私が知らない滝野を見つめる
それから二日間の営業は何事もなく平和に過ぎていった。
ヒツジヤの味の再現に関しては目立った進展はなかった。二朝二夕で身に付けば苦労しないし当然といえば当然だ。私が焼くたい焼きの値段は百円から百四十円で推移し、注文したお客さんからは微妙な笑顔とエールが返ってくる。失敗は減っても成功は遠い。足踏みする時間が続く。
一方、ももくりの売上は少しずつ上向いているようだった。レシピの力か滝野の腕か、はたまた杏子ちゃんの可愛らしさか。期間限定の出店であることをアピールしたのも良かったのか、この短期間でリピーターが友人を連れて来てくれているらしい。
「こりゃ大晦日と正月も営業せななー! 昨日なんかお客さんから餡の量り売りの希望もあったんやで。正月用やって」
機嫌よくたい焼きの頭をかじりながら滝野が呵々大笑する。私が貰ってきた星月さん手製の一丁焼きである。多少冷めても絶品で、夜の慰労会の肴の主役になった。
「ほえー。お餅に乗せるのかな? それじゃあ仕込み量増やさなきゃね」
ちなみにヒツジヤも通年通し営業である。休みなどない。恐ろしいことに。
名古屋に来てから働き通しでだいぶ疲れも溜まってきている。車中泊には慣れてきたけど身体は背中も腰もバキバキである。運転席で寝ている滝野は輪をかけてバキバキなはずなのに、朝晩に顔を合わせてもケロっとしている。基礎体力の違いなのか。
この二晩も夜中に起きたけど、素振りをする滝野は見られていない。
星月さんと杏子ちゃんの冷戦状態はまだ継続している。
詩織ちゃんは杏子ちゃんを見に、連日ももくりに足を運んでいる。
再度ヒツジヤに来た杏子ちゃんの友達には、杏子ちゃんがももくりを手伝っている事実を伝えた。すぐお店に向かったようなので会えたはずだけど顛末は知らない。
平坦な日々は循環しない溜まり水のように淀んでいた。
私のあずかり知らない水面下で様々な事が進んでいる。私にできるのはただ目の前のたい焼きを上手く焼きあげるだけ。
ヒツジヤの味を再現し、より確実な星をこの手に掴むだけ。
(……江津さんに会いたいな。会って、いろんな話がしたい)
ヒツジヤでのたい焼き作り、お客さんとのやり取りは楽しかった。
そうした時間を重ねるたび、友達への感情は募っていった。
事件が起こったのは三日後、十二月二十九日の昼だった。
**
外から勢い良く開かれた扉がドアベルをけたたましく鳴らす。
「お姉さん! 店長さんが――!」
冷気と共にヒツジヤに転がりこんできたのは詩織ちゃんだった。
丸いほっぺたを真っ赤に染め上げ、ぜえぜえと肩で息をしている。ゆるやかな昼下がり、店内の衆目を一身に集める中で、彼女はカウンターの奥で火床をいじっていた私にこう告げた。
「店長さんが、変な人に、絡まれてて、お姉ちゃんが、怒り出して」
驚愕で思考が止まった脳に途切れ途切れの言葉が降りかかる。
「……は?」
意味を解し、背筋が冷たくなる。嫌な汗が首元をつたった。
何が起こったのかはわからないが客とのトラブルなのは明白だ。今にも泣きそうな詩織ちゃんを見るに事態は深刻そうだけれど、私相手ならともかく滝野が客とケンカなど考えられない。
混乱しかけた頭でホールの星月さんと幹さんに目をやる。
ふたりは一度顔を合わせ、示し合わせたようにこくりと頷いた。
「行ってらっしゃい。お店は私と幹さんで回しておきますから」
「お嬢が迷惑かけてすいません。柊さん、お願いします」
詩織ちゃんを含めた三人の視線が私の顔に突き刺さる。
私は目だけで全員を見回してから、深く深くお辞儀をして、着替えもせずに店を飛び出した。
「はっ――はっ――はっ――!」
土地勘のない名古屋の住宅地を息を切らしてひた走る。路道から足裏に伝わる衝撃がやけに強く感じられた。灰色にくすんだ分厚い雲を睨みつけながらアスファルトを蹴る。
ももくりのある塾の駐車場までは十五分ほどで辿り着いた。
ツートンカラーのトラックの前には客が三人ほど並んでいる。
「滝野っ――!」
全力疾走で心拍数の上がった身体から声を絞り出す。
私の叫びに並んでいるお客さんが一斉に振り向き、それと同時に接客をしていた杏子ちゃんが驚きの声をあげる。
「柊さん!? どうしてここに……?」
彼女が言った十秒後、奥から滝野がひょいと顔を覗かせる。
「おー? 急にどないしたんや桃。今まだヒツジヤ営業中やろ」
「だ、だってトラブったって聞いて、お客さんと」
「あーちっと待ってな。今手が離せんねん。……お騒がせしてすんません、あと一分ほどで焼き上がりますので」
スマイルを浮かべた滝野がお客さんにへこへこと頭を下げる。そこでようやく私は営業の邪魔をしてしまったことに気付いた。
急激に居づらくなった私はそろそろと駐車場から離れた。
塾のビルの影に身を潜め、お客さんがはけるのを黙して待つ。
(さっきのお客さん達とは特に揉めてる感じはしなかった。私が来るまでにトラブルは収まったのかな? それなら良いんだけど……)
乱れた息と考えを整えるには充分な時間が経った。
駐車場が無人になったのを確認したので戻ろうとしたとき、道の反対側から同じタイミングでひとりの女性がやってきた。ぶつかるような距離ではないけど、なんとなくそれぞれ立ち止まってしまう。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
駐車場の入り口でお見合いしてしまい、互いに軽く謝る。トレンチコートを着た女性は右手に菓子折りを抱えていた。
彼女は先に駐車場に入り、まっすぐキッチンカーに突き進む。おやっと私が目を見張ったのも束の間、接客カウンターの前に立って、
「先ほどは大変ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございません」
先刻の私以上に、深々と頭を垂れて謝罪した。
目を点にする私をよそに謝られた滝野が慌てて応じる。
「もうええから頭上げてください。他に客もおらんかったし、アタシは全然気にしてませんから」
「師匠が気にしなくても私は気にします」
「杏ちゃんちょい黙っててな」
たしなめられた杏子ちゃんがいかにも不服そうに頬を膨らませる。
話についていけてない私は、ひとまず現状について尋ねた。
「えっと、滝野。さっき詩織ちゃんから客と揉めたって連絡があって……」
「あー、それな。もう解決済みや」
滝野が気まずい苦笑を浮かべる。すっかり困惑している私にトレンチコートの女性が振り返り、素早く瞬きをしてから問う。
「ひょっとしてあなたもこちらのお店のご関係者の方でしたか?」
「え、あ、はいそうです。店員です」
答えると、女性はすぐに姿勢を正して身体をこちらに向けた。
「申し遅れました、わたくしこういう者です。向こうのビルの編プロでライター業を営んでおります」
名刺には氏名と見たことのないカタカナの社名が記されていた。受け取った名刺を読んでいる私の耳につらつらと声が届く。
「私が駆け出しの頃に大前選手にお世話になりまして。特集を組ませていただいた時、大変良くしてもらってたんです。その頃からファンだったのですが、先日こちらでお見かけしまして。今日は我慢できずお声掛けしてしまい……重ね重ねお詫び申し上げます」
「はあ…………え?」
顔を上げた私の眼前で女性は肩を縮こまらせている。すまなさそうにうつむいているけど、口元はほのかに緩んでいた。伏せたまつ毛の隙間から隠しきれない嬉しさがこぼれ落ちている。
彼女の背後で、トラックの中にいる杏子ちゃんが眉を逆立てる。
「だから人違いですっ! 師匠の名字は栗須! 大前なんて知り――」
「いや」
ぷんすか怒る杏子ちゃんを遮り、滝野がレジの前に移動する。
彼女はちらりとこちらに目配せし、笑みで目尻の皺を深めた。
「大前で間違っとりませんよ。その節はどーも、世話になりまして」
店先でふたりが喋っていたのはさほど長い時間ではなかった。
滝野は往時について、ライターさんは滝野の変化について。昔話に花を咲かせるふたりの大人を前後から挟んで、私と杏子ちゃんはただぼんやり突っ立っているより他になかった。口を挟めなかったというよりも話に混ざる気が起こらなかった。確認したわけではないけど杏子ちゃんも同じ気分だっただろう。
「ところでなぜ大前選手はたい焼き屋をオープンされたんですか?」
「選手はやめてくださいって。以前祖父がたい焼き屋をやっとりまして。道具を譲ってもらえたので」
ぺらぺらと気前良く語る滝野を白い目で見ながら内心ごちる。
(譲ってもらったのは私だよ。滝野は遺品を回収したんでしょ)
私が知らない大人の顔で、私が知らない過去の話をする。
私が知らない呼び名で呼ばれて、私が知らない人と笑いあう。
そんな滝野を見ていると胸の奥がどうしようもなくわさわさした。星月さんとの時とも異なる筋違いの嫉妬に似た感情。置いてかれる寂しさを怒りに置き換えただけの幼い感情。
「引退後は一時期少年野球のコーチをしていたようですが」
「辞めました。向いとりませんでした」
あえて探らずにいた滝野の過去が否応もなく曝け出される。
知りたい気持ちはもちろんあった。けど今だけは知りたくなかった。なのに目や口と違って耳を塞ぐには手を使わなきゃいけなくて、そんなあからさまな拒絶を滝野の網膜に映せはしなかった。
他人が評する『大前滝野』を耳にしながら襟をきゅっと握る。
(ああ、そうか)
どうしてこんなにも胸が苦しいのか、なんとなくわかった気がした。
(私、滝野に自分から自分のことについて話してほしかったんだ)
自覚した途端、笑ってしまった。
(私、わがままだ)
「本日はありがとうございました。もしよろしければ、後日改めて取材という形でお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あー……ええですよ。ただ愛知に滞在するのは来月三日までなんで。その前にご連絡ください」
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