心の空白を埋める温もり
意図せず滝野の過去の一端に触れてしまった、その日の夜。
私と滝野はトラックの助手席と運転席に座っていた。滝野がトラック後部に来ていたこの数日間から一転して、今度はこちらが前に出向いた。敵陣に乗り込む気概で……と表現すると大げさすぎるけど。
アイドリング状態でエアコンをかけているため車内は暖かい。
乾いた口腔をお茶で潤し、水筒を脇のホルダーに差した。
今夜はおつまみの類もなしだ。
「髪の色、地毛じゃなかったんだね」
「そっからか。せやな、この赤は野球辞めてから染めた色や」
車内灯に赤く照らされるさらさらの髪を手で撫でつける滝野。「あのライターさんには即顔バレやったけどな」と付け加えて笑う。
「そんな変装じゃないんだから……元々はどんな色だったの?」
「気の抜けた茶髪やったな。カッコつけて言うなら亜麻色っちゅうやつや。名前で検索すれば現役時代の写真いくつか出てくるで」
「しないよ」
人の名前の検索は嫌いだ。
尻を上げ、座席に深く座り直す。
「滝野、プロ野球選手だったんだ。初耳だよ。全然知らなかった」
「訊かれへんかったからな。たいして興味ないんかと思っとったわ」
「興味なくなんてないけど」
「んー? なんやその拗ねた口調は。さてはー、ミステリアスなお姉さん像が崩れてガッカリしとるんか?」
「別に。ムキムキだったり距離感やたら近いのは納得いった」
「前はともかく後ろのは体育会系に対する偏見やでー」
「じゃあ本人の気質か」
「せやせや」
本題を避けて周囲を探るようなまどろっこしい会話が続く。
踏みこみを強くする必要を感じた。何のためかもわからずに。
「大前っていうのは今の本名だよね。栗須じゃなくて、大前滝野」
「選手やった頃の登録名でもあるな。好きに呼んでええで」
「どうして初めて会ったとき、大前じゃなくて栗須って名乗ったの?」
「あん時アタシはジジイの孫として桃ん家に出向いとったからな。別の名字を名乗ったら話がややこしくなる思うたんや。やから父方の大前やなく、母方の旧姓の栗須を名乗った」
「お母さんの……じゃあ、結婚とかはしてないんだ」
「ウッソ、アタシ既婚に見える!?」
自分を指差して目をキラキラさせる滝野である。首を横に振る。
「隠してたわけじゃなかったんだね」
「隠すつもりはなかったけど、言い出すタイミングは見失っとった。すまん」
詫びる滝野を見るに、どうやら栗須という名も嘘ではないらしい。本当にくりすやの孫娘なのかちょっぴり疑ったのは内緒だ。
「いいよ。登録名といえば、野球は怪我で引退しちゃったんだね」
「肩の靭帯がぶっちぎれてな。四枚全部無理やり引き裂いたビニールみたいになっとったらしい。今ならキャッチボールくらいはできるけど、遠投とかは厳しいわ」
滝野がこちらに上体を向けて右の肩を回してみせる。
その右腕から放たれるボールの威力や速度は知らないけれど、フライパンや焼き型を振るう姿と料理のおいしさは知っている。
問いかけは連想ゲームのように意味のない寄り道を繰り返す。
「料理が上手なのは同居してた人にもご飯を作ってたから?」
「ちょくちょく飲食店で働いとったから、ってのも大きいけどな。アタシ、食うのが自分だけやといくらでも手え抜いてしまうタチやし。他人がおると調理に張り合いが出る。尽くしたがりの女やからな」
滝野は茶目っ気たっぷりに人差し指を立てて微笑んでみせる。
大人の仕草だと思った。無意識に自分の手首を握りしめる。
(私は何が言いたいんだろう? 彼女と何を話したいんだろう?)
とっ散らかった質問に滝野は辛抱強く付き合ってくれる。訊きたいことが別にあるのをわかっていて、けれど急かしたりはしない。
滝野とライターさんとの会話の間で又聞きした過去の事実。
それらを逐一確かめるために、わざわざこうして話しているのか?
「張り合いが出るっていうのはわかるかも。お店と同じだよね。で、えっと」
そこで考えが喉に詰まった。連想がぱったりと途絶する。
代わりに記憶の断片がフラッシュカットのように再生される。
「えっと……」
時おり見せる寂しそうな背中。
夜中にこっそり続けてる素振り。
代えの利かない物はただの重荷。
道具があるから店をやっている。
「……」
その姿が、言葉が、表情が。私の知っている今の滝野が。
散らばった無数の点が心の中で虚ろな像を結んでいる。
私はこくりと息を呑みこんだ。
錯覚なのを確認したかった。
「この三日間さ、お客さんにたい焼き出しててどんな気分だった? ほら、美傘ではずっと私が焼いてて滝野は接客だったじゃん」
「そら楽しかったで。けど、アタシが火床の前に立つのは年明けまでや」
違う。
「滝野、初めて会ったときから一緒にお店やろうって言ってたよね。もし私が断ってたらひとりでもやってた? お店、オープンしてた?」
「目的もないしどうやろな。開いても今ほどオモロなかったわな」
こうじゃない。
「吉田さんって人とは今でも連絡取ってるの? ルームメイトだったんでしょ」
「うんにゃ、もうずっと。……アイツには会わせる顔があらへん」
これでもない。
「えっと、ええっと」
「慌てんでええよ。今までだんまりだった分や。なんでも訊きい」
滝野はいかにも大人らしい包容力で優しく私を待つ。
だから、私はこう問いを重ねた。
「滝野は、野球の代わりに私とお店をやってるの?」
「――――」
瞬間、暖房の効いた車内の空気の流れが、たしかに止まった。
終始穏やかだった滝野の面持ちが空間ごと凍りついた。
無音のまま数秒が過ぎ、滝野がようやく口の端を吊り上げる。
「何言うとんねん。アタシは野球からはすっぱり足を洗ったんよ」
彼女の声色は自然だった。こわばっているのは私だけだ。
「なら夜の素振りはなんなのさ。あんなの次の日に差し障るよ」
眉を跳ね上げた滝野がかすかに上ずった声で私に訊き返す。
「見とったんか」
「たまたま見かけたんだよ。ヒツジヤのトイレ借りるために起きた時に」
「あれはエクササイズの一環やて。引退後もアタシの可憐なボディーを保つために不可欠なんよ。野球選手って引退後に運動せんとマジで太るんやでー? なんでか知らんけど他のスポーツの比やないねん。今度調べてみい」
わざとらしくふざけて笑う滝野の顔をまじまじと見つめてしまう。
「エクササイズって……なら」
どうしてあんな顔をしていたの?
どうしてそんな顔をしているの?
浮かんでくる感情の泡が合わさり、別の言葉を形作る。
「滝野は本当は、まだ野球を続けたかった……続けたいんじゃないの?」
――それはこの夜、私が越えるべきではなかった一線だった。
「なんでそんなこと訊くん?」
すっと、電源を落としたように滝野の顔つきが無表情になる。
即座に悪寒と、やってしまったという後悔が背を走り抜けた。
「ご、ごめんなさ――」
「だとしたら?」
うつむきかけた頭を止めて、上目で滝野の様子を窺い見る。
滝野は余裕の面持ちだった。声音も平静に戻っていた。
ただ、瞳の奥底だけが初めて見る色の光を湛えていた。
冷笑的な、底意地の悪い目。
内に静かな怒りを潜めた目。
「アタシに未練が残っとるとして桃に何か不都合があるんか?」
「ないよ、ない。ごめん。私が悪かった。無神経だった」
「桃、アタシが『今が一番や』って言うたの、覚えとる?」
「え」
問い質され、身体が硬直する。
クリスマスの夜、私はたしかに彼女の口からその言葉を聞いた。
「たい焼き屋を開くんも、仲良うなった子と遊び倒すんも夢やった。桃はアタシを信用してないん?」
「……」
「だんまりかい。まあええわ」
そんなことはない。ないはずだ。だからこの沈黙は肯定なのだ。
「だいたい、ジブンかて同じちゃうんか?」
「えっ?」
思考の虚を突かれる問い返し。意味がわからずぽかんとしてしまう。
私のどこが滝野と同じなのか。戸惑いつつもしばし考え、ああ粉の件かと腑に落ちて、そうかもしれないねと同意しかけたとき、
「いなくなった家族の代わりにアタシと今までよろしくやってたやろ?」
滝野は続けてそう言った。
これまで一度も触れてこなかったその領域に、しれっと踏み入った。
「――は?」
半開きになった唇に生ぬるい温風が吹きつける。エアコンの音が耳にうるさい。滝野は変わらず微笑している。
私は数瞬放心していた。
頭の芯が鉄のように冷える。
未だかつて感じたことのない、熱と痺れが肺腑を押し上げる。
「いや、何? なんでそんなこと言うの?」
声は固く、わずかにかすれていた。舌の先端がうまく動かない。身体中の水分が波打っているかのように落ち着きを保てない。膝上で固めた拳が破裂しそうなほど白くなっている。
私が滝野を好ましく想うのは私に家族がいないから。
この女は今、そう言ったのか?
「おあいこやろ。痛いところ突いたらやり返されるのは当たり前やん」
「私は、滝野を家族の代わりだなんて思ったこと、一度もない」
「そっか。アタシは桃と朝飯作ったりするの楽しかったけどな」
「っ、そういう話じゃなくて――!」
「なあ桃。代えが利くんの何がいけないん?」
激昂しかけた私を遮り、至って冷静に滝野は問う。
ゆっくり諭すように詰めてくる。
「野球の代わりにたい焼き作り。家族の代わりに仲のええ他人。救いが多いのはええことやんけ。なんでそないに責めなあかんねん。なんで桃は自分を追い込んどるん」
「…………責めてるわけじゃ、」
「けどまあ、二号扱いされるんが面白くないんは理解できるわ」
「え?……二号って何?」
「ピュアやなあ。愛人とか妾とかキープ君とか……滑り止めとか?」
単語の意味を解した私に対して滝野は口端を歪める。
「要するに桃は、ジブンや家族に代替が利くのが嫌ってことや。当のジブンは家族がおらん生活にもとっくに慣れきって――アタシや友達と毎日遊んで、食って、笑っとるっちゅうのにな」
「――」
すぱっと、切れ味の良い刃物で胸を切り開かれた気分だった。
痛みはない。ただ熱くて、寒くて、気が遠くなる虚脱を覚えた。
「でも、それって悪いことやないやろ? 大事なんは、今幸せか、やろ?」
滝野はこちらにひねっていた上体を戻し、ハンドルに手を乗せる。返り血を浴びる気はさらさらない。そう言っているかのように映った。
「代えが利かへんからこそ価値がある、一番大事なもんはひとつだけ……そんな逆説的なやり口で好きを量ろうとすんのはやめえや。優劣つけられへんもんなんて誰にだってごまんとあるんやから。判断基準を転倒すんな。そんなん、息苦しい生き方や」
フロントガラスに視線を固定したまま滝野は滔々と語る。ガラスの向こうは真っ暗で、広がる夜闇の先には何も見えない。
その冷たい横顔を見ながら、私はあるものを思い出していた。
ここ名古屋から三〇〇キロ超も離れた自宅のリビングである。
「……」
月一の藻永さんとの食卓。
最近は減ったエマとの食卓。
代わりに増えた滝野との食卓。
時たま集う、四人での食卓。
美傘に引っ越してから新調された四人掛けの木造テーブルは本来の席の主を失い、客人の座る景色がなじんでいる。
陽だまりの匂いがするあの場所が暖かくないなんて、嘘だった。
柚子たちが帰ってこない家で、私は居心地の良さを覚えていた。
「好きは軽くてええって前に言うたやん。つまらんことにこだわるなや。代わりがないもんなんてあらへんし、それで価値が棄損することもない。桃かて家族を大事に想っとる。こうしてショック受けるくらいに」
「……私、は……」
「……キツく言ってスマンかったな。アタシ、桃もこのたい焼き屋も大好きやで。滑り止めなんかやない。本気でやっとる。それはわかってほしい」
言い捨ててスマホを取り出す滝野。
ホーム画面に表示された時刻は二十三時を過ぎている。
「ずいぶん話しこんでしもうたな。もう遅いし、後ろ帰って早よ寝え」
そう言って滝野はいつものように私の頭に手を伸ばしかけた。けれど、頭皮を優しく包むあの感触はいつまでも訪れない。滝野の左手は戸惑うように虚空を掻いた後に引っこんだ。
無言で滝野が車のエンジンを切る。それが解散の合図だった。
「……」
助手席のドアを開け、のっそりと片方の足を地面へと下ろす。
滝野にも寝床の用意がある。早くここから去らないと邪魔だ。なのに開け放たれた車内からは磁場めいた力が働いていて、身体を引き剥がすのに苦労する。まだ話さないといけない気がする。
やっとのことで車を降り、私は運転席の滝野を見上げた。
滝野はこちらに目線をくれない。唇も固く結ばれている。
凍てつく外と暖かい内、その距離が遠く遠く感じられる。
「……滝野は、」
さっきの話の途中で言い返せたならどんなに楽だっただろう。
私は滝野みたいに口達者ではない。頭の回転も遅い。彼女の言葉の意味するところも、全部はたぶん理解できていない。
だから今、喉から出たのは反論よりも悔し紛れに近かった。
「滝野は、もし肩が治るならお店辞めて現役に復帰するの?」
「……しつこいな。野球からは足を洗ったってさっきから言うとるやろ」
私は食い下がらなかった。これ以上は話がループするだけだ。
「桃も、適当なところで折り合いつけて諦めたほうが楽やで」
諦めるという単語が耳に留まる。
今度こそ小麦粉の、くりすやの再現の話だと思い至る。
「幸せになる道はひとつやない。なくなるもんに固執するのは、いたずらに人生を狭めるだけや」
そっぽを向いたまま、まるで自分に言い聞かせるように滝野は言う。
こみあげるやりきれなさが真っ白な塊となって口を衝いた。
「どうして滝野は私のたい焼き作りを応援するなんて言ったの?」
滝野は質問に答えなかった。
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