ヒツジヤの味と星の瞬き
生地の仕込みから道具の片付けまで完了して厨房を出る。
時計は午前八時を指していた。後ろをついてきた星月さんがホールの明りと暖房、そしてカウンター内にある火床を点ける。予熱にやや時間がかかるらしい。
「開店するのは九時なので桃さんはここでくつろいでいてください。私は子どもの朝食を用意してきます。試作はその後で――」
「朝ご飯ならさっき作ったよ」
頭上から降ってくる声に私と星月さんは宙を振り仰ぐ。
「……ありがとう、杏子。いつも面倒かけちゃってごめんね」
「別に大丈夫だけど」
階段から杏子ちゃんが腕を組んで私たちを見下ろしていた。私が挨拶するよりも前に滑るように段差を降りてくる。
素早くも静かな足音からはかえって剣呑さが感じられた。
「おっおはよう杏子ちゃん。ゆうべはトイレ貸してくれてありがとう」
「おはようございます、柊さん。今朝は母がお世話になりました」
ぺこっと慇懃に頭を下げてから、上目でじろっと私を見る。
「母からうちのたい焼きのレシピを教えてもらっていたんですよね?」
「え、ええっと、うん」
「むー」
唸ってむくれる杏子ちゃん。例によって星月さんを睨むが当人はどこ吹く風である。一触即発の母娘に挟まれて私が胃を押さえていると、娘のほうが深いため息をついた。ここではおっぱじまらないらしい。
「まあいいです、私にだって色々と考えがありますので。それじゃ私、師匠の様子を見てきます」
「師匠?」
耳慣れない単語に首をかしげていると、店のドアベルが鳴った。
「そっちの調子はどやー? っと、だいたい準備終わっとるみたいやんな」
「師匠!」
ドアを開けた滝野に杏子ちゃんがぱっと顔を明るくして駆け寄る。
浮かれた子犬みたいにまとわりつく彼女をどうどうといなしながら、店の中に入ってきた滝野は星月さんに話しかけた。
「おはようございます、秋さん。桃は使いものになりましたか?」
「はい、もう大助かりでした! まだ修行を始めて三ヶ月だなんて思えない手際でしたよ」
「そら良かったです! いやあ仕込み始めた頃なんてひどいもんでしたよ」
本人そっちのけで星月さんが褒めて滝野が謙遜などする。そのまま流れで和気あいあいと大人同士の談笑が始まるが、その間も杏子ちゃんは滝野の右腕にひっついてとろけていた。
「えっと、杏子ちゃんはどうかしたの?」
どうかしてるぜ? というニュアンスもこっそりと籠めて問いかける。
彼女ははっとした様子でこちらを見やるが身体はくっつけたまま。滝野と腕を絡めた状態でふふんと得意そうに返答する。
「柊さんが母にたい焼きの仕込みについて教わっている間、私は師匠に教わってました」
「はあ。……はあ?」
ぐりんと急旋回で滝野に目を向ける。視線を泳がせる滝野。
「いや最初は先生やったんよ。けどこそばゆいからやめてえなって頼んだら師匠になっとった」
「そっちじゃないんよ。杏子ちゃん、教えてもらったというのは、製餡とか生地作りとかを?」
「はい! 師匠、本当に師匠なんですよ! 初めての私でも一度でわかるくらい説明が丁寧だし! 細かい処理で困ったときもすっごく優しく指導してくれるし!」
「テイネイ? ヤサシー?」
文化祭前のたい焼き五枚並行焼き練習を思い出す。キビキビ動けや、返しが遅いわ、おどれも焦がしたろかボケナスビ――飛び交った罵詈雑言は私が捏造した記憶だったろうか。
「焼いたたい焼きも今まで食べたことがないくらい美味しくって……あーあ、私このまま師匠のお店に就職しよっかなー。うちなんかより愛着湧いてきたかもー」
「いやいや、杏ちゃん中学生やろ」
聞こえよがしにものを言う杏子ちゃんに滝野が困ったふうに笑う。こちらも相手をあだ名呼びだった。
今朝のたった数時間でふたりはずいぶんと仲良くなったらしい。
(私は『柊さん』呼びの時代長かったんだけどなー……じゃなくて!)
ふいに浮かんだ感想をぶんぶん左右に首を振って追い散らす。
教えるのは別に構わないけどまたぞろ滝野が一言足りない。いい加減その事後承諾をやめろと文句が喉まで出かかって、
「でも私、今日のももくりさんの営業も手伝うつもりですよ?」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
杏子ちゃんの宣言で引っこんだ。
代わりに私と滝野と星月さんの声がぴたりと調和する。
「接客と調理のワンオペは大変だって朝言ってましたよね。ホールなら普段からやってますしお手伝いします。レジも打てます」
「いやいやいやいや……さっきも言うたけど、杏ちゃんまだ中三やろ? 満十五歳。アタシが雇って働かせたら労基法違反や。家業ならともかく」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。お賃金と拘束さえなければ基準法さんは適用外です」
慣れたようにしれっと返す彼女。つまり無償のボランティア活動として店に立てばOKらしい。何やら大きなシノギのにおいを感じさせる現行法である。
「せやけどなー、うーん……さすがに家族でもない中学生をタダで店番に立たせるんは……」
しかめっ面で口をへの字にする滝野からようやく身体を離し、杏子ちゃんががばっとお辞儀した。
「お願いします! 私、師匠の仕事ぶりを見て学びたいんです!」
深く頭を下げる杏子ちゃん。腰を折りすぎて柔軟体操みたいな見た目になっているけれど、本人はいたって真面目である。妙なところで体育会系だ。
「……うし、わかった! 今日からしばらく接客は杏ちゃんに任せる!」
「やったあ! 師匠大好き!」
「待てい」
満面の笑みで滝野に抱きつきかけた彼女の肩をわし掴む。
杏子ちゃんは死ぬほど鬱陶しそうな目でこちらに振り向いた。
「なんですか? 私、今師匠の胸の感触で忙しいです」
「そんなに胸が恋しけりゃ冷蔵庫の鶏肉でも揉んでなさいな。……ヒツジヤに空く穴はどうするのさ? 杏子ちゃん、ホールとキッチンの両方を手伝ってるんでしょう?」
「ああ、それなら問題ありません。どうせ暇だし、助っ人もいるし」
私の背に立つ星月さんにアイコンタクトを送る杏子ちゃん。どういうことかと怪訝に思うとドアベルの音が再び響いた。
「おはようございまーす。あれ、マスターと……仕入れの人ですか?」
初めて聞く声音に振り返る。
開店前の店に入ってきたのは短髪の若い男だった。
厚手のスタンドニットにチノパンを合わせたカジュアルな格好で、滝野よりさらに上背がある。彫りが深く精悍な面立ちは鮫に似た重圧をまとっていた。
店内を見回す鋭い三白眼に私が物怖じしていると、星月さんが前に進み出る。
「おはようございます、
「マスターが怪我してる間はまあ。こちらの方たちは?」
「千葉でたい焼き屋を営んでいる『一丁焼きももくり』さんです。そちらのきれいな女性は私の古い知り合いの栗須滝野さん。こちらの可愛い子はお店を手伝ってもらう柊桃さんです。桃さんには年明けまでうちの店でたい焼きを焼いてもらいます」
星月さんから紹介を受けて私たちはそれぞれ会釈した。
「アルバイトの幹です。帳簿以外はひと通りやらせてもらってます」
ハスキーだけれどよく通る声質で幹さんが挨拶を返す。ぴしっとした敬礼からは真面目で武骨な気風が感じられた。むっつりとした口調と強面の顔は一見不機嫌そうだけど、別段怒っているわけではなく元々そういうキャラなのだろう。
簡潔に自己紹介を終えた幹さんを杏子ちゃんがからかう。
「ミッキーは雰囲気ヤクザですけど中身はただの朴念仁なので。おっきい犬みたいなもんですから安心して接してくださいね」
「お嬢、今日はご機嫌っすね。新しい推しでも見つけましたか」
「そんなんじゃないし! セクハラやめろやダメ大学生!……あっそうそう。私今日お店休むからミッキーはお母さんと頑張ってね」
「は?」
「ささ、行きましょう師匠」
ぽかんとする幹さんを置いてけぼりに彼女は滝野の腕を取る。
「わかったわかった。桃、また後でなー」と半笑いで言い残して、滝野は引き摺られるようにして杏子ちゃんと一緒にヒツジヤを出た。
「……マスター。あいつ、受験大丈夫なんですかね」
「うーん……」
幸せそうに笑う窓外の杏子ちゃんに眉を曇らせるふたり。
なんとなく高二の私まで居心地の悪さを覚えていると、星月さんがギプスをぽんと叩いた。
「そろそろ寝かせた生地ができます。桃さん、開店する前に一枚焼いて試食してみましょう」
「あ、了解です」
仕込みの次は焼き方についても教えてもらわなければならない。
私と星月さんは連れ立ってカウンター奥の厨房に戻る。幹さんは適当に他の用意をすると言ってホールに残った。
冷蔵庫からたい焼きの生地が入ったステンレスボウルを取り出す。ラップを張ったボウルの内側でクリーム色の生地が波打った。
くりすや時代の名残があるかもとしれないと滝野は話していたが、星月さんの生地の仕込みに際立った創意工夫はなかった。材料も一般的に普及している北海道産の薄力粉で、もち粉等は使用していない。牛乳・卵も不使用である。
ももくりとの差異は氷で冷やした水で粉を溶いたくらいだった。生地を寝かせたり氷水を使うとグルテンの力が弱まる。より軽くパリッとした食感を求める際に用いる手法である。
「なんだか上品な味のたい焼きになりそうですね、星月さん」
ボウルに続いてバッターを出す。ヒツジヤの餡は赤みが少ない。立った豆粒は生豆に近い藤柴色に艶めいている。
「あら、そうでしょうか? 豆の渋切りは最低限に留めていますけど」
「でも練りが短いし、それぞれの材料のチョイスにもクセがないです。足し算じゃなくて引き算というか……腕がそのまんま反映されそう。正直、私がきちんと味を引き出せるかちょっと怖いです」
エリモショウズ、白ザラ、道産粉。込み入ったブレンドは一切なし。洗練されたスタンダードと呼べる素材を頭の中で並べる。
生地といい、ヒツジヤはきわめてシンプルなたい焼きを指向している。無論研究の末に辿り着いたレシピではあるのだろうけれども、あからさまな凝り性が窺えるくりすやのそれとは対照的だ。
「桃さんの予想通りになるか、焼いてみてからのお楽しみですね」
不安混じりの私の予想に星月さんが目を柔らかくした。
厨房からカウンターにたい焼きの材料一式を運び出す。
「朝から気になってたんですけど、ここの火床って炭火焼きなんですね」
火床はホールに背を向ける形でカウンター内に設置されていた。焼く姿をお客さんが見られる点を大切にしているとのこと。このあたりは移動販売のももくりと変わらない考えだった。
口に入るものが目の前で調理されるさまは気分を高める。言ってしまえばパフォーマンスだけど、味だけが料理のすべてではない。
天井から降ってくる換気扇の駆動音が耳を満たす。熱を発する火床に目を落とすと、焼き網の下に敷き詰められた炭が煌々と赤く光っていた。
「遠赤外線の力を確かめるチャンスがマジで来るとは……」
「桃さん? 何か仰いましたか?」
星月さんがガシャンと片手でたい焼きの焼き型を火床に入れる。ももくりの物よりひと回り大きく、材質も違うようだった。持ち手は同じ鉄製のようだが、型の内部が金光りしている。鱗や尾の凹凸から覗く鈍い金色は真鍮だろうか。
「ちょっと色々思い出しただけです。それより、本当に星月さんが焼かれるんですか? 片腕じゃ無理ですよ」
「はい。材料を型に入れるときだけ桃さんのお手を貸してください。……桃さん、よく見ていてくださいね。必要なら録画してください」
一度きりの手本をよく観察するよう注意し、彼女が微笑む。
私はスマホを録画モードにし、シャツの胸ポケットに差しこんだ。代わりに出した軍手を手にはめる。これで手伝う準備も完了。
星月さんの指示に従い、予熱した型を手前に引き寄せる。
彼女は開いた型に刷毛で油をまぶし、お玉で生地を入れた。その分量の少なさに驚く。かなり薄い皮になりそうである。
ゆるめの餡が木杓子で器用に盛られ、上から生地をかぶせられる。被膜のように生地が餡を覆うのを確かめ、彼女は型を閉じた。
私は両手で焼き型をスコップのように持ち、火床に入れ直す。
「ありがとうございます、桃さん。何かご質問などありますか?」
「ええっと、そうですね……ヒツジヤさんは皮が控えめなんですね」
「これは個人的な考えですが。一丁焼きは皮の主張が強いと魅力が半減します。餡の味に色を添えるのが一丁焼きにおける皮の務めです」
「つまりは脇役ってことですか」
「とはいえ引き立て役も大事です。手を抜く理由にはなりえません」
彼女は片手で型を小刻みに動かし、火の当たりを調整する。引っくり返す間隔はおおまかに数えておよそ三十秒弱。右腕に籠る力が長袖の上からでもはっきり見て取れる。
三分ほどが過ぎたタイミングで再び私に指示が下った。
「桃さん、すみませんがもう一度型を手前にお願いします」
「了解です」
皮の焼け具合のチェックだろう。焼き型を火床から引っ張り出すと星月さんが手を掛けて開く。
浅黄色に固まる皮の上に、彼女はさらに生地を上がけした。
「へっ?」
お玉を持ち直した星月さんとたい焼きを交互に見比べる。
焼きかけのたい焼きの表面にとろんと広がっていく生の生地。
私がぎょっとしてる間に彼女は型を閉じて引っくり返した。そして再度開き、反対側の皮にも生地を塗ってまた閉じる。
「うちの餡は水分が多いので、薄い生地を重ねて焼きあげるんです」
「へえ……?」
滝野と会う前、私も一丁焼きについて調べたことがある。けど生地をミルフィーユのように重ねて焼く製法は初耳だった。星月さんが独自に編み出した皮の焼き方なのかもしれない。
改めて火をかけること三分、星月さんが焼きあがりを告げる。
私は焼き型を火床からおろし、中のたい焼きを取り出した。炎の塊を持っているかのような熱が軍手越しに伝わる。
「わあ……なんか綺麗ですね。和菓子っぽい」
「ふふっ。たい焼きは和菓子ですよ」
初めて手にした、くりすやではない一丁焼きをしげしげと見つめる。
ヒツジヤのたい焼きは心なし色白で端整な顔つきだった。色だけ見れば最中にも近いが、焦げついてパリパリになった縁は紛れもなく一丁焼きのそれだ。
焼きたての熱気と共に甘くて香ばしい芳香が花開く。それとなく星月さんを見やると、やはりにこにこ顔で促された。
「冷めないうちにぜひ。あ、でもお口の火傷にはお気をつけて」
「ありがとうございます。いただきます」
しかし冷めるまでは待たない以上、こちらとしても気をつけようがない。軽くたい焼きの頭をちぎって断面に息を吹きかけてみるが、もうもうと上がる湯気は勢いを留める気配すら見せない。
(……いや、何をためらってるんだ。たい焼きは焼きたてが一番だろ)
火床の前に立ったまま、意を決して熱々のたい焼きにかぶりつく。
じゅっと熱が、追って小麦と餡の優しい味が口内に広がる。
「あ」
ひとくち食べて両目を見開いた。
名状しがたい甘美な感覚が背筋をぞわりと走り抜ける。
おでこの裏がきゅんとして、目の奥でぱちぱちと光の粒が散る。
「おいひい」
無意識にそう口にしてしまった。
口にしてから、たった今自分の身に起きた出来事を理解した。
(――え?)
「桃さん? どうかされましたか?」
甘く澄んだ後味が吹き抜ける。
産毛が逆立ち、呼吸を忘れる。
「――――」
不審そうに尋ねる星月さんにも、燃えるような餡の熱さにも構わず、ひとくち、もうひとくちと食む。ただたい焼きに意識を注ぐ。
そのたび脳裏に、宝石を砕いて撒いたような光が舞い散る。
心臓が爆発しそうだった。
何かの間違いかとも思った。
星月さんが焼いた一丁焼き――くりすやのそれとはまるで異なるそのたい焼きを食べた私の目に。
きっと何物にも侵されない、不変の『それ』を求めた私の目に。
「……おい、しい」
たしかに、星の光が瞬いた。
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