高校2年・冬
新たな日常と彼女の背中
――ひどく、懐かしい夢を見た。
「痛い……」
眠りから覚めたばかりの眉間を刺すような頭痛が走り抜ける。ベッドに仰向けのまま暗い天井を仰ぎ見て顔をしかめた。
枕元のスマホで時刻を確認する。ゼロがひとつ、五がみっつ。もうじき起きる時間だった。アラームを切って上体を引き起こす。
洗面の前に、机の一番下の引き出しから薬を出した。
水なしで三種三錠をひと息に飲み、軽く頭を振る。
「よし」
ぱん、と両手で自分の頬を張る。
頭の痛みも夢の内容もそこですっぱりと霧散した。
寝間着から仕事着であるバンドカラーの白いシャツジャケットに着替え、階下のリビングに降りると鼻先を香ばしい匂いがくすぐった。
まだ陽が出ていない窓の外には藍染の空が広がっている。対照的に暖房の効いた室内は電灯で既に明るい。ひと足先に夜を抜けて、朝の訪れを感じさせる空間。
「おはようさん、桃。なんや今朝は目が死んどるなあ。変な夢でも見たんか?」
「おはよ、滝野。まあそんなとこだけど、朝ご飯食べたらたぶんよくなる」
キッチンから顔を出した滝野が私の返事を聞いて苦笑する。着用中の猫の模様をあしらったエプロンは本人の趣味だ。普段のカッコいい系のファッションとは全然違う雰囲気だけど、背が高く目元の涼やかな彼女が着るとかえって愛嬌がある。ギャップ萌えというやつかもしれない。あるいは美人は何着ても似合う。
キッチンに入り、ほぼできあがっている朝食の配膳を手伝う。ご飯と味噌汁は私がよそり、おかずは滝野が盛りつける。いつの間にか定着した担当分けだけど納得はしていない。曰く「桃には盛りつけの美的センスが絶望的にない」。失敬な。
茶碗とお皿、箸をテーブルに並べ終えたので先に席につく。
ほどなくエプロンを脱いだ滝野が向かいに座り、手のひらを合わせる。
「いただきます!」
「いただきます」
滝野にならい私も一礼。食前食後の大仰な挨拶の声にもすっかり慣れた。
「そういえば滝野、昨日ツイッターのフォロワー数ちょっと増えたよ」
「おっ。今何人やったっけ?」
「三十人」
「……多いんか少ないんかわからんな」
「開店したての郊外の店でフォロワー三十は多いほうだよ。今のところ土日しか営業してないけどお客も入ってるし」
「認知度的には悪くないんかな。……気にしてもしゃあないか。地道にやろう」
ひとり納得したふうに頷いてパリポリたくあんをかじる滝野。
小気味良い咀嚼音を聞きながら私は味噌汁に口をつける。今朝は赤だしのなめこ汁だった。アサリの次に好みの実である。
(……おいしい。うちにある材料でどうやったらこんなにできるんだろう)
出汁をとる技術に長けているのか、滝野の味噌汁には雑味がない。なおかつ鰹と昆布の味は深く、どっしりと存在感がある。ひとくち飲むたびに澄んだ旨味が膨らんで全身に沁み渡る。同じ食材を使っても私には到底出せない味だった。
味噌汁をすすりつつ上目でちらちらと滝野の顔を覗き見る。
こちらの視線に気付いた滝野はメザシに伸ばしかけた箸を止めた。
「美容の秘訣でも知りたいんか? ストレス溜めないのが一番やで」
「肌を観察してたわけじゃないよ……滝野って変に料理上手いから、どこかで習ったりしたのかなって」
「変にとはなんや。昔っから作る機会が多かっただけよ」
「ふーん。あ、今日の卵焼きおいしい。なんかすごいなめらかな感じ」
「ちょいと出汁巻き風にしてみたんやけど口に合ったならよかったわ。たまには趣向を変えるのもええかなと。レギュラー入りもありかな?」
「ありあり」
こくこく首を縦に振ってみせる。嬉しそうにはにかんだ滝野はご機嫌な様子でメザシをかじった。こういう瞬間の彼女はやはりいつもより幼げに映る。
「……」
私と朝食を囲む眼前の女性を改めて眺めてみる。
職業、年齢、家族構成、住所、経歴、社会的身分。
出会ってから三ヶ月ほどが経ち、呼び捨てあう仲となった今なお、私はこうした彼女の基本的な情報をまだよく知らない。代わりに料理がやたら上手いとか、意外と可愛い物が好きだとか、何かと距離感が近く気を抜くとベタベタまとわりついてくるとか。力持ちだとか、関西弁なのに埼玉の球団を応援……これはどうでもいいか。
私は滝野のことを知らない。
滝野のことを何も知らないまま、趣味や人柄の部分についてばかりどんどん詳しくなっていく。
ただひとつ知っている、彼女の個人情報らしい情報は――
「……桃、どないしたん? ホンマに熱でもあるん?」
「ふぇっ!?」
意識の空隙を突いた彼女の行動に奇声をあげてしまう。
ぼーっとしていた私に向かって滝野が身を乗り出してきたのだ。猫のようににゅうっと首を伸ばしこちらの顔を覗きこんでくる。止める暇もなくおでことおでこが隙間なくぴったりとくっついた。
ひやっと冷たい滝野の温度がおでこを通して伝わってくる。
香水かトリートメントか、ミントの香りがぞくりと背筋を撫ぜる。
色素の薄い瞳が星を撒いたかのようにきらきら光っている。
「熱はあらへんけど顔赤いなあ。今日は様子見て営業休むか?」
「近い近い! あとアップで見ると滝野の肌はそんなに若くはない!」
「えっ」
ショックを受けて固まる滝野から椅子ごと身体を引いて離れる。実際、肌年齢なぞ観察している余裕はまったくなかった。「ごめん滝野、今のは口から出任せ」「……」「……おーい、滝野さんやーい」「……ホンマ?」「ホンマホンマ。ホンマすぎてブラックジャック先生も匙を投げるレベル」「褒めとるんかそれ……?」むしろ落ちこむその表情こそが老けこんで見える、とまでは言わない。
滝野は眉をハの字にして今度は叱られた犬みたいになっていたが、やがて気合を入れ直すようにメザシの残りを口に運んだ。もきゅもきゅ白飯と共に咀嚼し、はらりとサイドに垂れていた髪を鬱陶しそうに耳にかけ直す。枝毛ひとつないストレートヘアが照明に透けて赤くきらめいた。
(ま、いいか)
滝野のあれこれに興味はある。けど、知らなくて困ることもない。
いまいち素性のはっきりとしない気さくできれいなたい焼き
踏みこむのが怖い、わけではない。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて再び一礼。
朝食を終えて手早く皿洗いまで済ませる。これで六時半。
開店時刻の午前十時まで時間は転がるように過ぎていく。暖房を消してリビングから廊下に出ると寒さで身がすくんだ。冬の朝特有の冷気である。
「ほな、今日も仕込みはじめよか。今週のたい焼きはどんな感じやろなあ」
「あんまり期待しすぎないでよね。まだ生地の材料わかってないんだから」
軽口を叩きながらお店のトラックを停めたガレージに向かう。仕込みは保健所の許可を取ったキッチンカーの中で行うのだ。滝野曰く千葉県では別に自宅で仕込んでもいいらしいけれど、車内での作業に慣れておくに越したことはない。雰囲気も出るし。
軽い足取りで先を行く滝野のひとつ結びを目で追いかける。
ぴょこぴょこ不規則に揺れる髪の穂先は見ていて不思議と飽きない。こんなところも動物みたいだ。
「……っと」
小声で呟き立ち止まる。スマホを二階の自室に置き忘れた。
営業告知と品切れ終了のツイートは私の仕事である。一瞬迷い、玄関で靴を履いている滝野には声をかけない。たいした用件でもないしわざわざ呼び止めるのも悪い気がした。
一足飛びで階段を駆け上がり、ぐるりと部屋の中を見回す。
スマホは机の上に移動していた。ひっ掴んで再度一階へ。
大急ぎで戻ってきた玄関には既に誰もいなかった。慌てて戸を開けて外へと出る。
「行ってきますっと。って、あ……」
まださほど距離は遠のいていない。薄暗くて冷たい景色の中、ひとりガレージに歩いていく滝野の背中を見つけて、声が漏れる。
滝野という人について、私が知っていることがもうひとつあった。
ひとりで居る瞬間、ふいに見せる後ろ姿がものすごく寂しい。
サワリの前に立ち、軍手をはめて、紺のバンダナで髪をまとめる。
一丁焼きももくり、開店から三週目の一日が始まる。
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