。立っているだけで窒息しそうだ。それでも私は、傍にいる杏子ちゃんから目を背けられなかった。
視界の端で星月さんが眉を下げる。在ったのは憐憫だった。
一度目を閉じ、彼女は私たちに改めて優しく宣告する。
「他の誰しもがそうであるように。その人以外の誰かに、その人のたい焼きの味は作れませんよ」
「ホンマにそうですかねえ?」
飛びこんでくるその声に、私は一瞬理解が追いつかなかった。
「え?」
一同で玄関に振り返る。誰が付けた疑問符かも知れない。
空気が変わる。
肌が粟立つ。
鳴り止むドアベルに今さら気付く。
「明日の支度終えて来たらなんやオモロいことになっとるやないですか。仲間外れにせんといてくださいよ」
はためくロングコートの裾からブーツに覆われた足首が覗く。
彼女はつかつかと軽い足音を立ててホール内を縦断した。脱いだコートを畳んで椅子の背にかけ、純白のシャツの袖をまくる。
何も言わず私の隣に立ち、火床の中の炭火を凝視する。
いつも嗅いでいる彼女のミントの匂いを、いやに懐かしく感じた。
「滝野」
「桃がカッコよかったからや」
「……え? 何の話?」
「初めて会うた日、何年かけてもくりすやのたい焼き作る言うてたやろ。トーシロ未満のくせに、焼きゴテ返せっちゅうアタシの
そこまで言われて、ようやく昨夜の会話の返答だと理解する。
「……今思うと、身の程知らずだよね。事の厳しさをわかってなかった」
「それでもアタシはカッコええと感じたんや。応援したいと思った」
持ち慣れていないヒツジヤの焼き型を何度か手首で返す滝野。左手に持ったスマホが、先日送った動画を表示している。
「五枚くらい焼きます。ええですね?」
背後に立つ星月さんを見返り、にっと白い歯を見せて笑う。
私のよく知るカッコいい大人――栗須滝野が、そこにいた。
答えを待たず魔法の手が踊る。
「やっぱ型部分は真鍮か。ちと重いな」
型に油を塗った刷毛が瞬く間にオイルポットに戻される。数拍の間を置いて、乳白色の生地がとろりとお玉から注がれた。じゅっと音を立てて広がり、浅い水溜まりのように型を覆う。
無造作に切り出された直方体の餡が木杓子から盛られる。白い水面にゆるやかな波紋を立てる藤紫の宝石。その上からさらに生地がかぶさり、甘美な艶を内に閉じこめる。
お玉と木杓子が宙を切るたび、私は感嘆の息を漏らした。
滝野の腕はまるで流星だ。光の尾を引き、人の目を奪う。
(やっぱりすごい。私なんかとは身体の動かし方から違う。でも……)
滝野が食べたヒツジヤの――星月さんのたい焼きは三枚だけだ。一昨々日より終業後に焼いてもらっては持ち帰っていた品。焼く様子も初日に私が送った録画データでしか見ていない。
たったそれだけの知見であの二層の皮の味を再現できるのか?
不安を覚える私を置き去りにして滝野は腕を振るう。
蓋を閉じた焼き型をこまめに移動する。片時も目を離さない。私なら待つだろうタイミングで動かし、動かすタイミングで待つ。私に視えない火の当たり、熱の通りを感知しているようだった。引っくり返す間隔だけは私のシミュレーションと一致していた。
三分が過ぎて、滝野が型を手元に引き寄せる。生地の上がけだ。ぱかっと開いた型から焼けた小麦特有の芳香が立ち上る。
「おっええ色やん。桃はどう思う? こんくらいで生地重ねてええかな?」
「ふぇっ? ああ、うん、そんなもんだと思う」
「了解」
突如尋ねられて驚いている間に滝野が生地を追加する。
皮の表面がコーティングされたのを確認して型を閉じてから、引っくり返してしばし待ち、再び開く。「どうやろ?」とまた訊かれる。
(自信あるのかないのかどっちなんだ――!)
内心で叫びながらも口では「うん、そんなもん」と答えたりする。
「ゆるめのあんこがはみ出ないように工夫した末の技なんやろうな。やから内側の焼き目はたぶん固める程度でええと思うんや。ハナから強めに焼いたら二回焼く分皮が前に出すぎる。せっかく上品に炊きあげたエリモショウズの風味が殺されてまう」
淀みのない手さばきで生地を上がけしながら滝野が解説する。
「大和撫子みたいなこの餡を引き立たせるための羽衣二枚。それがこのたい焼きのコンセプトや。前言うた、メンバーに合った戦法ってやつやな。奇策やけどええチームやんけ」
「な、なるほど……?」
「大事なんは相手が何作りたいかっちゅー芯を捉えることやで。からしバターもそうやけど秋さんはすっきりした味が好みなんやな。あ、関係あらへんけど最近市販の春巻きの皮って薄うなった? 作り置きしたら具の水分でベタベタになるんよ。コストカットかな?」
「いや知らないよ……メーカー変えなよ……」
「いやー本邦貧しいわー」
能天気にべらべら喋りつつも滝野の作業の手は止まらない。
貝のように閉じた型を炭火にかけることさらに三分と少し。
「よし、こんなもんやろ。一丁あがりと」
型を開いた滝野が色づいた皮を見て頬をゆるませる。
長いようで短い時間を経て、一枚目のたい焼きが焼きあがった。
「ほい桃、秋さんらと分けてきて。アタシは二枚目にトライしてみる」
滝野はひとくち分だけたい焼きをちぎり、残りを私によこす。
戸惑う私の眼前で彼女はちぎった分を口に放りこみ「んー、ちゃうな。さすがに熱の入りが甘いわ」と舌打ちした。
「なるほど、この感じでこうなると。やっぱオモロいな、一丁焼きは」
心底楽しそうに呟いてから滝野は二枚目に取り掛かった。
おずおずとホールに向かうと杏子ちゃんがすぐに小皿を持ってくる。
熱々のたい焼きを三つに割り、いただきますと言い両手を合わせ、背びれのあたりをひとかじりした直後、強い衝撃に襲われた。
私の二枚目より出来が良い。
「滝野」
カウンターに視線と声を投げる。彼女はこちらを振り返らない。
背中で揺れるひとつ結びの先端が楽しそうにその場で跳ねた。
「……これは、……」
星月さんが絶句する。対照的に杏子ちゃんの目が輝き出す。
どちらの前提が違っていたか、じきに白日の下に晒される(夜だけど)。
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