忘れてなんかないじゃない

 古本カフェ兼たい焼き屋の客足はことのほか快調だった。半分以上埋まった座席では買った本を手に客が談笑し、壁際の棚や回転ラックの書籍も着実に減ってきている。毎年恒例の展示となっているのも納得のにぎわいだった。


「桃~来たよ~」

「げっエマ……とシャロンちゃん! うわあ嬉しいなあ、今日はピアノお休み? あ、エマは帰っていいよ」

「つれね~。小豆餡ふたつお願いします~」


 エマと軽口を叩きあいながら、会釈するシャロンに笑顔を向ける。横目でホットショーケースをチェック。焼き置きのストックは切らしている。現在オーダーはカフェに出す物が三枚、エマ姉妹で二枚。焼成中のたい焼きはぴったり五枚。いずれもじきに焼きあがる。

 見込み焼きがきれいに噛みあった。自然と口の端が上がる。


「焼きたてをお出しいたしますので、二分ほどお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」


 長年鍛えあげた江津さんの営業スマイルが眩しかった。金の鎧でもまとったみたいだ。ひーんとか泣く人とは到底思えない。


「よろしいですよ~。しっかし江津さんもすっかり桃色の日々だね~」

「ど、どういう意味かしら石動さん」

「どうもこうもないよ~。桃の生活が爛れまくってるって話だよ~」

「こらエマ、少しは慎みなさい。江津さんはピュアなんだから。変な話に巻きこまないの」

「……」

「え? なんで私が江津さんに睨まれるの?」


 刺すような視線を感じつつ焼き型からたい焼きを取り出す。待機していたカフェ側のホールスタッフに三枚手渡して、残り二枚は江津さんの手に委ねた。

 エマのようにたい焼きだけ買いに来るお客さんはさほどいない。一方で、カフェの客からの注文は予想を遥かに越えて多い。唯一の温かい商品、それも常にできたてなのが強いのか。一丁焼きの難点である焼き時間も快く待ってくれる。元から時間を潰すつもりで訪れてくれているのがありがたい。

 カフェから聞こえる「美味しい」という声が耳をくすぐってこそばゆい。中には退店時に直接伝えに来てくれるお客さんまでいた。むず痒さをかき消すように私は腰を折ってぺこぺこするのだけど、頬の熱さはなかなか消えない。上履きの中で意味もなく足指を動かしたりしてしまう。

 なんなら一生ここで働いていたい。そんな感情が膨らんでいく。


「う~ん美味い! 五百点!」

「エマみたいな客ばっかりなら逆に気も楽だけど……やっぱ嫌だなそれ」


 その場でぱくついてにこにこ顔のエマを前に肩を落としていると、ひとくち食べたシャロンが上目遣いで私のほうを見上げてきた。海のように碧く澄んだ瞳が陽の光に丸く縁取られる。ぷるっとした彼女の唇から弾んだ声音が溢れ出た。


「あのっ、すごく美味しいです! 本当に……その……えっと……五百点?」

「えっやだ嬉しい。嬉しくて死にそう。シャロンちゃんちょっと抱きついていい?」

「柊さん、カフェから栗餡二枚追加よ」


 異様に冷淡に響く江津さんの伝令に我を取り戻す。急いで焼く準備をしながらシャロンに向かって微笑みかける。彼女も気恥ずかしそうに目を細め、笑った顔を返してくれた。


「ねえねえ桃~、栗須さんは来るのかな~? っていうか呼んだの~?」

「一応声は掛けてみたけどね。行けたら行くって言ってた」

「それ断るときの常套句じゃ~ん」

「だよねえ……」


 焼き型の蓋を閉じて、教室後方の出入り口を一瞥する。

 廊下を行く人通りの中に見知った姿は見つけられなかった。




 栗餡の在庫が尽きたタイミングで教室の時計を見る。時刻は十三時を過ぎていた。


「江津さん、そろそろ休憩入ろう。今保温器に三枚ストックする」

「了解。すみません委員長、十分休憩入りまーす!」

「あいよー! 注文は今ある分までこっちで受けとくから!」


 親指と人差し指で輪を作る委員長に軽く頭を下げる。

 待たせているお客さんもいない。三枚だけたい焼きをストックし、江津さんと共に屋台を出て校舎の外壁側に移動する。カフェからは死角となるスペースの石床に腰を下ろして、デイパックからコンビニ袋を取り出した。


「ふいー疲れた……盛況だあ」


 おでこに浮いた汗を軍手着用の手の甲でぐっと拭う。コンロの熱気で火照った身体に秋の涼風が心地良かった。


「柊さんおじさんみたい」


 サンドイッチの封を開いた江津さんが含み笑いをこぼす。失敬な、と返しかけて、彼女も汗に濡れていることに気付いた。


「はい江津さん、良かったらタオル。使ってないからきれいだよ」

「え? あ、ありがとう……」


 デイパックに詰めておいたフェイスタオルを適当に抜いて差し出す。江津さんがうやうやしく受け取ったのを確認し二枚目を出した。顔と首筋をまんべんなく拭き、ちらりと江津さんに目配せする。彼女はしばし逡巡した後、そっと自分の頬をタオルで撫でた。


「たい焼き焼いてると汗かくからさ。持ってきといて良かったよ」

「うん……」


 純白のタオルに顔を埋めて眉をハの字にしている江津さん。耳が赤い。やっぱり暑いのかなと心配しつつ軍手を脱ぎ取る。朝巻き直したばかりのテーピングが汗を吸って少しよれていた。

 カフェは一定の客入りをキープしている。少なすぎず多すぎない。このペースでいけば閉場の十五時までに餡もなくなるだろう。ちゃっちゃとお昼を済ませて現場に戻るべくコンビニ袋を開き、ペットボトルのお茶の栓を左手でひねろうとして取り落した。


「あれ?」


 石床の上を転がるペットボトルを他人事みたいに眺め見る。


「柊さん!」


 引きつった声をあげる江津さんをよそに、目は自然と左手へ。

 マナーモードで着信した携帯みたいに手先が震えている。右手の様子もまったく同じ。床に手をついて押さえつけても小刻みな振動は止まらなかった。

 じわりと、先ほどまでとは異なる嫌な汗がしみ出してくる。


「柊さん、手、手が」

「平気平気、ちょっと気が抜けただけ。でも型を返すのは途中から江津さんに任せちゃうかもしれない。それより早くご飯食べちゃおう、江津さんは塩昆布って好き? サンドイッチには合わないか」


 泣きそうな顔をしている江津さんの前でおにぎりの封を切る。気を抜いたらまた落としそうなので全神経を指先に集中。手のひらの付け根あたりから肘関節までの意識は遮断した。

 へらへらしながらツナマヨおにぎりを口に含むとこれがまた美味い。ここ数年のコンビニグルメの進歩について熱く語り倒していると、江津さんも苦虫を噛み潰すように食事を摂ってくれた。食後すぐに委員長から呼ばれる。


「柊ちゃん江津ちゃん、そろそろ十分経つけどどうするー?」

「戻りまーす!」


 尻に付いた埃を手で払って、両手に軍手をはめ直す。

 カウンターに戻ると保温器内の焼き置きはなくなっていた。並びもカフェからの注文もない。見込みで焼くか迷っていると、教室入り口に客が入ってきた。


「……あれ?」


 すぐ隣に立っている江津さんの面立ちをつい二度見する。

 入店したそのお客さんは、江津さんによく似た女の子だった。


「えっあの人親戚? 似てない?」

「違うわよ。それにそんなに似てないでしょ」

「そう……かなあ」


 入り口近くで店の内装を見回す少女に目を凝らす。ふいに彼女がこちらを向いた。ばっちり目線がぶつかってしまう。

 少女は迷いのない足取りでまっすぐこの屋台に歩いてくる。カフェ利用ではなく、たい焼きだけテイクアウトのお客さんらしい。


「たい焼き一枚お願いします」

「大変申し訳ありません、現在六~七分ほどお待たせしてしまうのですが、よろしいでしょうか?」

「大丈夫です。お願いします」


 江津さんよりも少し甲高い、透き通った声で答える少女。

 彼女の容姿は遠目だと江津さんと似通った印象だったけど、近くで見るとたしかに違った。同じボブでも襟足が跳ねていてアッシュ系の軽い黒髪。目元には幼さが残っており、何より泣きぼくろが見当たらない。


(うーん、どこかで見た覚えがあるような、ないような)


 謎の既視感に襲われながらも焼き型に生地と餡を入れていく。

 たい焼きを焼く一連の作業を少女はしげしげと見つめていた。カウンターに隣接した焼き場はお客さんからも丸見えである。見慣れない人からすれば一丁焼きは物珍しい調理だろう。以前の私もくりすやでお爺さんの焼く姿に釘付けだった。

 頃合いを見計らって慎重に焼き型の反転を試みる。

 持ち手を握りしめると手首の芯に裂くような電流が走った。奥歯で痛みを噛み潰す。


「いよいしょ――え、あ」


 私の両手に、軍手をはめた別の手がそっとふたつ添えられた。


「この一枚が焼けたら先輩にレジに入ってもらうから。返しはもう私に任せて」


 持ち手を軸にぱたんと裏返る焼き型を見て江津さんが言う。ほぼ力を入れずとも引っくり返った。手足から緊張が抜ける。


「ありがとう、江津さん」


 ほどなくその一枚が焼きあがる。

 たい焼きを手際良く包み紙に入れて江津さんが笑みを作った。


「大変お待たせいたしました。熱いのでお気をつけてお召し上がりください」


 手渡されたたい焼きを少女は五秒ほど無言で見下ろしていた。

 まさか変な物でも混入したか。

 焦りを覚えた直後に少女がぱくっとたい焼きをひとくち含む。

 ぴくりと彼女の眉尻が上がる。




「くりすや」




 その単語を耳にした瞬間、世界から音という音が消えた。

 カフェの喧騒も、コンロの熱気も、手首の痛みさえも忘れ果てた。

 ぎこちなく首を隣に向ける。

 江津さんは口を半開きにして呆然と固まっていた。両の瞳はまばたきの仕方を忘れたように大きく見張られて、左右の腕はだらんと下りている。身じろぎひとつすらも起こらない。

 私たちの反応を見て少女は確信を得たようだった。

 まくし立てるみたいに喋り出す。


「やっぱり……皮はだいぶ違うけど餡が似ています。形だってそう。違うけどおんなじ。あたしが大好きだった、あのくりすやと同じ」


 舌がもつれたのか語尾が揺れる。少女はたい焼きを持った手で祈るように襟元を押さえつけた。泣きそうなほどに眉を寄せて、焼き手である私の目を凝視する。

 絡まっていた記憶の糸がその一言でようやくぴんと張った。


(この子――私が初めてくりすや行った日、たい焼き大人買いしてたあの子!)


 一学期の終業式の昼過ぎ、うちの制服に似たブラウスに身を包んでいた少女が重なる。モール一階でつい不躾な視線を送ってしまったあの子だ。江津さんと印象が混ざっていたせいでしばらく気付けなかった。


「あの、どうしてあなたたちがくりすやの金型を持っているんですか?」


 少女はどこか思いつめたような口ぶりで尋ねかけてくる。

 いつか私に同じ問いかけをした江津さんは硬直している。

 私は間を置かず返答した。あのときよりずっとスムーズだった。


「好きだから」


 少女の目が強く見開かれた。

 続く言葉も淀みなく出てくる。まるで今を待っていたかのように。私たち以外の誰かにその存在を知らしめようとするように。


「くりすやのたい焼きが好きだから。譲ってもらって、焼こうとしてます」


 端的な、煮詰められた言葉だった。余分な事情が出なかった。

 説明としてはまるで足りていない。

 気持ちだけしか話していない。

 それでも少女は幾度も小さく頷いて、頷いて、再び面を上げたときは晴れやかな微笑みを私たちに見せてくれた。


「わかりました。あの、またどこかでたい焼き売りますか?」

「はい」


 またぞろ何も考えず反射で答えてしまう。どうしよう。

 少女は片手を空けてポケットから携帯とメモ帳を取り出した。カウンターの上に置き、表示した連絡先をメモに書き写す。


「もしご面倒でなければ、またお店出したときに教えてください。絶対行きます」


 ちぎったメモ用紙をよこして彼女はぺこりとその場で一礼した。残りのたい焼きを慈しむように食み、食べ終わるとまた一礼。軽快な歩調で部屋を出ていく。


「……はは」


 少女の背中を見送ってから、ついへたりこみそうになってしまった。

 いるところにはいるのだ。こんな不完全な出来のたい焼きからルーツを辿れるほど熱烈なファンが。


「江津さん?」


 隣で動く気配に目をやる。

 江津さんは持ち場から離れてふらふらと屋台の中を歩いていった。

 心ここにあらずといった面持ちでベランダの死角に座りこむ。校舎の外壁に背中を預けて、膝を抱えてうずくまる。


「忘れてなんか、ないじゃない」


 かすれた声で江津さんがこぼす。目に透明な滴が溢れた。


「だったらなんでみんなもっと買わなかったのよ。通わなかったのよ。いつ行ってもガラガラだったじゃない。みんなバカよ。それに私もバカ」


 鈍感な私はそこでようやく、彼女の気丈なふるまいがただの強がりだったのだと理解した。


「好きならいくらでも、二十枚でも三十枚でも買えばよかった。毎日でも買いに行けばよかった。私の『好き』だって他の人と同じ。全然足りなかった。軽かった」

「……江津さん、あの子は――」


 まさにそういうお客さんだった。

 何枚ものたい焼きを入れた紙袋を彼女は持っていたのだ。

 そう伝えようとしたとき、カウンターから聞き慣れた声がした。


「せやな」


 ばっと振り向くと、目と鼻の先を赤いひとつ結びが通り過ぎる。


「……屋台の中は関係者以外立ち入り禁止ですよ」

「関係者やで」


 ミントの風が胸を吹き抜ける。

 気まぐれな猫のように、栗須さんがするっと屋台に入ってきた。背には私のデイパックより一回り大きいザックを担いでいる。


「通わないのは店に対して薄情って考え方もある。けど、アタシはそうは思わんよ」


 江津さんの正面にしゃがみこんで、彼女の肩に手を置いて語る。


「店に行くかどうかってのは美味いとか好みとかの問題や。けど、通う通わんはそうやない。そいつにとって今、その店が必要かそうでないか、が大事やねん。必要あれば通う。なければ通わん。行ったきりの観光地と同じや」


 ちらりと私を見やって続ける。


「好きが高じて必要になる奴もおる。でもそんなんレアケースや。特別くりすやのたい焼きが必要な奴なんてあんまおらんよ。だってただのおやつやもん。別に他の甘いもんでも事足りる。そんなん当たり前や。当たり前の話やねん」

「……」

「けどな、必要とされてないから好かれてもないとか、んなことあらへん」


 江津さんが膝から顔を上げた。濡れた目で栗須さんと向かいあう。


「『好き』はもっと軽くて楽な気持ちや。客が背負う、店が背負わせる、そういう息苦しいもんやない。それでええ。それだからええんや」


 諭すようなその言葉に、江津さんの眉根が切なそうに歪んだ。

 私は自分の片腕を抱いた。

 気持ちが胸奥で渦を巻いているのに言葉になって出てこない。それが栗須さんへの賛同なのか反論なのかもわからないまま、一旦すべてを棚に上げて足下のデイパックを拾いあげる。


「江津さん」


 さっき貸したタオルを再度渡す。

 江津さんは朝露のように泣き濡れた顔をタオルで覆い隠し、しばらくそのままじっとしていた。やがてタオルから顔を離し、上体をしならせて立ち上がる。


「ありがとう。もう大丈夫」


 いつもの江津さんがそこにいた。ぐっしょりと濡れたタオルを受け取る。

 彼女は凛とした澄まし顔で屋台のカウンターに戻っていく。私も慌てて後ろに続いた。幸いにも持ち場を離れている間に注文は来ていなかった。


「閉場まであと二時間もないわ。もうひと踏ん張り、やっていきましょう」


 江津さんが言い終わると同時にカフェに団体客が入ってきた。テーブルが二卓ぴったり埋まって、先輩からオーダーが告げられる。


「たい焼き八枚入りまーす!」

「はちま……ええっ」


 今日最多の注文にうろたえる。

 コンロの上の焼き型は五本。どうやっても一気には捌けない。

 とにかく先に五枚焼きあげよう。焼き型に油を塗るべくオイルポットに挿した刷毛に手を伸ばすと、その拍子に腕がじんと痺れた。


「っ――ち」


 舌打ちと共ににじむ脂汗。どうやら一度集中が途切れて痛みを意識し出すとダメらしい。

 右手首がオシャカなら左手だけで、と身体の向きを変えたとき、栗須さんに肩を叩かれた。


「嫌です」

「まだ何も言ってへんやろ。ええからちょっとの間だけ外野に行きい」


 強引に焼き場に割りこんでくる。栗須さんと入れ替わりに私はベランダの死角に追放された。おまけにぽいっと何かを投げつけられる。結構な勢いで。


「あたっ! な、何す……あ、これ……」


 私の胸でバウンドして床に落ちたそれは、湿布の箱だった。


「最強のリリーフ参上やで。後でまた交代したるさかい、しばらくはおねーさんに任せとき」

「……勝ち星は私につくよ」

「なんや柊さん野球ネタ通じるやん。星なんぞくれてやるわ。黙ってよう見とき」


 背に手を回して器用にザックの上ファスナーを開く栗須さん。

 背負った刀を抜く武士のように、二本、三本とそれを取り出す。

 彼女の隣で江津さんが息を呑んだ。


「あ――」

「江津さんは見るの初めてやったな。アタシが一丁焼き焼くの」


 黒光りする五尾の鯛をコンロに足して栗須さんはにやりと笑む。

 かつてくりすやにあった十本の焼き型が、再び並び揃った。


「ちょ、ちょっとすみません!」


 こちらの様子を見ていた委員長が慌てたふうに駆け寄ってくる。


「あの、柊ちゃんのお知り合いですか? 申し訳ないんですけどさすがに部外者の方に手伝ってもらうのは……」

「あーそれな。アタシも美傘育ちやねん。このガッコ、規則も昔っから大して変わっとらんのやろ? ゆるっゆるのアレ」

「え? あ、もしかして……」

「アタシもこの高校のOBや。ちょいとくらいお目こぼしくれるやろ」


 言うが早いが軍手をはめて予熱済みの型五枚に油を塗る。


「へっ?」


 私も含めた場の三人が突然の情報に当惑する。栗須さんは作業の手を止めない。一度肩を後ろに引き、キッと眉を吊り上げてお玉を手に取った。

 尋常ではない、稲妻じみた速度で彼女の手が虚空を切る。

 お玉と木べらを瞬時に持ち替え、生地、餡、生地と型に流しこむ。正確無比で盛りにブレがない。型一枚に十秒かからない。


「うわ、すご」


 圧倒される私たちを代表して委員長がそれだけこぼす。

 栗須さんの指が尾を引くたびにたい焼きの原石が織り成される。まるで魔法使いのようだった。呼吸も忘れて見入ってしまう。

 五枚目の型の蓋をぱたんと閉じ、彼女は委員長に向き直った。


「ほい五枚。お客さんには七分ちょいかかるって伝えてな。残りの三枚は遅れるけど色付けるから堪忍ってことで」

「あー、ええっと、うーんと……了解です!」


 委員長は考えるのを止めたらしい。ぱたぱたとホールに帰ってお客さんにあれこれ説明している。その間にもカフェには新しい来客がどんどん入ってくる。


「センセーには見つかりとうないし、せいぜい二~三十分が目途やろな。江津さん、お客さんの対応は任せたで。柊さんは再登板までしっかり手首冷やしとき」

「はっはい!」

「……ねえ、栗須さん」

「なんや」


 焼き型を返しながらこちらを向くことなく栗須さんは応じる。

 私は言いそびれていた言葉の数々をその背中にぶつける。面と向かっては気恥ずかしいけど、今ならなんでも言える気がした。


「一週間前、一丁焼きがいいってワガママ言ってごめん。結局こうして直接手伝ってもらっちゃった。情けないよね」

「弟子の尻拭いが師匠の仕事よ。なんでも応援する言うたしな」

「私の勝手な都合で休日ちょくちょく振り回したのもごめん」

「アタシは柊さんのプーさんやからな。呼ばれたら傍におるで」

「お店をやろうって誘い、断ったのに文化祭なんて出てごめん」

「おれが心と秋の空ってやつやな。……なあ柊さん、気い変わったか?」


 問う栗須さんは振り返らない。

 何を訊いているかは自明だった。のろのろと首を縦に振る。

 振ってから、口にしないと何も伝わらないことに気が付いた。

 張りつきかけた唇を開く。喉に熱の塊がこみあげる。


「やりたい。私、栗須さんと一緒にたい焼き屋をやってみたい」

「そか」


 それ以上栗須さんは何も言わなかった。ガチャガチャと焼き型を動かす音だけが鮮明に聞こえる。広い背中の上で、赤いひとつ結びが尻尾みたく揺れていた。

 私は地べたに座りこんで、左右の手の指をぎゅっと握りこむ。

 さっきの栗須さんの焼く姿が網膜に焼きついて離れない。

 いつの日か私も、あんなふうに。

 たくましくて、しなやかで、軽やかな。

 きっとどのような苦難に直面しても揺らがない、たしかなひとに。




 嵐のように時間が過ぎていく。

 あっという間の、楽しい時間だ。

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