青い宝石とラビットフット
何か、熱いものが目からこめかみ、耳の付け根へと流れ落ちていく。
「――ぅ」
しぱしぱする目蓋をぎゅっと閉じる。私はひとつ寝返りを打った。仰向けから横向きに姿勢を変え、胎児のように身体を丸める。
寝袋の生地に広がった染みが、冷えて固まった右頬を濡らす。
真夜中の車内は幕を下ろした劇場のように暗くて静かで、断続的にしゃくりあげる音だけが冷たい空気を揺らしている。
床に就いてからもうずっと経つのに、何時何時までも眠れやしない。
(なんでこんなに悔しいんだろう。意味わかんない。頭ぐちゃぐちゃだ)
絡まった髪が頬に張りついて腹立たしいほど鬱陶しい。寝袋から腕を出し、髪をのけ、ぐしぐし手の付け根で目を擦る。寝起きはきっとひどい顔だろうが、明日を気にする余裕はなかった。
私が家族を失った傷は癒えつつあるのだと滝野は言った。
滝野やエマたちが代わりになって心を埋めてくれたのだと言った。
けど、それは私の中で家族の存在が薄れたわけではないと。父と母と妹に抱く想いも、また本物だと言ってくれた。
それなら悲しいことなんて何もない。単に傷が塞がっただけだ。
悲しいことなんて何もないのに、どうしてだか涙が止まらない。
「うう」
鼻の奥がじいんと痺れている。ふたつの目の奥からは水分が、喉奥からはくぐもった声が。亀裂が入った堤防みたいにとめどなく染み出し、溢れてくる。
「う…………っ」
丸めた背中が痙攣するのを自覚し、私は自分が嫌になった。
「……ダメだ。ダメだダメだ。終わり! 寝る! もうなんもかんも忘れて寝る!」
叫んで寝袋から跳ね起きる。コントロールが効かなくなった心身を一度リセットしたかった。
床に直置きのスマホに手を伸ばし、ライトを付ける。日付が変わった。
立ち上がった私はシンクに近づき、横向きに頭を突っこんだ。
蛇口をひねり、氷のように冷たい水で顔面を洗い流す。そのまま三十秒ほど無呼吸で過ごし、シンクから頭を抜く。
顔を拭き、二たび鼻をすすると、痺れも声も涙も引いていた。
あとは何も考えないようにして再発しないうちに寝るだけだ。
寝袋に足を入れかけ、ふと傍に置いてあるデイパックが目につく。
「……」
何も考えないようにしていたら、自然と腕がそちらに伸びていた。
スマホのライトを頼りにファスナーを開き、中から小箱を取り出す。蓋を開けると、青い輝きが闇の中で星のようにひらめいた。
海色の光沢を見つめていても宝石は何も答えてくれない。
ひどくみじめな気分で蓋を閉じる。
「……」
なんでもいいから気を紛らわしたい。さまよった視線の先に映ったのは今度は冷蔵庫だった。扉を開きかけ、何をやっているんだと急に我に返る。
あるのは飲み物と給水中の豆、売れ残りの餡だけなのに。
そんなものでは星は瞬かない。幸せで脳を上書きできない。
「江津さん……」
こぼれ落ちたのは友達の名前。
浮かぶのは余裕たっぷりの笑みと、同盟者だと告げたときの、泣いているのに花咲くような笑い顔。
(もし私がヒツジヤの――くりすやじゃない味でお店を始めたら。私の一丁焼きは江津さんの中で、くりすやの代わりになれる?)
なれない。
見えない誰かが即答する。都合の良い思考を両断する。
気付くと暗闇の中でスマホのメッセージアプリを開いていた。本当は声を聴きたかったけど、夜中に電話なんてかけられない。
『起きてる?』
責めてほしいのか、慰めてほしいのか、それとも許してほしいのか。
来るはずのない返信を求めて、私はメッセージを送信した。
『起きてるよ~』
絵文字付きですぐ返ってくる。江津さんはスタンプ派のはずだけど。
「へ?」
落差で呆けた声をあげてしまう。宛先欄を確認する。
「……エマ」
額を押さえてその名を口にする。送り先を間違えた。
『こんな夜中にどしたの~? 旅先でホームシックになっちゃった~?』
メッセージでもやたらと波線が多くてのんびりした女である。自覚した上で間延びした口調を使ってるのが改めてわかる。
早々に切り上げようと思ったけど、ふいに思い立って訊いてみる。
『いきなりごめん。エマ、今までの高校生活ってどうだった?』
送信ボタンを押した直後、変なこと書いたかな、と不安になる。
電話がかかってきたのは送ってからほんの十数秒後だった。
「エマ?」
「楽しかったよ~。みんな良い人だったし、桃も見てて飽きなかったし~」
最後に聞いてから一週間も経っていないのに既に懐かしい。出会ってからじき二年となる、鮮度高めの腐れ縁の声だった。
「見てて飽きなかったってアンタな……私は珍獣か何かか」
「そんなのよりずっと面白いよ~。しっかし急にどーしたのさ~? まだ高二なのに振り返りって、ホントにノスタルジックになっちゃった~?」
「ん、そんなとこかも。ごめんねこんな夜遅くに」
「……桃、声の調子変だね~。なんかあった~?」
「ないない、ちょっと身体冷えただけ。車中泊って思ったよりヤバくてさ――」
深夜零時の暗がりの車内で耳元のスマホだけが明るい。
普段通りエマと話していると、徐々に元の調子が戻ってくる。相手につられているのか私が取り繕っているのかは微妙だけど、いずれにせよありがたかった。他人とお喋りするのは楽しい。
「そっか~。ま~、あったかくして寝なさいよ~。明日も早いんでしょ~?」
「うむその通り。年中暇を持て余してるエマとは違うのです」
「なんですと~!」
ひとしきり笑って通話を切る。ほどなくメッセージを受信した。開くとスタンプと『暇人なめんなよ~!』という文言が目に飛びこんでくる。
「『次会う時びっくりさせちゃる~』って……何するつもりだよ。怖いわ」
ふふっとこぼれた吐息を耳にし、笑っている自分に気が付いた。
スタンプだけ返してアプリを落とす。スマホを寝間着のポケットにしまい、寝袋に戻る前に私はもう一度デイパックを漁った。
底に剥き出しで入っていたラビットフットを手のひらに乗せる。
「……ありがと、エマ」
その日の夜はラビットフットを右手に持ったまま眠りに就いた。
焼き型を握り続けて疲れた手にふわふわの毛が気持ち良かった。
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