潰えゆく星と代わりとなる星

 その日焼いた一丁焼きの最高価格は百二十円だった。


「それじゃあ」

「お疲れさんのカンパーイ」


 紙コップの縁と縁をぶつけて、お互いの一日を労いあう。

 ヒツジヤでの初日の手伝いを四苦八苦しながらも終えた私は、滝野とキッチンカーの後部でちょっとした慰労会を開いていた。

 寝袋と毛布を座布団代わりに、それぞれの店で余ったあんこを紙皿に広げて熱いお茶を飲む。修学旅行の夜に似た非日常のムードに心は浮き立った。暖房なしの冬の夜の車の中は激烈に冷えこむけれど、累計五枚の厚い重ね着とカイロでどうにか対処できている。


「滝野のほうはお店どうだった? 昨日よりお客さん増えたりした?」

「前日比微増ってところやな。塾の子の親御さんらも買うてくれたし、口コミに期待しときたい。……変なお客さんにつかれるのは、勘弁願いたいんやけどな」

「変な客?」

「例え話例え話。ちゅーかアレやな、閑古鳥鳴いとるくせに客選ぶとか何様やねんってな」

「まったくだね……ん、こっちの餡、いつもと違う味だけど。どっかで買ったの?」

「そいつは杏ちゃんが炊いた餡や」

「ほっ?」


 降って湧いた情報に驚いて変な声が出た。滝野はスルー。


「営業時間の合間に小鍋でちまちま試作しとったんよ。材料も自前のを使っとった。目標はヒツジヤのあんこやと」

「ふーん……これ、結構おいしいけど。餡炊くのは初めてなのかなあ?」

「料理本片手に昔から何度か作ってはいたらしいで。今回はアタシも手伝ったけど」

「独学でこれかあ。センス良いんだね」

(まあまだ私の餡のがうまいけどな!)

「考えとること顔に出とるでー。ビギナーに謎の対抗心を燃やすなや」


 滝野に呆れられつつ茶をすすり、舌に残る甘みを洗い流す。湯船に浸かった直後みたいに疲れた身体に熱が染み渡った。また夜中にトイレに行きたくなる予感もしたけど今は気にしない。


「あのさ、滝野」

「うん?」

「誰かとまったく同じ味の食べ物って、滝野は作れると思う?」

「なんや今さらな質問やなあ。そこは疑わへんと思っとった」


 すいっと伸ばした足先で滝野がこちらのあぐらをつついてくる。私がこれ見よがしにゲンコツを掲げると大慌てでひっこめた。


「どれ、迷える桃ちゃんにはお姉さんが数学の問題を出しちゃる」

「数学? 味となんの関係が?」

「まあ聞きい。第一問! 水百グラムに塩を五グラム入れたら濃度何パーセント?」

「テキトーでいいよね? 五パーセント弱」

「さらに砂糖を五グラム入れました。塩と砂糖の濃度はそれぞれ?」

「四・五パーセントくらい」

「正解。この水で揉みこむとお安い鶏ムネもジューシーに変身」

「……いや、何が言いたいのさ? 手軽でおいしい唐揚げのレシピ?」

「誰がやってもこの水の濃度は四・五パーセントってことや。同じ材料で同じ手はずを踏めば当然同じ結果が出る。そこんとこは料理かて変わらん。こんなん当たり前の話やん」

「それはそうだけど。料理ってそこまで単純な工程じゃないじゃん」

「そんなもん鍛錬あるのみやろ」

「む」


 技術面の不足をつつかれると私としてはぐうの音も出ない。

 言葉に詰まった私に、滝野は仕方がなさそうに笑いかけた。


「で、本当は何に悩んどるん?」

「ん……」


 柔らかく問われてつい目を逸らす。

 そのまま穏やかなまなざしに晒されること、およそ十秒と少し。


「……星が、見えたんだよね」


 根負けした私は腹を割って心境を打ち明けることにした。


「星って……空のやないな。くりすやのたい焼き食うたら頭ん中ピカーってなる言うアレか?」

「怪しい言い方しないでよ! いやまあだいたい合ってるんだけど!」


 新手の薬物みたいな表現にふたりで身体を揺らして笑う。

 ついでにあぐらを左右組み直し、痺れかけた足に血を巡らせる。


「秋さんが焼いたたい焼き、そないに美味かったんか。気になるなあ」

「なら明日一枚貰ってくるよ。そだ、焼いてる録画も送ったげる。皮を重ね焼きしてるんだけど、なんかコツとかわかったら教えて」

「ほーん? 後で見とくわ、サンキューな。……ほな、話の続きを聞こうか」


 立てた片膝に腕を置き、その腕に顎を乗せて微笑む滝野。


「うん。ヒツジヤの……星月さんの焼いた一丁焼きはおいしかった。真っ暗だった視界が開けて、そこにバーッと光が散るみたいな……」


 その味を思い出して唾を飲む。

 歯切れの良い二層の薄皮を噛みしめた瞬間ほどけて広がる、凍て星めいて澄んだ餡の旨味。鮮烈なまでの甘い陶酔。

 くりすやに勝るとも劣らぬ、味。


「本当に、びっくりするくらいおいしかったんだけど。それが、なんかね」


 紙皿の上に乗せたヒツジヤのあんこをスプーンで口に運ぶ。単品でも充分に美味だけど、皮と合わせて熱したときの味のふくらみまでは感じられない。


「がっかりしたか?」

「え?」


 弾かれたように面を上げる。

 滝野は鏡のように凪いだ瞳で私の顔を見つめていた。


「世界イチ口に合うたい焼きがくりすやだけやなくて、がっかりしたか?」


 その指摘は私の抱えているもやもやを容赦なく照らし出した。

 言語化された自身の感情はあまりにもちっぽけで、子どもっぽい。


「……私、お爺さんのたい焼きだけが特別なんだと思ってた」


 敷いている寝袋をきゅっと握る。生地に皺が寄り、指が沈みこむ。


「あのたい焼きを食べている間はいろんなことを忘れられた。私の人生、これさえあれば他になんにもいらないって思った。バカみたいに聞こえるけど本気だったし、今でも正直そう思う」

「ジジイも職人冥利に尽きるやろうな。こないなアホが爆誕して」

「うるさいな。……でも、仮に私の腕前がお爺さんクラスまで上達しても」

「うん」

「自分でくりすやの味を完璧に再現できるようになっても」

「……うん」

「この先ずっとあのレシピで作り続ける夢は、たぶん叶わない」


 冷えた車内に沈黙が垂れこめる。

 それは旅に出る前から承知の、あえて触れずにいた現実だった。


「だって、ゆうひかりはもう――」


 ――そう。



 ゆうひかりは現在、



 滝野が電話口で生産元の沢谷さんに確かめた事実だ。

 最後の新鮮な在庫こそ譲ってもらえることにはなったけど、それが切れてしまえば新しい粉を調達する目途はなくなる。今度こそこの世界からゆうひかりという小麦粉は消失する。

 それは即ち、くりすやのたい焼きの完全な喪失を意味する。


「……まだわからんけどな。頼みこんだら意外とまた植えるかもしれへん」

「私もそうなるのを祈ってる。すごく希望的な観測だけど」

「せやな……」


 ふたりで示し合わせたように紙コップのお茶をすすり、ため息をつく。

 種籾を貰って自宅の庭で栽培するという手もなくはない。しかし素人の家庭菜園で品質は確保できるのか、十数年も続けられるのか。それこそ荒唐無稽で非現実的な未来図のように映る。栽培の継続にはプロの農家の手が不可欠と考えられた。


「私は星が欲しい。だからくりすやの再現を目指してる。でも」

「桃が苦しいんは、ヒツジヤがくりすやの代わりになる思うたからか?」


 頷こうとして固まってしまう。無言で唇を噛んだ私は、きっとどんな言葉よりも雄弁に滝野の言を肯定している。

 他者と同一のたい焼きなど作り得ないと星月さんは断じた。

 同じプロセスを経由すれば必ず作れると滝野は言い切った。

 私は滝野の言い分を信じる。同じ味にできないのは私の技量が足りていないせいだ。


「ヒツジヤのレシピはもうわかってる。小豆も砂糖も小麦粉も福里商店で取り扱いがある。火床と焼き型は独特だけど、もし閉店するなら譲ってもらう。無理なら業者さんに頼んで同じ物を作ってもらう。お金なら出る」

「出るって、アテがあるんか?」

「ないけど、後先考えなきゃあるでしょ」

「物騒やなあ。冗談キツいわ」

「そしたらヒツジヤの再現で残る問題は、私の腕前だけ」


 自分の手のひらをじっと見つめる。節々にできたマメと分厚くなった皮をぎゅっと指で握りこむ。

 腕前ならひたすら磨けばいい。仮に年明けのイベントに間に合わずともトライを続ければいい。日々修練を積み重ねていけば、どんなに高く遠い頂でも、いずれは指先が掛かる日が来る。

 何年、何十年かかろうとも、登りゆく先には希望がある。

 ヒツジヤの味は、今後も作れる。


「でも、くりすやは」


 そこまで言いかけて言葉を区切る。場の酸素が薄くなった気がした。ストーブを換気せず焚き続けたような息苦しさに胸が詰まる。

 滝野は眉を歪めた私を静かな面持ちで観察している。


「訊きたいんやけど、桃はその星とやらのためだけに頑張ってたんか?」

「だけってわけじゃない。江津さんとの約束だってちゃんと守りたい。けど、一番のモチベーションを訊かれたら、私は星って答える」


 私がくりすやの店主になる――あの雨の日に交わした約束を片時だって忘れたことはない。焼き型を振るうたび軋む腕に、立ち仕事で疲弊しきった足に、約束は踏ん張る力をくれた。この背中をいつも支えてくれた。

 それでも私は、他人を第一に動くほど殊勝な奴ではない。


「私は星を作れるようになりたい。自分ひとりで自分のことを幸せにできるようになりたい」


 江津さんの家で喧嘩したときからこの気持ちは変わっていない。

 あるいは、遠い昔から、ずっと。


「そっか」


 それだけ言って滝野は天井を仰ぎ、長い長い息を吐いた。

 がっかりさせてしまったかなと私が居たたまれなさを覚えていると、急にかくんと首を下ろし、紙皿のあんこをスプーンで掬い取る。

 ヒツジヤのそれをもむもむ咀嚼し、嚥下してから彼女は笑った。


「ま、ええんちゃう? 代えが利かへん大事なもんなんてただの重荷やし」


 にかっと歯を見せて、そんな、栗須滝野らしくない台詞を口にする。

 声の響きは底抜けに軽くて、弱音を吐いた私に対する当てつけや皮肉には聞こえなかった。


「な、なんかすごいこと言うね」

「せやろか? 桃の星云々につられたかな」


 からからと笑う彼女の姿は何故だか妙に遠く映った。互いの手足が届く距離なのに、透明なアクリル板で遮られたかのような隔たりを感じる。


「……一応言っとくけど、ヒツジヤの練習はただの保険なんだからね! ゆうひかりの生産が続くなら二代目くりすやも諦めないし!」

「ムキにならんでもわかっとるって。さってと、そろそろ仕込みして寝よか」


 長話を打ち切って立ち上がり、滝野は食器を片付け始める。最後は適当にあしらわれた。妥当な気もするけど不服である。

 なんとなくまだ立つ気分になれず、我にもなく指で膝を叩く。苛立ちの表出。ふと、そんな自身への疑念が頭に浮かぶ。


(というか、どうして私は代わりが見つかったのが苦しいんだろう?)


 より確実に星を作れる手立てを発見したのは良いことだ。がっかりする気持ちを差し引いても嬉しさが勝る出来事のはず。

 上着の上から胸に手を当てて自問するも答えは見つからない。

 シンクでスプーンを洗う滝野の後ろ姿を見上げて問いかける。


「滝野は、ヒツジヤがくりすやの代わりになると思ってここまで来たの?」


 投石みたいな私の質問に彼女は振り向かずに答えた。


「まさか。食うたこともない一丁焼きにそこまで期待せえへんよ」

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