きっと私を救うための星

 ハムチーズの今川焼きをたいらげて、私は再度席を立った。


「さて、それじゃ私の家に行こうか! まだ雨も降ってきてないし、夕方くらいまでなら天気も保つでしょ。文化祭まで日にちも少ないし、練習頑張らなきゃ――」

「その手でか?」


 がしっと右手首を掴まれる。腱のあたりを軽く指圧される。

 瞬間、呼吸が止まるかと思った。


「――――ぁ」


 暗幕でも垂れ下ろしたかのようにふっと視界が真っ暗に染まる。

 頭蓋骨の裏で遠く、何か割れたような音が反響している。

 声にならない。

 張り裂けそうな疼痛がじぃんと身体中を駆け巡る。


「思ったよりキツそうやな」


 栗須さんが握った手を離した。

 はっと我に返る。ここは江津さんの家だ。天気はあいにくの曇天。壁掛け時計の針は午後二時を過ぎたところ。右手首が燃えるように熱い。動悸と息切れがする。江津さんが両手で口元を押さえている。


「アタシ自身がなったことないから可能性ごとすっぽ抜けとった。腱鞘炎や。変なクセがついとったか、短期間で焼きすぎたか。……申し訳ない」


 栗須さんは椅子に座ったまま、額が膝に付きそうなほどに深く頭を下げて謝罪する。はらりとうなじからしなだれ落ちる赤い髪をつい目で追ってしまう。


「柊さんの怪我は今日の今日まで見抜けへんかったアタシのミスや」

「いや、あの、たぶん私が勝手に練習しまくったせいです。栗須さんのせいじゃないです」


 オーバーワークが理由なら思い当たる節はありすぎるほどある。そもそも栗須さんの管理下の時間より自主練のがずっと長い。


「そういう自主的な動きも考慮して見てやるのがコーチの仕事や。やっぱアタシはこういうの向いてへん。トチってばっかや……ちょい待っててな」


 栗須さんはそう言い残すとリビングから廊下に出て行った。

 ついつい江津さんに尋ねてみる。


「トイレかな?」

「そんなわけないでしょ……バイクに医療用品か何かを取りに行ったんじゃないかしら。大きめのリアボックスも積んでいたし」

「あれ、そんなのいつの間に取り付けたんだろう」


 冷めたお茶で口を湿らせていると栗須さんが戻ってくる。

 肩に担がれたその大荷物を見て、私たちはあっけに取られた。


「くりすやはこれで再現できる。柊さんの知らん、江津さんが好いとらんくりすやの味やけどな」

「あの、それって、なんですか?」

「見てわかるやろ」


 荷物に巻かれた無地の風呂敷を片手で器用に剥ぐ栗須さん。テーブルに風呂敷を敷いて、その上に巻かれていた中身を下ろす。

 ボードゲームの盤面のように折り畳まれたそれを左右に開く。


「遺品整理で回収しといてよかったわ。日の目を見るええ機会や」


 卓上に置かれたその鉄板には、いくつもの鯛の形の穴がずらっと横並びに彫られている。

 栗須さんがバイクから持ってきたのは、連式用の鉄板だった。


「……どういう意味ですか」

「ご想像の通りやろ」

「嫌です」


 またもや反射で声が出た。自ずと身体が立ち上がる。

 栗須さんは私を無視して続ける。


「これはこれで割に美味かったんや。商店街には連式のたい焼きしか買わん客もおったくらいにな。移転してメニュー絞ったのも客が減った原因かもしれへんで?」

「嫌です」

「当時の連式のレシピならアタシの頭の中にも一応ある。技術的にも一週間あればひと通りマスターできるやろ。現時点の柊さんの一丁焼きよか、再現度は高いかもな」

「嫌だって言ってるでしょ」

「江津さん! くりすやをぎょうさんの人に知ってもらいたい言うたらしいな」


 唐突に水を向けられて江津さんが石像みたいに固まる。

 年長者の射すくめる視線に、彼女は押し出されるように答えた。


「……はい」

「その目的ならこれでも果たせる。そこの怪我人に鞭打って客にまがいもんの一丁焼きを出すか、連式の味でくりすやの名前を覚えて帰ってもらうか。決めるのは江津さん、ジブンや」

「違う、焼くのは私だ! 江津さんじゃない!」

「怪我人は黙っとれ」


 突き刺すような目、氷点下のまなざしに四肢を縫いつけられる。

 栗須さんが一歩距離を詰めた。私の全身に影が落ちる。上背のある彼女が至近距離から私を見下ろしてくる。つむじから押し潰されるような錯覚。無意識に足を踏ん張った。


「いつまでも頭のイカれた高校球児みたいな文句抜かしとるんやないぞ」


 ドスの効いた声色で威圧してくる。身が縮む思いとはこのことか。端から見たなら肉食獣と小動物の構図に違いない。

 それでも決然と睨み返した。小動物だって必死なのだ。


「くりすやの名前を広めるのはええ。けど文化祭に固執する理由がどこにある? 将来店出すつもりならそのときでもええやろ。店主になる言うたのは嘘か」

「嘘じゃない。でも店を持つまで悠長に待ってなんかいられない。みんなが忘れないうちにくりすやのことを思い出してもらう――それが江津さんとの約束なんだよ。お爺さんみたいに亡くなったり、美傘を離れちゃう人もいるよ。だいたい餡のレシピだって前払いで教えてもらっちゃってるんだ」

「くりすやを思い出させたいんなら連式でも充分事足りる。ジブンがわざわざ一丁焼きを焼く必要性はどこにもあらへん。よしんばアタシが認めたとして、相棒は今どう思うとるかな?」


 栗須さんが顎で江津さんを指す。彼女の顔色は蒼白だった。


「…………私は、」


 江津さんがゆっくり口を開く。

 どう答えるかは明白だ。冗談じゃない。


「江津さんはそれでいいの!? 十円高い一丁焼きのチビなんでしょ!?」


 ぴたりと江津さんが静止した。

 そのためらいだけで満足だった。答えを待たず栗須さんに向き直る。


「私は嫌だ。私にとってのくりすやは一丁焼きの店だ。一丁焼きのくりすやを焼きたいんだ」

「なんでそこまで一丁焼きにこだわるんや。そんなに美味かったんか」

「――おいしかったよ!」


 知らず、声量が大きくなった。

 ぴりぴりと空気が振動する。


(……な、なんだ今の。私の声か)


 自分で自分の声に驚いてしまう。栗須さんも江津さんも、かつてないトーンでわめいた私を前にして息を呑んでいる。駄々をこねる子ども以外の何物でもない、そんな声だった。

 でも、今の叫びは本物だった。真実の私がそこに在った。

 こんなふうに、恥も外聞もなく騒いだのなんていつぶりだろう。


「……私はね、栗須さん」


 耳朶に響いた音の輪郭をなぞるように、静かに言葉を紡ぐ。


「お爺さんのたい焼きを食べるとね、星が光ったんだよ。きらきらって」

「星?」

「私はあれが欲しい。あんなふうに、ずっと変わることのない光が」


 自分の手のひらに目線を落とす。

 私がたい焼きを焼いているのは、どこまでいっても自分のためだ。


「たい焼き作りは楽しいよ。生地作りも餡練りも焼きも、食べるのも、他人に食べてもらうのも。こんなにも楽しいことが世の中にあるって、私、初めて知った。たい焼き屋になりたいって思ったのも嘘じゃない、本当の気持ち。でもね」


 そんな不確かでインスタントな幸せのためだけに焼くわけじゃない。

 他人に適当な幸せを振り撒くのを拠りどころにする生き方など、他のたい焼き屋、飲食店、客商売に任せておけばいい。

 大好きだったお店の二代目になって、毎日たい焼きを焼くとか。

 一生懸命焼いたたい焼きをみんなにおいしく食べてもらうとか。

 その営みそのものが、私にとってどれほど幸福だとしても。


「そういうの、私にとって結局は、ただの過程に過ぎないみたい」


 それは二の次だ。二の次なのだ。

 私が欲しいのは、星の光だ。


「……」

「――」

「ふたりともそんな黙りこくらないでよ。調子狂うなあもう」


 絶句するふたりの面前で私はへらりと相好を崩した。虚勢でも挑発でもない、ひどく素直な感情の発露だった。


「私、またあのたい焼きを食べたい。一日でも早く食べたい」


 ――あの光は何にも侵されない。

 晴れでも雨でも、風邪をひいてても、たぶんUFOにアブダクションされても。

 いついかなるときにおいても、ひとくちかじれば世界が明るくなる。

 他人も、自分の心すらも必要としない、絶対的幸福。

 時を経ても褪せない、揮発しない、宝石のような星の輝き。

 夏が終わり、はるか夢の彼方に隠れてしまったそのきらめきは、今、私の胸のうちにだけある。


「自分の手でいくらでもあのたい焼きを作れるようになりたい。だからそのために場数を踏むんだ。文化祭もそのステップのひとつ」


 あの味が心に焼きついている。

 いつでもはっきりと思い出せる。

 あの夏に浴びた星の光は今もこの胸に宿り続けている。私の手を経て、形を織り成し、また生まれるのをこいねがっている。

 瞬かせてやれるのは私だけだ。

 私が焼かなきゃ誰が焼くんだ。

 この胸の星屑を、他の誰が再び生み落としてやれるんだ。


「私は一丁焼きを焼く。それだけは絶対に譲らない」


 この手から星を生み出せるようになったら、きっと私は救われる。

 もう何にも怯えずに、何も諦めることなく生きられるようになる。


(そんな予感がするんだよ――)


「連式で焼くのなんて、私には型を返す練習にもならない」




 深い深い、魂ごと吐き出すようなため息が耳に届いた。


「ちょい待っとれ」


 眼前で仁王立ちしていた栗須さんがその場で回れ右する。つい先刻のリピート再生みたいに廊下に出て行ってしまう。

 大きな背中を見送って、私はぺたんと椅子に尻餅をついた。


「こ、怖かった……死ぬかと思った……」


 両目をつぶって天井を仰ぐ。アドレナリンが出ていたのか今頃になって冷や汗がにじんできた。栗須さんと言いあうのは二度目だけど以前よりも迫力があった。大柄な美人に関西弁ですごまれるのはもう勘弁願いたい。


「急にわめいたりしてごめんね江津さん。江津さん?」


 返事がない。目蓋を上げてテーブルの向かい側を眺めやる。

 江津さんはぼんやりとしていた。点になった目で私を見ていた。

 何か、遠い昔になくしたものを部屋の片隅で見つけたような。驚きと戸惑いが入り混じった表情で半ば放心していた。

 少し声量を上げて、テーブルに身を乗り出して改めて呼びかける。


「ごめんね江津さん」

「へっ? な、何が?」

「お店を継ぐことについて。なんだかついでみたいな言い方しちゃった。でもこれが私だから」

「え、あ、うん」


 彼女が口をぱくぱくさせている間に栗須さんが戻ってくる。手には先ほどとは違う唐草模様の風呂敷を抱えていた。


「家捜しの次は泥棒ですか?」

「ちゃうわボケ。アタシの根負けでええっちゅーねん、この食いしん坊が」


 どかっと椅子に腰を下ろす栗須さん。風呂敷の結び目を解いて中身の箱をテーブルの端に乗せた。緑の十字が刻印された木造りの救急箱だった。


「柊さん、手え出しい」


 言われるがままに右手を差し出す。栗須さんは箱から幅広の白い布テープを取り出した。見る見るうちに手首から先がテープでぐるぐるに固められていく。

 ずいぶんと手慣れた様子だった。自分は腱鞘炎になったことないのに。


「脅かしてすまんかったな。アタシっちゅー女はこんなんばっかりや」

「気遣ってくれたのはわかりますから」


 栗須さんは両眉を上げた後、力のない微笑みをこぼした。

 しばし弛緩した空気が流れる。屋外からラジオノイズのような静かな雨音が聞こえてきた。私の腕のコンディションを問わず今日の練習は中止のようだ。

 ほどなくテーピングが完了した。指を出す形でテープが巻かれた手を握ったり開いたりしてみる。ブーツでも履いているかのように手首の可動が制限されていた。


「これから一週間は回数よりも質を意識して練習せえ」


 打って変わって厳しい面持ちとなった栗須さんが指示を続ける。


「今日からはリストを使って焼くな。コテは逆手でなく順手で握れ。肘を使え。引っくり返すのは江津さんに手伝ってもらってもええ。腱鞘炎はクセになるから絶対に手首に負担をかけるな。手投げNGのピッチングと違うて一丁焼きは腕でできる」

「前から言おうと思ってたんですけど、野球の例えわかりにくいですよね」

「テーピングは負担を軽減するだけで治してくれるもんやない。ステロイド注射っちゅう手もあるけど事後の個人差がそれなりにある。一週間後じゃ余計に痛くなるタイプもいるっちゅう話やしな。文化祭当日に動かせへんのが一番嫌やろ」


 一も二もなく首肯する。ちなみに注射も大嫌いである。


「今大事なんは極力手首に負担をかけん焼き方の習得。注射は文化祭明けでもええ。最後に、祭りが終わったら二週間はたい焼き焼くの禁止や。わかったな」

「わかりました。栗須さん、色々ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げると彼女ははーっと息を吐いて額を揉む。


「こうなる気いしとったわ。柊さんって死んでも諦めへんやん。最初に会ったときからそうやった。そういう子やから焼きゴテも譲ったんやしな」

「だから栗須さんのじゃないって」

「せやったな。あのエマっちゅー子の柊さん評がようわかってきたわ。江津さん」

「は、はい!」

「後でテーピングの仕方教えるわ。大変や思うけど、文化祭までこのアホの面倒見たってや。柊さんにはブレーキが必要や。ひとりで走らせたらあかん」


 江津さんは唇を真一文字に引き結んで頷いた。

 アホ扱いが納得いかない。

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