出たとこ勝負と三十円の壁
そして、ヒツジヤとももくりが各々の営業を終えたこの日の夜。
「戸締りよしっと……あら? 桃さん、火床の炭火が点きっぱなしですよ」
「ああ、それはですね」
星月さんに指摘された私が言葉を続けようとした拍子、ホールにドアベルの音が響いた。追って冷たい夜風が吹き通る。
「ただいま」
扉を開いて入ってきたのは手伝い帰りの杏子ちゃんである。彼女は後ろ手で戸を閉めて店の中をずんずん歩いてきた。
手提げ鞄をテーブルに下ろした彼女を星月さんがねぎらう。
「おかえりなさい杏子。お疲れ様、すぐお夕飯作るから」
「お母さん、話があるの」
言って踵を返そうとした星月さんを杏子ちゃんが呼び止めた。
固く緊張した、それだけに真剣さが伝わる声色だった。
「どうかしたの?」
ゆっくりと振り返る星月さんの口元は円弧を描いている。
しかし目はまったく笑っていない。見透かしたような目つきだった。横から様子を見ているだけの私が気圧される一方で、杏子ちゃんはまるで動じていなかった。まっすぐ母親と向き合っている。
鈴の音のように澄んだその声が、ぴんと張り詰めた空気を震わせた。
「私、うちの喫茶店を継ぎたい」
室内に落ちる束の間の静けさを、平らなトーンの声が破る。
「前にも言ったでしょう。あなたには他に――」
「それに、サックスも続けたい」
星月さんの片眉が上がる。
杏子ちゃんは浅く息を吐き、真剣な面持ちで言葉を継いだ。
「柊さんに聞いたよ。要するに進学費用の問題なんでしょ? なら高校入ったらバイトする。奨学金だって取れるだけ取る。特待生に選ばれるくらい、サックスも勉強も全部頑張る」
「ずいぶんと簡単に言いますね。……それがどれほど険しい道か。そもそも道と呼べるような道程なのか、あなたならわかるでしょうに」
「私にはスカウトの人から認められた音楽の才能がある」
誇示するように張った胸に手を置いて毅然とした顔で言い張る。そこには私に「怖い」とこぼした今朝の面影は微塵もなかった。
「だからお母さんには今のお店を続けてほしい。閉めないでほしい。兼業奏者になる私のためにヒツジヤを守っていてほしい。私の将来に、賭けてほしい」
「あなたの下には三人の弟妹がいるんです」
「わがまま言ってるのはわかってる。でもこれが私の望みだから」
肩幅に開いた足で床を踏みしめて少女は母を見上げる。
本気で覚悟を決めた人間の目を、私は生まれて初めて見た。
「……杏子の『継ぎたい』は、単にマスターになるという意味ではないでしょう?」
悩ましげに目蓋を下ろした星月さんが深いため息をつく。
「飲み物も、お菓子も、軽い食事も。私とまったく同じ味を提供したい。そういうことでしょう?」
こくりと頷く杏子ちゃん。星月さんが小さく首を横に振る。
「それは無理と前にも伝えました。杏子は私じゃないんですから」
「そんなのやってみなくちゃわかんない!」
「あなたひとりで一から完璧に再現できるメニューはありますか?」
「そ、それはまだ修行が足りないからで」
「何年積んでも変わりませんよ。私も経験があるのでわかります」
「え……」
「その『継ぐ』は前提が破綻してるんです。杏子がマスターになったヒツジヤは――少なくとも一丁焼きは――自ずと今とは別物になる。楽譜をなぞっても他の人の演奏が再現されないように。あなたの『継ぐ』は絵空事なんです」
星月さんは確信的な言い方で娘の反駁を一蹴した。
あまりに突き放した物言いにさすがの杏子ちゃんも怯んだらしい。ごにょごにょと口の中で何か言う彼女を星月さんはさらに問い詰める。
「今、無理を押して店を続けても。閉めていつか再オープンしても。私が引退してあなたに看板を譲ったら味は変わります。それでもこのお店を保持し続ける意味が本当にあるんですか?」
「っ……」
「終わりを先延ばしにするだけの選択に、家族を巻き込めますか?」
取りつく島もなく言い放たれて杏子ちゃんがぐっと唇を噛む。
けれど、私には言った星月さんのほうが悔しそうに映った。左腕のギプスを右手で抱き、情けなさと申し訳なさが入り混じった表情でうつむいている。元を正せば経営難に端を発する問題だし当然か。
対峙するふたりの間に、鉛よりも重い沈黙が垂れこめる。
(お、大人げな……)
一方私は軽く引いていた。よそ様の喧嘩なんて見るもんじゃない。
星月さんの言い分はわかるがいささか度が過ぎた言い様である。悪い意味で何歳だかわからない。もっとも、母娘喧嘩など白熱すればこんなものかもしれないが。
とはいえぼちぼち介入しどきだろう。私は軽く肩を回した。
「こほん。まー、こうなる気はしてました」
わざとらしく咳払いをしてからホールの中へと一歩進み出た。母娘の目線が一身に刺さる。怪訝そうな目と、助力をあおぐ目。
ここまで杏子ちゃんとの打ち合せ通り。今がバトンタッチの時だ。
「片や味を再現できる、片やできないの言い合いですもん。平行線にしかなりませんよ」
「……桃さんは、私の前提が誤っているとおっしゃるんですよね」
「話が早くて助かります」
すっと細められた温度のない瞳が私を見据えている。
うなじのあたりがこわばるのを無視して、私は余裕の笑みを作る。
「先ほどから焼き型を予熱しているのもそれが理由なんでしょうか?」
「はい。要は私がヒツジヤの一丁焼きを焼ければいいんです。そうすれば他人の味は再現できないという前提は崩れる。星月さんは気兼ねなく娘の未来にベットできるようになる。まずは、私との約束通りにレシピを教えてあげるところから」
「本当にできるとお思いですか?」
「できなきゃ話にならないんですよ。私、そのために生きてますから」
言い置いて火床の前へと戻る。
焼き型の位置をずらすと金属が擦れる甲高い音が鳴った。
「あ、あの、柊さん」
腹を決めて深呼吸していると杏子ちゃんが駆け寄ってきた。耳元に小声で囁きかけてくる。
「助けてくれてありがとうございます。でもその、今さらですけど、ホントにうちのたい焼き焼けるんですか? 何か秘策とかあったりします?」
「秘策……秘策ね……」
何を隠そうそんなものはない。
この一週間弱で焼いたたい焼きの最高値は百五十円。一枚こっきりとはいえ定価の八割を超える値が付いたのだ。残りの三十円程度、運と気合と集中力で賄える。くりすやの再現も八割で行き詰まっていた気がするが忘れた。
「あの、柊さん……何か言ってくれませんか……?」
「――ふっ」
職人スマイルでウインクすると杏子ちゃんが見る見る青ざめた。口をあんぐりと開いてアース付きのコンセントみたいな顔になっている。かわいい。
「あぁあ……薄々思ってましたけど柊さんって……やだ、言えない……」
「大丈夫、私こう見えてやればできる子だから。おおYDK」
「九十五点で構いませんよ」
杏子ちゃんとふたり揃って振り向く。
星月さんが額を押さえていた。わちゃくちゃする私たちを見兼ねたのか、彼女は重ねてこう続ける。
「日ごとの体調や気候、仕入れで出来が左右されることはあります。ときには作り手個々人に拠る差異を上回る場合もあるでしょう。……極力多めに見積もった素材等のブレの範疇が五点です。今日はそれで再現とみなします」
「あ……ありがとうございます」
思わぬ救済措置につい頭を下げる。星月さんはかつてないほど微妙な苦笑いを浮かべた。
星月さんに提示されたハードルを頭の中で換算する。
合格ラインは価格にして百七十円。届かない高さではない。
これでも火入れの感覚や見極めのポイントはもう掴んでいる。秘策はないが勝算はあるのだ。そうでなければしゃしゃり出たりしない。
もし失敗したら、年始のイベントまで期限延長を申し出るが。
というか元の期日はそこだし。杏子ちゃんにはカッコつかないけど。
(って、焼く前から失敗したときのこと考えてどうすんだ)
手のひらの底で頭をごんごん殴って弱気の虫を追い出す。突然頭部を叩き出した私に杏子ちゃんがぎょっとしていた。
「では、いきます」
焼き型の柄に手を置いて言うと、カウンターは無音に包まれた。
私が口を挟んでからのぐだぐだした雰囲気が一変する。水を打ったような静けさだった。演奏が始まる直前のコンサートホールにも似た空気である。
緊張感を取り戻した空間で、私はまず刷毛を握る。
熱した焼き型に油を引き――
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