大切なものに手を伸ばす勇気

 私の手首がある程度回復し、栗須さんと再交代するまでに都合二十分を要した。

 美傘文庫のたい焼き屋がくりすやの焼き型を使用している。その事実に気付くお客さんはそれからも数人ばかり現れた。あるいは午前中にもいたのかもしれない。訊いてこなかっただけで。

 性別も年代も多種多様な彼ら彼女らに対して私は、大人買いの少女にそうしたように「好きだから」だと答え続けた。言葉足らずの回答だけど、誰もが得心して帰っていった。

 時おり江津さんが耐えられなくなったように身体を震わせる。

 そのたび背後から「しゃきっとせい」と栗須さんのデコピンが飛んでくる。江津さんは背に指を受けるたび妙に艶っぽい声をあげた。どうでもいいけどおでこ以外へのデコピンってなんて呼ぶのだろうか?

 午後二時を回った頃に江津さんのご両親もやってきた。

 白髪の多い温厚そうなお父さんと、江津さん似のお母さん。何度か家に伺っているのに初対面なので慌ててご挨拶。ご両親も私のことは江津さんづてで色々と聞いたらしい。おふたりとも気の知れた感じで最初から朗らかに接してくれた。

 というか夕食時には専ら私の話で盛り上がるらしい。江津さんが。

 火を吹きそうなほどに紅潮した江津さんが屋台でしゃがみこむ。恥ずかしいのは私も同じだ。背後から栗須さんが「新婚さんか?」とかツッコんできやがったので後ろ足で蹴り飛ばしてやった。エマより空気が読めない人だ。

 客足も落ち着いて、餡の在庫もほぼ底を尽きた閉場間際。


「すみません、まだ注文間に合うでしょうか」


 滑りこみで藻永さんが訪れた。

 スーツの襟には皺が寄っている。広い額にも汗が浮いていた。明らかに仕事を抜け出して飛んできたという風体だった。


「そんな無理して来なくてもよかったのに。忙しいんでしょ」

「無理はしていませんよ。たい焼きひとつお願いします」


 目を細めてにっこりする藻永さん。栗須さんに背筋を突っつかれた私は作業に取りかかった。

 木べらでタッパーから餡をすくいあげるとぴったり空になる。完売の旨をカフェに伝えて、最後の一枚を丁寧に焼く。

 焼いている間、藻永さんは私の手元を黙って見つめていた。


「はいどうぞ。日曜日なのにお仕事お疲れさま」

「ありがとうございます」


 受け取ったたい焼きの頭をかじり、藻永さんが口元をほころばせる。


「美味しいですね。秋口に食べた物を思うと信じられません」

「でしょう?」


 得意げに胸を張ってみせると彼はいつもの菩薩顔を作った。


「こんなに活き活きとしている桃さんを見るのは初めてですよ」


 唐突な指摘にどきっとする。

 反射的にたじろいでしまうと藻永さんはさらに笑みを深めた。


「桃さん。たい焼き作りは好きですか?」

「え? はい、とても」

「そうですか。頑張ってください、応援しています」


 言い残すと、藻永さんは長居することなく教室から出ていった。


「あの、柊さん。今の方は?」

「そっか、江津さんは初対面か。後見人の藻永さん。一言で言えば保護者だよ」


 出会ったのは二年くらい前だが、そこから話すとだいぶ長くなる。

 こちらの内心を汲み取ったのか、江津さんも「そう」とだけ呟いて、深く突っこもうとはしなかった。

 間もなく時計が午後三時を指す。

 気の抜けるジングルの後、校内アナウンスが流れ始めた。


『ただ今をもちまして、第六十六回美傘高校文化祭・美傘祭を閉幕します。来場者の方々は速やかに校外へのご退出をお願いします。本日は大変多くの方々にお越しいただき、誠にありがとうございました……』


「終わったあ――――! うわひゃあ――――!」


 万歳して叫んだのはミウミウ。お昼を除いて朝から五時間ノンストップで働き詰めだったのだ。リードを放した子犬のようにテーブルの隙間を駆け回っている。元気だなあ……と眺めているとつま先がこちらの屋台に向いた。


「ねえねえモモモモこの人が前言ってたお師匠さん!? カッコいい! アツい! 欲しい!」


 二秒で詰め寄り、私と屋台の袖にいる栗須さんを見比べる。


「あげないよ。でも仕事中に訊かなかったプロ意識は良いと思う。せっかくだし平常時も接客モードでお願いできないかい?」

「できないだってあたしプロだから! 切り替え上手なんですよこれでも! あのう初めましてあたし赤羽根美羽って言います! 今度あたしにも製餡とか教えてください! これ余ったパウンドケーキです、お近づきの印によかったら! 余ったけど美味しいです! だってあたしプロだから! 欲しい!」

「お、おうよろしゅう。なんや柊さんのノリの原液みたいな子やなあ……あっ美味い」


 ミウミウと比較対象にされて私の心はいたく傷ついた。江津さんがそっと背中に置いてくれた手があまりにも温かい。


「そだそだ、打ち上げしようよ打ち上げ! お店片付けて後夜祭終わったらみんなでどっか行こ! ゴハンゴハン!」


 はしゃぐミウミウの提案に賛成の声をあげる図書委員たち。前々から感じていたけどこの人たち、根本的にノリがいい。やにわに室内がざわつき出す。


「どこにする? 海岸のファミレスかなあ」

「あそこは混むからモールのがいいんじゃね?」

「あっちだって同じじゃん、それならひと駅行ったほうが」

「えーめんどーい」


 ちっともまとまりそうになかった。額を押さえて委員長が言う。


「柊ちゃんはどこがいい? ファミレスかカラオケが有力っぽいけど」

「へっ? 私ですか?」

「MVPの意見を聞こうかなって」

「MVPって……間借りした場所でたい焼き焼かせてもらってただけです。本の売上には貢献してませんよ?」

「ううん、カフェ利用じゃないたい焼きだけのお客さんがまた良かったのよ。焼き時間を待っている間に棚とラックの古本を見てくれた」

「でも、たい焼きだけのお客さんってそんなに多くいませんでしたよね」

「プラスアルファとしては十二分。たい焼きの味も評判になってカフェへの呼び水になってたしね。結果として売上も伸びている。これがなんと歴代最高額」


 歴代最高。仰々しい四文字を耳にして衝撃が走る。

 軽くのけぞっている私をよそに委員長は機嫌良く続ける。


「だから柊ちゃんの意見はできるだけ尊重したいと思うの。なんならもうちょっとグレードの高いお店を選んじゃってもいいし」

「えっと、でも私は、その……」

「柊さん」


 困ったように振れていた右手を江津さんに優しく握られる。無意識に一歩下がっていた自分にそのとき初めて気が付いた。

 首だけで江津さんに振り向く。

 無理しなくてもいい――彼女は真摯なまなざしでそう語っていた。


「あっそれとも柊ちゃんこれから何か予定ある? なら誘ってゴメン!」


 江津さんの左手を握り返す。かすかだけど言尾が震えた。

 両手を合わせて謝る委員長に、私ははっきりと答える。


「いえ、行きます」


 好きは軽くていい。そんな栗須さんの言葉が耳に甦る。

 江津さんに少し似たあの大人買いの少女の顔も思い出す。作務衣のポケットの上から連絡先のメモにそっと触れてみる。

 今日たい焼きをふるまったお客さんたちの笑顔が、笑い声が、次々に脳裏に呼び起こされる。

 たまらなく全身がうずうずする。


「やった! で、柊ちゃんはどのあたりのお店をご所望なのかな?」


 ふと教室全体を見渡した。

 図書委員の子たちの期待の目が私の一身に集まっている。

 腰を据えて話したこともない、顔と名前しか知らない人たち。けれど親しげに微笑んでいる。なんで、と問いかけたくなるほどに。

 重くなりそうな口をこじ開ける。船にでも乗っているかのように足元が揺れている気がするけれど、ただの錯覚だ。何も不安定ではない。

 ぎゅっと足を踏みしめる。


「私は――」


 ――大切なものを増やすのは怖い。

 エマにシャロンにミウミウ、江津さん。この腕に持てる分だけでいい。

 いや、本当はそれだって怖い。

 今はまだ。けれど、それでも。


「海岸通りのファミレスがいいです。席も広いし、窓際だと夜でも海が見えてきれいなんですよ」


 心の怯えを振り飛ばすように、にっこり笑ってみんなに伝えた。

 家族に私にも、誰かの笑顔を生むことができるなら。

 誰かの幸せになれるなら。

 もう一回手を伸ばしてみたいって、そんなふうに思ったんだ――。


「よし、じゃあお店は海岸のトコで決まり! 他にはなんかある?」

「あ、そうだ。よかったら栗須さんも来ます? って私が訊いていいのかな」

「OBさんなら歓迎ですよー。柊ちゃんの救世主だったしね」


 尋ねると栗須さんはふるふると左右に手を振って苦笑いする。


「あーパスパス。ジブンらも年上同伴じゃ気兼ねなく楽しめんやろ。バイクやから酒も入れられへんし。シラフでJK囲うんはきついわ」

「なるほど、たしかにそこだけ夜の歌舞伎町みたいな画ヅラになりそあたっ! あたっ!」

「……おばーレム……くふっ……!」


 べしべしデコピンを食らう私。影でひとりツボっている江津さんのほうが罪状重いと思う。

 自分の焼き型を入れたザックを栗須さんが勢い良く背負い直す。


「それじゃアタシもとっとと引き揚げますか。打ち上げ楽しんでってな、あー、その……」


 彼女は何やら続きを口にするのをためらっている様子だった。

 ひりひりするおでこをさすりながら言葉の続きを待っていると、彼女は決然と眉を上げて、


「――桃!」


 私の下の名前を口にした。


(――――)


 心臓の中心を貫かれる。

 息が止まり、感覚が遠くなる。


(――えっ? 今名前で呼ばれた? なんで?)


 言葉の矢に穿たれた孔から遅れて熱いものが噴き出してくる。胸から四肢、毛細血管の隅々にまで熱が広がっていく。産毛が逆立つような感触に小さく身震いしてしまう。

 ぽりぽりと後頭部を掻いて、栗須さんは気まずそうに呟く。


「これから一緒に店やるなら呼び捨てのが気楽でええねんけど……ダメかな?」


 照れたような、申し訳なさそうな顔がやけにくっきりと目に映る。

 先の一発で私の心のメーターは振り切れてしまっていた。どうやらしばらく戻りそうにない。

 胸が変に脈打って吐きそうだ。

 どうしよう。どう答えればいい。

 思索を巡らせても脳みそは忙しなく空転するばかり。完全にオーバーヒートしている。いきなり距離を詰めてくるからだ。フランクな栗須さんと違って私はそういうの慣れていないんだ。

 空っぽの頭の中で、ただひとつだけ反響している声がある。

 出すべき声。出したいと願う声。

 溺れた思考は必死にそんな、らしくもない言動にすがりついて。

 考えもなしにそれを絞り出す。


「た、――滝野!」


 現実の音声を伴って世界に放られたその一言は、いやにわざとらしく耳に響いた。


「あ?」


 ぽかんとする栗須さんはまさに豆鉄砲を食らった鳩のよう。

 その白い喉がゆっくり上下して、ぽとぽとと言葉を紡ぐ。


「そう返ってくるとは思わんかったわ」

「えっ?……あ?」


 舌の上で栗須さんの反応をしばし転がした後、嚥下する。

 胃に落ちてすぐ理解に至った。


については特に話してなかったあ――!?)


 勘違いした。いや、勘違いするだろこれ。だいたい初対面のときタメ口でいいとか言ってたじゃないか。そこから地続きの会話じゃないのか。ややこしい。わかりにくい。栗須さんが悪い。栗須さんが悪い!

 ぼおっと顔面が燃えあげる。取り消したい。取り消したくはないかも?

 一度口にした台詞は決して喉元に引っこめられやしない。


「ふっ……!」


 堪えきれなくなったかのように栗須さんが腰を折って笑い出す。ひどくおかしそうで、けれど不思議とかけらもバカにする感じはない。そんな快い声色だった。


「タメ口でええ言うたもんな! いや、振り返ってみればもうわりかしタメ口利いとるよな! あっははは!」

「わっ笑うなもう!」

「スマンスマン! やーでもよかったわ。うん、よかった」


 目尻を指で拭い、栗須さんは改めて背筋を伸ばした。

 こぼれた髪を耳にかけて、くるりと私に背を向けて歩き出す。


「準備ができたら連絡するわ。冬の予定は空けといてな。ほなさいなら~」


 彼女は後ろ手でぱたぱたと片手を振って教室を出ていった。

 嵐が去った後のように徐々に心臓の鼓動も収まっていく。

 平静を取り戻した視界には素知らぬ素振りで片付けを続ける委員たちの姿が映った。外面上はスルーしてくれている。さりげない気遣いが沁みるけど、後ほどファミレスで突っつかれる前触れのような印象も受ける。お楽しみは取っておくか、みたいな。

 私も屋台の片付けに取りかかる。タッパーやボウルを重ねてため息をつく。

『栗須さん』から『滝野』へと呼称を切り替えるはめになってしまった。滝野も名字みたいな響きだしそのうち慣れていくだろうか。


「あの……」


 しゃがんでコンロをいじっている私に遠慮がちな声が降りかかる。

 目だけを上げるとカウンターの向かいに江津さんが立っていた。組んだ指を落ち着きなく動かし、うつむいてもじもじしている。


「うん? どしたの江津さん」

「わ、私も……ううん。なんでもない」

「もしかして江津さんも一緒にたい焼き屋やりたい? 大歓迎だよ」

「いえ、そうじゃないの! 私にはコハナの仕事があるし! そうじゃなくて、その……」

「そっか、残念。ところでカフェのほうは人手足りてそう? 手が空いてるならこっちの片付け手伝ってよ」

「あ、うん」

「ありがとう、ゆかりちゃん」


 試しにカマをかけてみると今度は彼女の顔が大炎上した。


「ごめんやっぱり恥ずかしいからやめてぇ――!!」

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