届かなかった星と少女の餡

「師匠~~~……!」


 滝野の焼いた一丁焼きを四人で五枚目まで完食した後。

 感極まったかのように泣き出した杏子ちゃんが滝野に抱きついた。髪が乱れることにも構わず、頭で鳩尾をぐりぐりしている。薄くげっぷを吐いた滝野が懐から白いハンカチを取り出した。


「あーもう顔拭きい、べとべとやん。あれなら鼻もかんじゃってええから」

「噛みませんよう……」

「偉いなー。どこぞの大判焼き屋の娘とは大違いや」


 片手を杏子ちゃんの背に回してよしよしと頭を撫でる滝野。やっぱこいつロリコンじゃね? と思いつつ私も彼女を称賛する。


「お疲れ様。にしても、ホントにできるんだね、味の再現って」

「言うたやん、四・五パーセントって。ところで、ホンマにできとったかな?」

「え? えーっと……」


 尋ね返されて返答に詰まる。

 寸刻流れる奇妙な空気を打ち切ったのは星月さんだった。


「申し訳ありませんでした」


 先までとは一転した母親の様子に杏子ちゃんが息を呑む。


「私の身勝手な思いこみで皆さんのことを振り回しました。桃さんも、滝ちゃんも、……杏子も。言葉もありません。ごめんなさい」


 それだけ告げて深く腰を折る。

 手短で、ゆえに重たく響く大の大人の謝罪の言葉だった。

 相当ショックだったのが声や表情の端々から伝わってくる。沈痛な面持ちの中で焦点の定まらない瞳を揺らして、彼女はがっくりとうなだれていた。

 身の置き場もないとはこのことか。勝利のムードからはほど遠い嫌な気まずさを覚えていると、滝野が目だけでこちらを見やる。心の内を読むような目つき。


「なるほど、秋さん的にはさっきので合格みたいですね。光栄です」

「ええ。先ほどの一丁焼きはたしかにうちの店の味でした」

「ほいじゃ次は別の審査員に訊いてみましょうか。なあ、桃」


 水を向けられ、私はたじろいだ。

 どう答えるべきか迷っていると滝野の眉が見る見る吊り上がる。


「正直に言えや。アタシは変に気い遣われるほうが癪に障るんや」


 刺々しい声音からは職人としてのプライドがにじみ出ている。私はそんな滝野を見て、怖さではなく変な嬉しさを感じた。


「……わかったよ。滝野のたい焼きはほとんど完璧だったと思う。でも」


 そうしてゆっくり首を横に振る。

 星月さんへの同情ではない、忌憚のない正直な感想だ。


「星月さんが焼いたのと違って、食べても星は瞬かなかった」


 私の言葉に星月母娘がぱちくり目をしばたたかせる。

 これだけ聞いてもまったくもって意味不明の台詞だから仕方ない。


「なら何かが足りひんかったっちゅうことや。アタシもそう思うしな」


 滝野は満足したように頷いてから星月さんに目を戻す。


「さてはて、秋さんらの判定では合格で、桃のでは不合格。これってどっちが正しいんでしょうね? 再現できる? できない?」


 わざとらしいしかめっ面を浮かべて腕を組み、虚空を睨む滝野。

 星月さんはしばしぽかんとして、それからくしゃっと笑みをこぼした。


「滝ちゃんは優しいですね。小さい頃から全然変わっていません」

「アタシの半分は優しさでできてますからね」

(自分で言うなよ。残り半分はなんだよ)

「鎮痛成分?」

「心の声を読むなよ」

「……おふたりとも、そろそろいいでしょうか?」

「「あ、どうぞどうぞ」」


 場に居る全員に含み聞かせるように星月さんはこう言った。


「他のお店ではわかりませんけど。少なくともうちの一丁焼きは、私以外にも再現できます。店主の私がこう言うんです。今回の件はこれで結論です」


 兜を脱いだ彼女の声明を杏子ちゃんは真顔で受け止めていた。


「さいですか。……秋さんができひんって思いこんだ理由、アタシにもわかりますけどね」

「へ? 滝野、それってどういう」


 肩をすくめた滝野の意味深な言葉について尋ねると同時に、星月さんがその答えを話す。

 それは予想外の発言だった。


「どうして私にはが再現できなかったんでしょうね」

「……え?」

「やっぱり、単に才能がなかったと考えるのが自然でしょうか」


 あっけに取られる私の耳に弱々しい声が流れこんでくる。

 その独白は近い未来、私が辿るかもしれないわだちだった。


「マスターにも無理だって言われて、それでも頑張ってみたけどダメで。だから他の人たちも味の再現なんてできないと決めつけた。私の諦めを他人に押しつけて、自分で作った味に逃げた」


 星月さんが語るマスターとはくりすやのお爺さんのことだろう。再現を試みたのがバイト時代か退職後かは不明だけど。


「滝ちゃんくらい才能があればマスターの一丁焼きも……あら? そうなると、桃さんはどうして自分で……」

「ジジイの一丁焼きならアタシも再現なんてできとりませんよ」


 首をひねる星月さんの頭上に浮いた『?』が『!』に変わる。


「なんなんでしょうねアレ。正直まだアタシにもようわかっとらんです」


 そういえば初めて会った日も言っていた。自分には祖父のたい焼きは作れない、作れれば苦労しないと。

 ヒツジヤをほぼ再現した滝野にも作れないくりすやの一丁焼き。

 その理由が餡と皮のどちらに起因するかはわからないけど、仮に材料が揃っても再現までの道は険しそうだった。


「そう……なんですね。……なんでしょう? とっても複雑な気持ちです」


 後ろ手を組んだ星月さんの視線があてどなく床へと落ちる。かすかな笑みが湛える感情は安堵にも失望にも映った。

 静かな店内を照らすランプの光が薄暗く感じられた。


「あの、頭を上げてください」


 後味の悪い雰囲気に耐えられず、つい声をあげてしまう。

 私たちは別に星月さんをやりこめたかったわけではない。

 はねつけるような態度はともかく、学費を捻出する件に関しては彼女にも理があるのだから。そもそも赤字すれすれの店を続けるリスクは解決していない。

 過去のいざこざは水に流してこれからの話をしましょうぜ――そう提案しかけたとき、杏子ちゃんが星月さんに歩み寄った。


「お母さん。これ、味見してほしいんだけど」


 テーブルに置いたままだった手提げ鞄からタッパーを掴み出す。蓋を開くと、ほの甘い香りと紫の光沢が飛びこんできた。

 戸惑う星月さんの鼻先に「ん」と言って突きつける杏子ちゃん。


「仕事の合間にももくりさんのキッチン借りて炊いてたあんこ。師匠にも手伝ってもらったけど、まだうちの店の味はできてない。柊さんとの約束とかどうでもいいから、これ食べて決めてよ」

「杏子……」

「私の素質に賭けるかどうか。私のわがままに聞く価値があるか」


 滝野がどこからか持ってきたスプーンを星月さんの手に渡す。

 星月さんは言われるがままにタッパーの餡にスプーンを差しこみ、大きめの飴玉くらいの量をすくってこわごわと口に運んだ。

 ゆっくり、身体に染みこませるように星月さんが餡を咀嚼する。

 白い喉がこくりと小さく鳴り、双眸が柔らかく細められた。


「美味しい」


 値段も点数もつくことはない。その声が彼女の答えだった。



         **



 お詫びの印に星月さんが淹れた秘蔵の玉露で一服して。

 ひと息ついた私たちは片付けと店内の清掃を始めた。雑談の種はヒツジヤ珈琲店の今後の展望についてだ。


「とりあえず例の記者さんにウチのついでに取材でも頼んでみよか」

「滝ちゃん、記者さんというのは?」


 モップで床を拭きつつ提案する滝野に星月さんが尋ねる。のんびりカウンターを拭く星月さんはいつもの眠たげな目だった。すっかり平常運転に戻ったここの空気は居心地が良い。


「アタシの現役時代を知っとるライターが昨日店に来たんです。んで、今度は雑誌の仕事としてももくりを取材したいっちゅーんで。編集部は中小やけどウェブのニュースサイトも持っとるみたいやし、一時的には広告になるんやないですかね」

「そうですねえ……」

「サボってないで手動かしてよお母さん」

「最近娘の母遣いが荒いんです……左手折れたままなのに……」

「言うほど不自由してないでしょ」


 顎に手を当てて悩む星月さんに杏子ちゃんが口を尖らせる。彼女は窓ガラスを拭き終えて汚れた雑巾をバケツに放り、よく通る声をホールに響かせた。


「さっきも言ったけど、学費なら私が自分でなんとかするってば」

「そう言っても、杏子も部活と勉強でもっと忙しくなるでしょう? お店はお店でできる限りのことはしていかないと」

「秋さんの言う通りやな。営業努力はなるたけやったほうがええ。さっきの取材の件とか」

「とは言っても、そんなに効果あるのかな……」


 ラックから抜いた大量の古い新聞を手に私は呟く。

 取材をきっかけに知る人ぞ知る隠れ家的カフェとして人気を博し、クオリティに見合う安定した収益を見込めるようになる――楽観極まる期待は膨らませるにしてもちょっと心許ない。

 夢を見てばかりもいられないけど、地に足を着けると思考が沈む。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、冷たい夜風が吹いた。


「杏子の学費で揉めているのかい?」

「はい。……はい?」


 聞き慣れないテノールボイスに反射で答えてから違和感を抱く。


「どしたん桃……お?」


 モップを止めて顔を上げた滝野がこちらを見て硬直した。

 空気が変わる。

 肌が粟立つ。

 鳴り止むドアベルに今さら気付く。

 彼はかつかつと軽い足音を立ててホールに入ってきた。何も言わず私の居るマガジンラックの手前で立ち止まる。革靴の底と床材が擦れる独特の高い音が鳴った。

 ふわっとしたシルエットの栗色の髪を細い指がかきあげる。

 清潔な黒のスーツコートからはどこか懐かしい匂いがした。


「…………いや、誰?」

「あ、どうもはじめまして。杏子の父です。ふたりともただいまー」

「お父さん!?」


 甘いマスクの男性がやたらといい笑顔で妻子に手を振った。

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