開店準備と休業期間

 抜けるように青い空をバックに木々の梢が風にそよいでいる。

 文化祭二日目の朝、校舎は活気と喧噪に包まれていた。のぼりや看板があちこちに立ち、廊下を行き交う生徒の姿も非日常の装いを帯びている。当の私も作務衣姿だった。江津さんチョイス。たぶんただの趣味。なお図書委員は普通のTシャツ。


「うわ見て、並んでるよ江津さん。あの人たちもここに来るのかな」

「ぜひいらっしゃっていただきたいわね。美味しさのあまり震えあがる彼らの姿が目に浮かぶようだわ」

「……悪の女幹部?」

「柊さんが言いそうな台詞の真似」

「うわっ……私のイメージ、悪すぎ……?」


 県立美傘高校の文化祭は二日間かけて催される。初日は学内のみの公開だけど二日目には一般公開され、保護者や卒業生、また近隣の住民もそれなりに来る。

 一階の教室の窓から校門前の光景を覗き見る。休日に繁華街で見かけるような長蛇の列ではないけれども、老若男女問わずたくさんのお客さんが開門を待っていた。去年はまったく覚えなかったプレッシャーに生唾を飲み下す。

 うちのクラスの展示(脱出ゲーム)のシフトは初日に詰めこんだ。おかげで本日は閉場までひたすらたい焼きを作る予定だ。

 私が焼いて、江津さんがお金と商品の受け渡しを行う。

 手首がキツくなったら彼女にも型を返すのを手伝ってもらう。その場合レジは図書委員の先輩にヘルプを頼む予定である。


「しっかし、改めて見てもマジかってなる見た目だよね、このお店」

「マジよ」


 ううむと腕組みし、ベランダの戸口を遮る長机――たい焼き屋のカウンターをじっと見る。


「要は教室に外付けで増設したようなものでしょ、この屋台」


 これから私が働く屋台は、ガラス戸を外した教室のベランダのまん前にドンと建っていた。

 屋外の敷地内通路にずらりと並んだ模擬店のうち、ただひとつ通路に背を向け、凹みみたく校舎側に引っこんだ屋台。古本カフェを展示しているこの教室へと暖簾を向けた屋台。それが私のひのき舞台となる一丁焼きの店舗だった。


 ――屋内での裸火はだかびの使用は禁止。(美傘高校文化祭「出展の手引き」より)


 これには私が愛用しているバーベキューコンロも該当する。電熱式プレートによるたい焼きならば室内でも焼いていいが、直火を使う一丁焼きは屋外で焼くというのがルールだった。三日前の設営時に江津さんの口から語られた事実だ。

 常識的な観点を失念していた私はショックを受けた。けど、江津さんはそのあたりの規約も織り込んで計画を練っていた。

 まず彼女はカフェの出店場所に一階空き教室をもぎ取った。

 そしてベランダと敷地内通路を結ぶように屋台も設営した。距離が短く、間に花壇やフェンスがないのが幸運だった。

 調理は屋外、提供は屋内というミラクルを実現せしめる、その名もたい焼き屋台併設古本カフェテリア・美傘文庫。もう何がなんだか。彼女の大胆きわまる発想と行動力の賜物である。


「めちゃくちゃやるよね……」

「めちゃくちゃやったわよ。許可を得るまでにふた悶着もあったんだから」

「ふたつで済んだんだね……」


 江津さんを相手取った先生方の苦労を思い嘆息する。なんでこの人は抜け目ない割に力技で解決しがちなのか。

 とはいえ焼く張本人たる私が文句を言う筋合いはない。むしろ感謝しなければならない。彼女の尽力によって用意された舞台。期待に応えなければ。

 戸口とカウンターの隙間を通って屋台の内側に回りこむ。

 焼き場に立つと、ちょうどベランダから室内を見渡す形となった。

 部屋にはテーブルと回転式のラックが整然と配置されている。壁際の棚にはハードカバーや大型本が陳列されていた。教壇のあったスペースがお茶とお菓子を用意するバックヤード。手作りの焼き菓子を盛った大皿が並んだ長机を仕切りに、奥で図書委員の面々があくせくと準備に勤しんでいる。


「すみません! 機材のチェックしたいので試しに一枚焼いていいですか?」

「はいよー! 頑張れ柊ちゃんー!」


 長机で作業中の委員長から気前良く声が返ってくる。

 材料を置いた机とコンロはカウンター横に設置済みである。脇には江津さんから借り受けた小型のホットショーケースもあった。コンビニでホットスナックを保温しているあの銀色の機器である。江楽堂がコハナに吸収される前使っていた備品らしい。

 コンロに火を入れ、予熱をしているとミウミウが部屋に入ってきた。


「お待たせみんなー! 主役は遅れて登場だよー!」


 おせーよ。はよ着替えろ。油売ってんな。口閉じろ。働け。くたばれ。遅刻してきたミウミウを委員総出で口々に出迎える。一堂揃っての塩対応。ミウミウがこちらに逃げてくる。


「モモモモー、みんながあたしをいじめるよう」

「日頃の行いが悪いんだよ」

「それはそうとユカリン! 約束のブツ、ちゃんと作ってきましたよお!」


 けろっとした顔で彼女は手提げバッグからタッパーを取り出した。でかい。分厚い百科事典ほどのサイズの大型容器だった。


「急なお願いだったのに聞いてくれてありがとう、赤羽根さん。洋菓子の仕込みもあるのに大変だったわよね」

「お安い御用よ! あたしもたい焼きサイドで一役買いたかったしね!」


 親指を立ててミウミウはバックヤードのほうへとかっ飛んでいった。受け取った江津さんがカウンター越しに私にパスしてくる。

 私はタッパーを開いてぎっしりと詰まった中身を確認した。


「江津屋、お主もワルよのう」

「いえいえ、柊さんほどでは……って何言わせるのよ」


 山吹色に艶めくペーストはミウミウ謹製の栗餡である。


「せっかくだしこれで試し焼きしてみようか。ミウミウもいるー?」

「いるー! みんなもいるー?」

「いるー!」


 大量のフィナンシェを袋詰めしている委員たちが声を揃える。

 唇の端から苦笑が漏れた。熱する焼き型を五本に増やす。

 あんこ以外の味も売り出そうと提案したのは江津さんだった。在庫を抱えるリスクはあっても、複数メニューを用意したほうが最終的にはより多くの集客と売上を見込めるらしい。江楽堂とコハナで働いて得た経験則なのかもしれない。

 けど、くりすやの味と名前を売り出すという趣旨からは外れている。


(サブメニュー的な扱いなのかな? 一丁焼きの練習にはなるし私はあっても構わないけど……)


 考えつつ左右の手を動かす。間もなくたい焼きが焼きあがった。

 適当に割って全員に配り終えたところで口に含む。

 雷に打たれたような心地だった。


「美っ美味い! ミウミウすげー!」

「美味しい……っ! 赤羽根さん!」


 ミウミウの栗餡は過去に類を見ない極上の逸品だった。

 最上級の安納芋を彷彿とさせるなめらかな舌触り。咀嚼した途端ふっと淡雪のようにとろける柔らかい口溶け。クセもなく上品なのに、骨太で栗の味と風味が活きている。こちらで作ったたい焼きの皮とのマッチングも申し分ない。


「あたし、頑張ったからね!」


 鼻息も荒く、腕をまくり力こぶを作ってみせるミウミウ。未来の天才パティシエという自称は伊達や酔狂ではなかった。

 江津さんの瞳の表面が水滴を垂らしたように揺らめく。

 その指先がかすかに震えた。


「赤羽根さん」

「んー?」

「買い出しのときはごめんなさい。私、変な態度を取ってしまって」

「あたしこそごめん。でもこれでチャラだからね! 今度野菜天丼食べに行こう!」


 うなだれる江津さんにミウミウはにっと歯を見せて笑顔を返した。

 江津さんは面を上げ、ややあってから少年のように破顔する。


「ええ、行きましょう! 柊さんの奢りで!」

「いや奢らないよ?……にしてもこんなに捌けるかなあ。かなり仕込んじゃったけど」


 新たに栗餡のタッパーも積み上げた机の上を眺めやる。

 生地と餡が入った同サイズのタッパーたちは返事をよこさない。皆一様に沈黙を保っている。急激に不安が湧いてきた。

 こちらで用意した小豆餡も合わせると百食分は下らない。手汗を作務衣の裾で拭っていると江津さんが一歩寄ってきた。


「出足は読めないけど大丈夫よ。軽食だからお昼過ぎでも一定のお客さんは入ると思う。二日目は焼きたてのたい焼きも出るって以前から宣伝してるし」


 宣伝。宣伝といえば。


「ところで江津さん」

「どうかしたの? 急にきょろきょろして」


 屋台の外装を見回した後、念のためだけど確認してみる。


「くりすやについて屋台のどこにも書かれてないみたいだけど、いいの?」


 ひょっとして既にチラシとか作って配っていたりするのだろうか。それならそれで一言欲しかった。手伝えなかったのが悔やまれる。

 江津さんは一瞬きょとんとして、それからあっけらかんと答えた。


「ああ、それはもういいの」

「は?」


 頭の中が真っ白になった。

 時刻はもうすぐ十時を回る。開場まであと数分もない。


「いやいや何それ、江津さん言ってたじゃん。くりすやの名前をみんなに忘れないでほしい、知ってほしいって」

「本当にいいのよ。だって私、わかっちゃったから」


 慌てる私とは対照的に、彼女はやけに晴れ晴れとした表情で窓越しの空を仰ぎ見た。


「くりすやが今存在することに、名前なんて関係ないんだって」

「……もしかしてそれ、みんなの心の中に生き続ける~とかそういう?」

「そうじゃなくて!」


 ぬっと江津さんの手が伸びてくる。

 ぎゅっと私の手が掴み取られる。

 カウンターに橋を渡すように、私と彼女の両手がつながった。


「あなたの腕にくりすやは在るの」


 握った手に力が籠められる。きめ細やかな肌からは灯火めいた熱が伝わってくる。

 吸いこまれるように目を合わせた。

 江津さんの目はそれ自体が光彩を放っているように映る。何かの目印みたいにはっきり輝いている。存在を知らせている。


「くりすやは閉店したわけじゃない。今は少し長い休業期間。でもね、いつかそのときが来たら必ずまたシャッターを上げるの。私と同い年の、代替わりした二代目の女の子がね」

「……あはは、改めて聞くと重いなあ……」

「重く聞こえるように言ってるのよ。それに、今のたい焼きでくりすやの味なんて売り文句が使える?」


 ぐっと言葉に詰まる。痛いところを突かれて何も言い返せない。

 たい焼き作りを始めてからひと月半、色々頑張ったけれど結局目標に至れなかった。今の段階でくりすやを称するのは私とて気が引けていた。

 いたけど、改めて指摘されると敗北感が胸に募ってくる。


「さっき震えあがるおいしさって言ってたじゃん……」

「あら、別に嘘はついていないけど?」


 悔し紛れの蒸し返しに江津さんは余裕しゃくしゃくで応じる。


「私、すっごく期待しているんだからね。未来の『店主さん』?」


 彼女は手をつないだまま泣きぼくろのある左目でウインクした。

 私よりずっと器用な、アイドルみたいにチャーミングなその仕草。


「敵わないなあ」


 今度は私が宙を仰いだ。視界の底で江津さんがくすくすと笑っているのが見える。指から伝わる彼女の温度はますます高まっていくばかりで、このまま溶かされるのも悪くないかな、なんてバカなことを考えた。


「あの、おふたりさんちょっといいですか?」


 声の方向に目線を向ける。ミウミウが歩み寄ってきていた。めったにない真剣な面持ちに何かのトラブルかと身構える。

 すうっと息を吸いこんで、ミウミウが思い切ったように切り出した。


「あのねふたりとも、そんな堂々とふたりの世界に入られるとみんな困るっていうか、一応ここだって公衆の面前っていうか……」


 告げられてふと辺りに目を配る。

 図書委員のメンバーはひとり残らず気まずそうに赤面していた。

 つないでいた手を慌てて離す。江津さんが唇を尖らせた。

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