作る人によって味は変わる?

 ヒツジヤ珈琲店の厨房はももくりの三倍は広かった。

 客席から見えないカウンタースペースの奥に広がる室内は、ホール側のシックな内装とは一転して無機質な配色だ。壁紙の白とステンレス台の銀色、そしてコンロの黒。余計な色を排した空間は自然とこちらの気を引き締める。

 明かり取りから覗いた空は薄青く、まだ朝陽も昇っていない。澄んだ早朝の空気は冷たく、煙るような水の匂いがした。


「それじゃあ始めましょうか。桃さん、どうぞよろしくお願いいたします」

「はい、よろしくお願いします」


 髪をアップにした星月さんと調理台の前でお辞儀しあう。教えを請うのは私なのに、彼女の腰の角度のほうが深い。負けじとこちらも九十度にしたら頭がぶつかりそうになった。

 業務用の冷蔵庫や調理器具の収納について案内を受けながら、私は本当にこれでいいのかなあ、と心中で呟く。

 私は今日から、ヒツジヤのたい焼きのレシピを学ぶことになっていた。



         **



 事は昨夜、滝野から星月さんへの提案に端を発する。


「代理ではなく、あくまでうちのお店の名義で出店する……ですか?」

「はい。で、秋さんの代わりにアタシらがヒツジヤの味を焼きます。お客さんだけやなく、アタシらにとってもそれがええと思うんです」


 言葉を失ったのは提案された星月さんだけではない。

 旅に出る前も出た後も、そんな話は一度たりとも聞いてない。ここに来て急に思いついたようにしか聞こえない発言だった。

 こちらの動揺を意にも介さず、滝野は説明を続行する。

 テーブルを挟んで話すふたりが遠い世界の住人に映った。


「お客さんが求めて来るのはうちやなくてヒツジヤのたい焼きでしょう? 同じ一丁焼きでも、アタシらとは餡も皮も違う製法の」

「そんなこと……いえ、それはたしかに滝ちゃんの言う通りです。けど」

「例年楽しみに来とる方々に閉店を告知するんですよね。この出店がヒツジヤの一丁焼きを食べる最後の機会になる。そういう人がぎょうさんおるはずです」

「……ええ、そうですね。遠方からいらっしゃってくださる方も多いです」

「そんならももくりやなくて、ヒツジヤの味を出すのがええと思うんです」


 ぽんと片手で自分の胸を叩き、滝野が切に訴えかける。


「完璧には無理でも、レシピがわかってれば近い味は作れます。秋さん本人から作り方をご教授願えればなおのことです。やから明日から来年の出店まで、アタシらに教えてください」

「ちょっと待て滝野」


 考えこむ星月さんと滝野の間にようやく割って入る。

 人情噺は結構だが私にも譲れない一線がある。すっと息を吸い、乾いた口内をざらつく舌で舐め、異を立てる。


「誰に許可取って話進めてるのさ。自分勝手すぎるでしょ」

「例えやけど、桃かて閉店前にくりすやが味変えてたら嫌やったやろ?」

「それは……そうだけど。焼くのは私でしょ。先に私に相談してよ」


 内輪で喧嘩が始まったからか星月さんが目を点にしている。構わず隣に座る滝野を睨みつけ、両目に力を籠める。


「ぬう、やっぱ桃的にはナシか?」

「当たり前でしょ。いや、人助けしたいってのは良いと思うけどね?」


 私がたい焼きを焼くのはくりすやの味を再現するためである。他店のレシピを学んだところで益する要素があるとは思えない。


(……ううん、違うか。私は、私が軽んじられたのがむかつくんだ)


 そう――何よりも気に食わないのは、そうした私の目標を十二分に理解している滝野が、なお星月さんとそのお客さんへの親切心を優先した点だ。

 私は滝野のその場その場の願望を叶える道具ではない。

 こちらの表情を汲み取ったのか、滝野がきまり悪そうに咳をする。


「こないだの文化祭ではくりすやにはない栗餡とか出してたやん。今でも出したい言うとったし」

「あれはついでだからいいんだよ。今回のそれとは話が別」


 栗餡はあくまで副武装、売上増進用のカンフル剤だ。メインのたい焼き自体を別物にする今回とはわけが違う。

 難色を示す私に対して、滝野はあえて軽い口調で言う。


「なに、これやって修行の一環や。桃はくりすや以外のたい焼きを多少は勉強したほうがええ」

「なんでよ」

「くりすやの味を作るにあたって、桃が今知りたいことはなんや?」


 要点を整理しろ、とでも言いたげな問いかけに心が立ち止まる。まっすぐこちらに向けられた滝野のまなざしは冷静で、棘はない。

 一旦気を鎮めて再考する。

 餡――お爺さん直伝の江津さんにレシピを教えてもらった。

 生地――ゆうひかりを使用するという点以外は不明瞭なまま。

 焼き――お爺さんが焼く姿を店の前で何度も目にしてきた。


「……粉の割合と、生地の仕込みの過程で何か工夫をしていないか」

「ん。現状、皮の製法は完全なブラックボックスやろ? くりすやでバイトしてた秋さんのアプローチがヒントになるかもしれん」

「ヒツジヤの味で出店するのを、その授業料として捉えろと?」

「そういう考え方もありやな。皮が完成したら餡もそれに合わせて微調整せなあかんし、そのへんの手際も盗んでいこう。覚えとらん言うても元店員や、名残くらいあると思うで」


 盗まれる当人に目配せする滝野。当惑する星月さん。


「それにな、味の組み立ては色々知っといたほうが後々ええねん。できることが増えればその分だけ目的の品に一歩近づく。それがどんなに回り道でもな」


 もっともらしいことを自信げに言い切られるとそんな気もしてくる。

 滝野の話術で揺らいできた脳内にとどめの追い打ちがかかった。


「ついでに付け加えるなら、ヒツジヤの看板で売ったほうが売れる。がっちり固定客が付いとるからな。桃の意向にも沿うやろ?」

「売上」


 今日の閑古鳥が、次いでキッチンカーの内装が脳裏をよぎる。

 改装費用の大半を負担した滝野の収支がプラスに傾くまで、あと何ヶ月かかるのか。

 そのために、私に何ができるのか――。


「なに、ほんの一週間と少しや」


 ぽんと頭に片手を乗せられる。

 私より大きくてゴツゴツした、滝野の不器用さが形になって表れたような力強い手。じんわり頭皮に伝わる感触に背筋から力が抜ける。


「くりすやを諦めるわけでもなし、そないに固くならんでもええやん? あれこれ試して無駄足も踏んで、いろんなやり方知っていこうや」


 ことさら柔らかい声音が響く。私は滝野のこれに弱かった。


「……わかったよ。別に、どうしても作りたくないってわけじゃないし」


 渋々といった感じで引き受けると髪の毛をくしゃくしゃにされた。相変わらず子ども扱いである。


「おおきにな、桃。……勝手に話進めてすみません、秋さん。それで、どうでしょうか?」


 私の頭から手を離して、滝野が星月さんに向き直る。

 そもそも彼女が首を縦に振らなければこの話はおじゃんである。あちらからすればいささか断りづらい空気が生まれている気がするが、滝野は気にするそぶりもない。狙ってやったのなら策士だろう。

 星月さんはなぜか滝野でなく私のほうをじっと見つめてから、得心したように、あるいは何かを飲みこむように頷いた。


「わかりました。こちらこそ明日からよろしくお願いいたします。けど、ひとつだけ」

「なんですか?」

「くりすやの……味作り? については、おそらく参考にはなりませんよ?」



         **



 ボウル一杯の水に浸った小豆を丹念に見定めている。


「大抵は大丈夫ですけど、中には向いてない豆もありますから」


 星月さんが白い指を伸ばし、ひょいひょいと数粒をつまみ出した。ほら、と彼女が手のひらに乗せたそれらを至近距離で覗きこむ。わずかに表皮がよれていたり、うまく水を吸えずに張りきっていない。その目の良さと基準の厳しさに私は内心で舌を巻いた。

 割れていたり色や形が揃っていない豆を除くのは当然だ。けど、星月さんの選別はより高い次元でなされている。おそらく生産段階では生じてない、管理や移動によって起こる微妙な表皮の変質を的確に見抜き、質を高めている。


(でも、過度に神経質な気もする……豆の品種はエリモショウズだっけ。ノーブランドでもない国産だし、業者さんの選別も経てるよね)


 実際、今しがた弾いた豆もごくごく少ない数である。全体の味に影響を及ぼす差異になるとは考えられない。滝野と店で餡を仕込むときもここまでの選別はしなかった。

 小豆をサワリに移してからも星月さんの姿勢は変わらない。

 コンロにかけたサワリを注視し、頃合いを見て調理台の匙を取る。


「――うん。桃さん、この渋みを覚えてください。タンニンの味です」


 煮汁を味見した彼女が別の匙を私の手に押しつけてくる。

 言われるがままに匙にすくわれた紅茶色の汁を口に含むと、透き通ったえぐみ(?)としか形容しようのない雑味が広がった。抽出されたアクの純度の高さに一瞬味蕾が混乱する。


「結構好きな人も多いんですけど、桃さんはいかがですか?」

「えーっと……すみません、少し苦手です。薄いコーヒーみたいで。でも香りはすごくいい」

「ふふっ。この銘柄の小豆は皮が薄くて香り高いんですよ。さ、渋を切ってください。風味が飛びがちなので、迅速に」

「わかりました」


 たおやかに微笑む星月さんの指示に従って煮汁を捨てる。彼女が手を負傷している今、私は文字通り片腕となって働くことを求められている。

 サワリに新しい水を注ぎながら日々の仕込みとの差異を思う。


(くりすやの……ももくりの餡の渋切りよりも時間が短い。豆の種類も違うし、本当にくりすやとは別の味になるんだ)


 職人が百人いれば百通りの手法があるのが餡なのよ――初めて餡を作った日、江津さんがそんな格言を口にしていた。渋味と旨味は裏表で、渋切りはそのトレードオフだとも。

 ヒツジヤは多少アクが残っても豆の旨味を立てる指針らしい。

 流通する小豆の品質が昔より高水準だからこその、現代的なスタイルの製餡。くりすやのそれと異なるやり方。


「星月さん、水の量はこのくらいでいいですか?」

「はい、お上手です」


 雑念を断つように水栓を締める。蛇口からしたたる滴がサワリの水面に波紋を作った。

 サワリを強火にかけ、沸騰したのを確認してとろ火まで落とす。

 私が火力を調整している間に星月さんは収納からお玉とステンレスのビーカーを取り出し、煮熟の準備をしていた。


「さて、ここから本煮込みです。煮る時間は一時間ほどですが豆のご機嫌でやや前後します。差し水とアク取りは私がやるので桃さんは見ていてくださいね」


 言うなり星月さんは煮え立ったサワリにすいと顔を近づけた。顔面に湯気をかぶりながら湯の中で茹る小豆を見つめている。熱意を通り越して執念めいたものを感じさせる仕草だった。

 浮いてくる細かい泡を丁寧にお玉ですくい、水を差す彼女。

 その、平時と一転したあまりに真剣な横顔に見入りかける。


「ここで見聞きしたこと、あの子には内緒ですからね」


 唇に立てた指を当て、星月さんがお茶目にウインクなどする。こちらに話しかけているのに視線はサワリに固定したままである。

 激昂する杏子ちゃんの姿が脳に鮮明に呼び起こされる。


「どうして教えてあげないんですか?」


 矢も楯もたまらずに訊いていた。

 星月さんが横目でこちらを見て、すぐに目線をサワリに戻す。

 よそ様の家庭の事情に踏み入る不躾は承知の上だった。けど、私は確かめたかったのだ。彼女が娘への意地悪でレシピを教えないわけではないのだと。

 彼女は、ちゃんと良い人なのだと。


「たぶん桃さんにとって、あまり気分の良い話ではありませんよ」

「構いません」

「わかりました。ひとつは、今のあの子にとってうちのたい焼きは一番ではないから。もうひとつは、単に無駄だからです」

「無駄……って」

「あの子は私とたい焼きを焼きたいと思っています。そんなことは決してできません。あの子は私じゃないんですから」


 心臓を鷲掴みされたようだった。

 星月さんはこちらを向かない。教科書でも音読しているかのような口ぶりで訥々と語る。


「作り手が違えば味も変わる。ごくごく当たり前のお話です。シンプルな品であればあるほどにその違いはいっそう際立ちます。同じ手順を踏んでも、完全な同一品はけして生まれません」

「……つまり、どうせできないから、と断っているんですか」

「星に手を伸ばすようなものです。そんな行為に意味はありません。あの子には、もっと大事にしなければいけないものがたくさんあるのに」


 そう呟いて彼女は目を伏せた。サワリの水面に浮きあがってくる泡をすくい、シンクに打ち捨てる。ひとしきりお玉が水面を撫でた後の煮汁は赤く澄んでいた。


「なら、どうして滝野の提案を……味を教えるのを呑んだんですか。私が焼いても星月さんと同じ味作りは無理なんですよね」


 いちいち食ってかかった言い方を選んでしまう自分が嫌になる。滝野のような大人なら自身の感情を制御できるのだろうか。


「こうして私が主導で仕込めばほぼヒツジヤの味になるからです。最終的には桃さんが焼く以上多少のズレは生じますけど、それは致し方ありません」


 ビーカーの水を静かに注ぎ、やっと彼女がサワリから目を外す。

 向けられた顔に表情はない。ただ口元だけが外付けの部品みたいに円弧を描いている。


「お客様にはたい焼きで満足して頂きます。……嫌な言い方になってしまって甚だ申し訳なく思います。手伝ってくださる桃さんには、本当に感謝しているんですよ」


 ひとつ小さく頭を下げてから、星月さんがにっこりと笑う。

 その厚ぼったい笑顔を見たとき、頭の奥で何かが弾けた。


「……なら、私がヒツジヤさんの味を作れれば話は変わりますか」

「……んー?」


 ――すました顔して、ずいぶんと言ってくれるじゃないか、と思った。

 私の願いがくりすやの再現なのは、もう理解してるだろうに。


「別の人間でもまったく同じ味を作れるって証明したら、無駄じゃないって認めてくれますか。意味はあるって言ってくれますか」


 自ずと声のトーンが低くなる。息巻く私を、星月さんの見透かすような瞳が射抜いていた。

 肺に深く酸素を取り入れ、ためらいそうになる唇を開く。

 昨晩、こんな店潰れればいいと叫んだ瞬間の杏子ちゃんは、


「杏子ちゃんにも、ヒツジヤの一丁焼きを教えてあげてくれますか」


 たしかに、泣き出しそうに見えたのだ。

 溜まった雨露が落ちる寸前の花びらのような姿だった。

 その表情が、震える瞳孔が、目蓋の裏に焼きついて離れない。


「……ええ。桃さんがうちの味を作れたら、私は間違いを認めます」


 星月さんが右手に持っていたビーカーを調理台に戻した。代わりに先刻渋切りの際に使ったのとは別の匙を出す。サワリから泡をひとすくいし、口に入れてうんうん頷いている。

 そしてまた別の匙で泡を取り、今度はこちらへと突き出してきた。


「いかがでしょう? サポニンの味です」

「えっと、これも味を覚えたほうがいいんですか?」

「いいえ。これはお詫びの印です」


 すまなさそうに眉を下げて私の顔から目を逸らす星月さん。


「先ほどは本当に意地の悪い言い方をしてしまいました。桃さんの気持ちを踏みにじるようなことを言ってしまい、ごめんなさい。ですので、お詫びと言ってはなんですが」


 その敵意のなさ、罪悪感を湛える顔つきに毒気を抜かれる。

 頭が冷えてくると、途端にさっきの自分の態度が鼻についた。


「……あの、こちらこそごめんなさい。いきなりガンガン突っかかっちゃって」

「いえいえ、煽ったのは私ですし」

「ところでこれ、おいしいんですか?」

「タンニンよりさらにヘルシーですよ。漢方薬にも使われています」


 さあさあと笑顔で勧めてくる。微妙にズレた回答が気になった。しかしお詫びの印とまで言われたものを拒絶するのも気が引ける。

 受け取った匙を口にくわえる。瞬間、眉間に力が入った。


「え、えぐっ。なんですかこれ、さっきの渋よりもひどいですよ」

「良薬は口に苦しです。江戸時代には洗剤としても利用されていた泡なんですよ」

「ぶっ!」

「ふふっ」


 噴き出した私を見て星月さんはくすくすと笑っていた。

 ひょっとしてこの人、単に思いっきり悪い人なんじゃないだろうか――舌に残る後味の厳しさに、私は目をつぶり宙を仰いだ。

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