サックスケースと夜を裂くバット
すっかり夜が更けた頃のこと。
滝野につられてコーラを飲んで寝袋に入った私は無事もよおした。
(明日からは寝る前になんか飲むのは控えよ……って小学生か……?)
凍らせた針のような夜気がトラックから出た私の肌を刺す。強烈な寒さを浴びて全身の筋肉がぶるりと震え立った。
観音開きの扉を静かに閉め、ヒツジヤのほうに向き直る。
踏み出そうとした足を止めたのは聞き慣れない風切り音だった。
「……?」
音はトラックの車体を挟んだ反対側から薄く聞こえる。
私は車体に沿って歩を進め、フロント側から顔を覗かせた。
「あれ、滝……」
いつものように名前を呼びかけた自分の声が唐突に詰まる。
ぶうん、と唸るような低い音は鳴り止むことなく響き続ける。
滝野は見たこともない面持ちで金属バットを振っていた。この極寒の中シャツ一枚で額に汗を浮かべている。コンパクトに肘を畳んだスイングはさながら鞭のように鋭い。素人目に見ても中高年の草野球レベルのそれではない。
眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、黙々と反復をこなす滝野。
鬼気迫る表情で素振りをする彼女はこちらに気付いていない。
「……」
今、声を掛けるのはためらわれた。
トイレから戻ってきても素振りを続けていたら止めようと決める。日課なのかしれないけど、過度な運動は明日の仕事に差し障る。
歯の根が合わなくなりそうな夜の駐車場を急ぎ足で進む。
客席から舞台袖を覗いたような気まずさが尾を引いている。けど、尿意の前ではすべて些事だ。膀胱は私を待ってくれない。
音を立てないようにヒツジヤの戸を開けて店内に忍びこんだ。完全に泥棒のムーブである。通報されたらおそらくアウトだ。
かすかにドアベルが鳴ってしまった。しかしこれはもう避けようがない。
スマホのライトを頼りに真っ暗な店の中を歩いていく。
先刻星月さんに案内されたお手洗いのドアノブに手をかけると、ここは通さんぞ! と言わんばかりの固い手応えが返ってきた。
「ええ……」
トイレのドアは施錠されていた。ショックで情けない声が漏れる。
まさかと思って耳を澄ませるも、誰かが入っている気配はない。
おそらく店の戸締りにお手洗い等も含まれているのだろう。最近はトイレの小窓から侵入する悪漢も多いと聞くし、夜間は外側から施錠する店も存在する――というか目の前にある。うちの高校も吹部の居残り勢が鍵を任されていたような。
「さっき案内されたばかりなのに……うう」
クリームみたいに柔らかかった星月さんの笑みを思い浮かべる。そこまで抜けているとも思えないけど、ゆるふわっぽいキャラではあった。
わざわざ起こしてお手洗いの鍵を貸してもらうのも忍びなかった。
私は丹田をきゅっと引き締め、別のおトイレを探すことにする。
「一階には、他に……ないよね」
ぐるりとお店を一周して得た悲しい結論に肩を落とす。
行き場もなく視線を泳がせると、二階への階段が目に入った。
(……行くしかないのか)
そろりそろりと足音を忍ばせて壁沿いの段差を上っていく。
階段を上がりきった二階には長く続く廊下が伸びていた。つるりとしたフローリングの床は一般的な家屋と相違ない。右手側の壁にいくつか設置されたドアが部屋の入口だろう。
どれがトイレに続く道なのは雰囲気で判断するしかない。覚悟の一歩を踏み切ったとき、真ん中あたりにあるドアが開いた。
室内から漏れ出る薄明かりに押されるように人影が出てくる。
影は身体の向きをこちらに変え、硬直する私と正対した。
「あれ、おかーさ……?」
「……」
ぽかんとした顔で私を仰ぐ、パジャマ姿の小さな女の子。
私の胸元程度の背丈を見るに歳は小学三~四年か。
黙ってしまった彼女と私の間に緊張が膨れあがる。とりあえず笑ってごまかそうと口端をぎこちなく吊り上げると、入れ替わるように女の子の顔が見る見る恐怖の色に包まれた。やばい。
爆発寸前の空気を破ったのはもうひとつの人影だった。
「
女の子に続いて部屋からひょっこりと杏子ちゃんが顔を出した。詩織と呼ばれた女の子は彼女の腰にぴったりとしがみつく。
「よしよし、大丈夫だでね~。……柊さん、ここで何してるんですか?」
詩織ちゃんの頭を撫でながら彼女は訝しげにこちらを見る。
「実はその、かくかくしかじかで――」
「ちょっと待ってください、詩織のトイレに付き添うので。……詩織、この人はお姉ちゃんのお友達だがや。心配いらんよ」
にっこり笑う彼女と私を品定めするように見比べた後、詩織ちゃんは渋々といった感じで頷き、杏子ちゃんの手を取る。
トイレのドアは突き当たりの手前だった。
三人連れ立って移動し、詩織ちゃんが入るのを確認してから私は改めて切り出す。
「えっと、じゃあ、まるまるうしうしで――」
「なんですかそれ?」
私は事ここに至るまでの一連の流れ――具体的にはお店の駐車場を借りたこととトイレを借りようとしたこと、一階のトイレの鍵が締まっててつい二階に来てしまったこと――をかいつまんで説明した。
「あー、ごめんなさい。下のトイレの鍵はさっき私がかけました……」
「え? そうなの?」
杏子ちゃんは気まずそうに視線を逸らして襟足を指でいじる。
「見ての通りなんですけど、うちのお母さんって少し抜けてるんです。だからたまにお店の戸締りができてるか私が見て回ってて。今夜もまた忘れてるなーって、まさかわざと開けてるとは思わず」
つまり単なる連絡不足だった。顔を見合わせて苦笑していると詩織ちゃんがトイレから出てくる。私は先ほどよりいくぶん自然な笑顔を作れたと思うけど、詩織ちゃんはにべもなく姉の手を引いて早足で部屋に帰った。
しょんぼりしながら空いたトイレで用を足し、ひとまず事なきを得る。
すっきりした心持ちで出ると外で杏子ちゃんが待っていた。
壁に背を預け、絡ませるように自分の足を交差させている。片腕を抱いた立ち姿はガラス細工めいた儚さをまとっていた。
「あれ、杏子ちゃんもトイレ?」
「違います!」
「そっか。貸してくれてありがとうね。さっきのは妹さん?」
「はい、あと下に二人います」
彼女を合わせれば四人きょうだい。思いの外大所帯で驚く。
「下の子三人かあ。大変でしょ」
「いえ、全然。楽しいですよ」
ゆっくり首を横に振る彼女の微笑は慈しみを湛えている。
今しがた妹をあやしていた姿もまさしく『お姉ちゃん』だった。勝手に抱いていた末っ子じみたイメージは撤回しなければ。
「あの」
絡めていた足をほどき、杏子ちゃんが壁に寄りかかるのを止めた。
つられて私も居住まいを正す。また一丁焼きの話だろうか。
二本の足で立った彼女が、意を決したように顎を上げて問う。
「柊さんと栗須さんは、その、どのようなご関係なのでしょうか?」
「……はい?」
質問の意味が不明瞭だった。自ずから首が斜めに傾く。
「不躾な質問でごめんなさい。でも、どうしても訊いておきたくて」
私の目をまっすぐ見つめる彼女の面持ちは真剣そのものだ。暗くてよく見えないが、そこはかとなく紅潮しているふうでもある。
(あー、何この、何……?)
猛烈に面倒臭くなる予感に駆られてどこかに逃げたくなる。私は昨年ファミレスでやった文化祭の打ち上げを思い出した。記憶の中で図書委員の女子たちの黄色い嬌声があがる。「柊さんのお師匠さんカッコいいよねー!」「テレビで見たことあるかもー!」「宝塚ー!」……エマといい、あいつのどこがいたいけな少女の心をくすぐるのか。見た目だ。一方男子はストローの袋で芋虫を作って遊んでいた。
回想を止めて現実を見る。杏子ちゃんの顔は本気のままだ。
適当にかわそうかと思ったけど、一宿一飯の恩義もある。
(誠実に答えよう……とは言っても、深く考えたことなかったな)
私にとって栗須滝野とは果たしてどのような存在なのか。
家族ではない。
友達なのかもしれない。
恋人だけはありえない。
メトロノームみたいに左右に首を捻った末に声を絞り出す。
「仕事仲間……かなあ……?」
自信のじの字も感じられない疑問形の回答である。消去法で出した答えに対し、彼女は不満げな様子だった。
「恋仲ではないんですか?」
「そうだねえ」
「実はご姉妹とかでもないんですね」
「ないない」
「……裏をかいて母娘だったり」
「ないってば」
流れで出たのだろう冗談に対して妙に強い声が出た。
杏子ちゃんは一瞬目を丸くしてから、すぐに眉をハの字にした。おそらく私自身も似たような表情になっていたことだろう。
「すっすみません。変なこと言って」
「や、今のは喉に息が詰まって……っていうか母娘じゃ歳近すぎでしょ! 滝野は何歳のときに私を産んだことになるのさ、もー!」
「で、ですよね! あはは……」
十秒遅れのツッコミによって生じた笑いはぎくしゃくしていた。静寂が訪れると共に杏子ちゃんはちょっぴりしゅんとしてしまう。
トチったな、と罪悪感が湧く。恋だのなんだの艶っぽい話をするムードではなくなってしまった。むしろ通夜っぽい。長話を切り上げるべき機運を感じる。
「それじゃ私はこのへんにするね。長居してごめん、トイレありがとう」
「あ、玄関まで送ります」
「いいっていいって」
廊下を歩きながら押し問答、どうにかお見送りを辞退する。杏子ちゃんたちが出てきた子ども部屋の前で解散とあいなった。
互いにおやすみなさいと挨拶を交わし、杏子ちゃんがドアを開く。
部屋をうっすら照らす常夜灯の橙が廊下まで伸びてくる。
「……あ」
彼女の背後、扉の隙間から懐かしいものが視界に留まった。
「どうしたんですか?」
奥で弟妹も寝ているからか、彼女の声量が一段下がる。
「ああ、ごめん部屋の中覗いちゃって。杏子ちゃん吹奏楽やってるの?」
「え? どうしてわかるんですか?」
「あれ楽器ケースでしょ?」
学習机の脇に置かれた、黒々としたその箱を指差す。
旅行鞄にも似た直方体のハードケースの側面部には、メーカー名が記された角印のようなロゴが縫いつけられていた。
「昔友達が同じメーカーのやつ使ってたから。好きなんだ?」
「はい?」
「吹奏楽」
「……はい」
彼女がこっくりと頷くまでに、瞬きほどの小さな間が空いた。
**
駐車場に戻ると滝野の姿はトラックの前から消えていた。
運転席で眠ってるはずだが、フロントガラスも窓も防犯・断熱用のシェードで塞がれている。
「おやすみ」
届くことのない挨拶を告げて、私は自身の寝床に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます