開けた空ととまり木の気持ち

 ヒツジヤ珈琲店は見た目より力の抜けた喫茶店だった。

 客層はご年配の方々が中心でたまにビジネスパーソン。繁盛しているとは言い難いが客足が途絶えることもほぼない。常にテーブルのどこかで誰かが自分だけの世界に耽っている。新聞や本をめくる音とBGMのジャズだけが響く店内は、年の瀬にも関わらずゆったりとしたムードに包まれていた。


「じゃあお姉ちゃん見てくるね。行ってきまーす」

「横断歩道では車に気をつけましょうね。行ってらっしゃい」


 両手でそっと扉を閉めて詩織ちゃんが店の外へと出ていく。ももくりで働いている姉の様子をこっそり覗きに行くらしい。もこもこのダウンに身を包んだ小さなその姿を眺めていると、ついでにラックに新聞を置いて帰ってきた星月さんが言う。


「『とまり木のような店ですね』と、お客様に褒められたことがあります」


 手持ち無沙汰に火床と焼き型をいじっていた私は手を止めた。

 口の中で転がしていた失敗作のたい焼きをクイと飲みこむ。


「ふう……えっと、どういう意味でしょう?」

「暇なときは暇ということです。注文が入るまではキッチンの椅子にかけてても構いませんよ」

「いえ、これでイメトレにもなりますし。早く道具にも慣れときたいので」


 型を軽く持ち上げると今度はホールから幹さんが戻ってくる。


「五番のテーブルに小倉一枚です。柊さん、お願いします」


 簡単にオーダーだけを伝えて彼は厨房に入っていった。

 ホールに鎮座する柱時計を見れば時刻は昼を回っている。昼休憩を取っていい頃合いだけど、いまいち休む気にならない。せめて一枚でも満足のいく品を出してお昼にしたかった。


「――よしっ」


 ぎゅっと目蓋を閉じ、気合を入れる。私はボウルから生地をすくった。一歩距離を置いた星月さんの視線を感じながら手を動かす。

 ヒツジヤの皮の重ね焼きは思っていた以上に難易度が高い。

 生地が薄い分焼けるのが早く、時間的なバッファが少ないのだ。通常許される焼き時間のブレを三十秒前後とするならヒツジヤのそれは十五秒前後。これを表裏二面ずつ上手くやる。

 客が少なく、注文が重ならないのは私には幸いだった。一枚のみに集中することで生焼けだけは回避できている。しかし完成度は星月さんの一丁焼きに遠く及ばない。餡の水分が漏れ出て焦げたり、皮が分厚くなりもさっとしたり。見た目に味が伴っていないたい焼きばかりを焼いてしまっている。


「桃さん、焼き型が重たいですか? 腕力より身体全体で支えて浮かせるのがポイントですよ」

「引っ越し屋さんみたいですね」

「腕力も大事ですけどねえ。あ、そのあたりも引っ越し屋さんみたい?」


 妙にとぼけた彼女の台詞にツッコむ気力と余裕もなかった。くるんと焼き型を引っくり返し、蓋を開いて焼き色を確認。きつね色にひと安心するも、これでまだ折り返し地点である。

 たい焼き一枚に倍の工程を、倍の精度で要求される。重くて熱もよく通る真鍮の型が難度に拍車をかける。


(って、また道具のせいにしてる。秋から全然成長してない)


 自身の不甲斐なさに内心舌打ちしつつ生地を上から重ねる。

 どうして、どのように星月さんはこの製法に至ったのか。くりすやのたい焼きの味に寄せる気は初めからなかったのか。心の片隅をよぎる疑問は雑念というより逃避に近い。

 目立った失敗もなく、数分の後にたい焼きは無事完成した。

 完全な失敗作を含めて開店から十枚ほど焼いたが、今までで一番ましな出来だ。星月さんに沙汰を仰いでみる。


「焼きあがりました。……星月さん、今回のはおいくらでしょう」

「んー、おまけして百十円ですね。お客様への提供を許可します」


 笑顔でばっさりいかれてしまった。定価の六割という情けない値付けにがっくりと肩を落とす。

 現在ヒツジヤでたい焼きを注文するお客さんに対しては、見習いの私が調理していることを説明した上で出している。

 発展途上の私のたい焼きは出来に応じて適宜割り引かれ、正規の値段である百八十円より格安で提供されるのだ。合格ラインは定価の五割で、下回ったたい焼きは破棄……はもったいないので、自分で食べてみて修正点を分析する。

 湿気を避けるべく紙を敷いた竹ザルの皿にたい焼きを乗せる。

 星月さんに促され、私はできたたい焼きをホールに運んだ。奥まった位置のテーブルの客は珍しく年若い少女である。杏子ちゃんと同年代くらいか。

 うわずりそうになる声を抑えて湯呑みとお皿をテーブルに置く。


「お待たせいたしました、ご注文のティーセットになりま……す?」

「ありがとうございま……あれ?」


 私と少女が、互いに合わせた目をぱちぱちしばたたかせる。

 縁なしの丸い眼鏡を掛けた彼女の顔には見覚えがあった。昨日の今日だしすぐ思い出せる。


「あの、もしかして昨日の夕方、塾の前でたい焼き買ってました?」

「はい! お姉さん、あそこのたい焼き屋で焼いてたお姉さんですよね?」


 彼女は昨日塾の駐車場で、ももくりのたい焼きをおいしいと言ってくれた女子中学生だった。あんこしかないメニューに不満を漏らす友達をなだめすかして、ももくりの数少ない売上に貢献してくれた優しい少女だ。

 予期せぬ場所での再会に変な嬉しさと気まずさが渦を巻く。

 少女は驚きに両目を見開いてからおかしそうに微笑んだ。


「びっくりしましたー……あと、覚えてらしたんですね。なんか恥ずかしい」

「ああいう商売ですから。お客さんの顔はほとんど覚えますよ」


 というか覚えろと滝野に叩きこまれた。客商売の鉄則らしい。


「どうしてお姉さんがヒツジヤさんに居るんですか? あちらのお店は?」

「色々あって年始のイベントをお手伝いすることになりまして。今はその研修期間です。ももくりは今日から滝……レジの女性が調理まで担当します。私が焼くよりおいしいので、よかったらまた行ってやってください」

「お手伝い……コラボみたいな? あ、たい焼き冷めないうちにいただきますね」


 彼女はそっと掌を合わせてからたい焼きにかぶりついた。大人しそうな容貌に反してひとくちで食べる範囲が大きい。焼き手冥利に尽きる食べっぷりだ。

 まくまくと咀嚼している彼女の表情がだんだんと曇っていく。


「……」

「……おいしくないですか?」

「いえ、美味しいです。美味しくはあるんですけれども……うーん?」


 狐に化かされたような顔でお茶をすすり、少女は首をかしげる。味見せずとも四割引きの味なのは一目瞭然だった。


「ご期待に沿えず申し訳ないです……」

「そ、そんなに凹まないでください! 本当に美味しいですよ! 割引ですし!」


 悪意はないのであろう少女のフォローがぐさりと胸に突き刺さる。あたふたする彼女に私は固い笑みで応じるより他なかった。

 彼女の前に来たお客さんたちの反応も似たり寄ったりであった。

 不充分な出来の商品をお客さんに提供してしまっている。そう思うと肩身が狭い。自分が小さくなったような気分になる。カウンターの奥にいる星月さんについ目線を送ってしまうが、彼女は物言わぬ壁のようにただ笑顔を浮かべるばかりである。


「……ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ。失礼します」


 少し深くお辞儀をして私は五番テーブルを後にした。みっともなく丸まりそうな背筋を伸ばし、ぴしぴしと歩を進める。

 凹んでばかりもいられなかった。私はこのヒツジヤの一丁焼きを、ものの一週間と少しでマスターしなければならないのだから。

 星月さんとの賭けに勝ち、杏子ちゃんがレシピを教えてもらえるように。

 ヒツジヤの味を求めてイベントに来る客に応えられるように。

 もしゆうひかりが――


「っ!」


 ぶんぶんと強く首を振る。

 足を止めた私を星月さんが不思議そうな面持ちで見ていた。




「さっきの子は杏子のお友達ですね。様子を見に来てくれたんでしょう」


 星月さんが湯気の立つコーヒーのカップをテーブルに置いて告げる。カウンター席の端で賄いのナポリタンを食べていた私は、お礼を告げてカップを口に運ぶ。

 深煎りの苦味が口を満たす。カップをソーサーに戻し、尋ねる。


「様子って、何かあったんですか?」


 自分で言ってて、なんだか穴を埋めるような会話だなと感じた。思わせぶりな星月さんの台詞の空白に乗っかった形。彼女の言葉選びからは訊いてほしそうな気配が漂っていた。


「お店を閉めると言ってから杏子はサックスを吹かなくなりました」


 楽器の種類を聞いて少し驚いたけど、それは今関係ない。


「あの、昨日も話に出ましたけど。どうして閉店しちゃうんですか?」


 そう尋ねたのは、単に話の流れに身を委ねただけではなくて。

 私にも、ヒツジヤを続けてほしい理由ができたからかもしれない。


「まあ、潮時かなと思いまして」


 潮時。昨夏にくりすやでお爺さんと交わした会話を思い出す。

 彼女はへにゃりと眉尻を下げて、困ったように笑いながら語る。


「このお店の経営はよくてトントン、たまに少し赤字なくらいです。閉めてパートでもやったほうがかえって家計は安定します。父が遺した店だからと元の仕事を辞めて跡を継ぎました。けど、単身赴任中の主人の収入なしでは生計が立ちません」


 閑散とした店内に視線を巡らせて星月さんは続ける。


「夫に負担を強いてまで泥船じみた営業をすべきではない。そう考えていた折に、杏子に高校からお声が掛かりました」

「声が掛かる……って、スカウト的な意味ですか?」

「いわゆる逆推薦ですね。夏のコンクールのソロパートで顧問の方に見初められたそうで。音楽の世界では非常に珍しく、光栄なことだそうですよ」


 どうやら若手の青田買いはどこの界隈にでも存在するらしい。フォークに巻きつけたナポリタンを口に入れて言葉の続きを待つ。ケチャップ控えめ、トマトたっぷりで香草の効いたパスタはおいしい。観光ガイドで見た名古屋メシのイメージからは外れているけれど。


「将来はプロになりたいと小学生の頃から言っていた子です。自分の実力を認められて杏子は本当に嬉しそうでした。私もできる限り後押ししてあげたいと、改めて思いました」

「それでお店を畳もうと……」

「四年後に音大に行くつもりなら当然学費もかさんできます。下の子たちの進学も控えていますし余裕なんてありません。道楽で喫茶店の営業を続けている場合じゃないんです」


 ギプスで固められた左腕に目を落とし、彼女は肩をすくめる。


「まあ、このお店を流行らせられない私の腕が悪いんですけどね」

「ヒツジヤさんは良いお店ですよ」


 冗談めかして笑った彼女に発作的に言い返してしまった。


「まだ半日しか過ごしてないけど、食べ物もコーヒーもおいしいし。値段も、居心地だって文句ない。たい焼きを出したお客さんだって優しい人ばっかりでした。だからえっと、その……立地! そう、みんな立地が悪いんですよ!」


 飲食の売上は立地が大きいと以前滝野が言っていた。喫茶店文化が根付いている名古屋とて例外ではないだろう。競合する分だけ経営が傾く店も多いのかもしれない。


「それに、たい焼きだっておいしいんですから……くりすやに、負けないくらい……」

「え? ごめんなさい、よく聞こえませんでした」

「なんでもないです。だから、腕が悪いなんて言わないでください」


 とにかく、店のクオリティの問題ではない。私はそう伝えたかった。


「ありがとうございます」


 星月さんはいかにも商売人らしい明るい笑顔を浮かべた。しかしその笑みも長くは続かず、染み出すように薄い陰りが差す。


「音楽の道を進んだ先で杏子が折れない保証はありません。そう遠くないうちに挫折して夢を諦めるのかもしれません。でも、親の私には子どもの選択肢を広げる義務がある……いいえ、義務だからじゃありません。私が、あの子たちの選択肢を広げてあげたいと思うんです」


 しかし、ヒツジヤを閉めたら店を継ぐという選択肢だけはなくなる。


「……杏子ちゃんは、演奏者とカフェのマスターのどっちになりたいんでしょう」

「あの子の一番は音楽です。十五年間見てきた私と、あの子の周囲の皆さんが保証します」


 こぼれた疑問に星月さんは迷いのない口調できっぱり答えた。

 息を呑んだ私の耳に届く彼女の声音は落ち着いている。


「いつの日か、杏子が夢を叶えて本職の演奏者になった後。もしくは何かのきっかけで音楽の道から足を洗った後。そのときになってまだうちの一丁焼きを作りたいと言っていたら、私は一から十まできちんと仕込んであげたいと思っています」

「……ああ。昨日の『大人になったら教える』ってそういう意味ですか」

「そうして練習を重ね続けて、結局私とまったく同じ味にはならないと自分で気付いて。それでもまたヒツジヤをオープンしたいと思うなら、すればいいんです」


 突き放した物言いで語る星月さんの顔はさっぱりしている。


「お店の看板なんて、何度でも、自由に掲げていいんですから」


 その一言を聞いた瞬間、頭の中で別の声が重なった。


『くりすやは閉店したわけじゃない。今は少し長い休業期間』


 文化祭の日の江津さんの言葉が、つないだ手の温度が蘇る。

 心臓の裏がざわめくのを無視して私は星月さんに告げた。


「今私が聞いたこと全部、杏子ちゃんに説明してあげましょうよ」

「言ったらあの子はサックスを川に投げ捨てます。ああいう子ですから」


 それ以上、私から星月さんに言えることなど何もなかった。

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