好きを奪うかもしれない仕事
材料を揃えた私たちは美傘駅に戻って解散した。一部の委員はこのまま連れ立ってランチ兼カラオケに行くらしい。私と江津さん、ミウミウも誘われたけど揃って辞退した。
「……それじゃ、あたしも帰るね! ユカリン、モモモモ、また明後日!」
「ええ、また月曜日に学校で」
「お昼は塩昆布祭りだよ」
「そ、そんなにたくさんはいらないかなあ?……ユカリン! あたし、文化祭頑張るからね!」
中央通路から乗換口に向かうミウミウにふたりで手を振る。とぼとぼと鈍い足取りで歩く彼女の背中は小さく見えた。
「ミウミウ、ちょっと気にしてたね」
「あの子はなんにも悪くない。悪いのはあんなことで動揺する私の幼さと心の弱さ」
じっと足下を見つめながら江津さんがやぶれかぶれに自嘲する。両の手に提げた買い物袋が行き場をなくしたように揺れていた。
ミウミウは別れる間際まで江津さんの様子を気にかけていた。
江津さんはあれからも表面上は平静を装っていた。しかしミウミウも人の機微に敏い。自分の一言で雰囲気が変わったのをすぐ感じ取ったのだろう。余計なことを言って機嫌を損ねたと考えていたかもしれない。
美傘市住まいではないミウミウはくりすやについて何も知らない。
私が焼き型をもらった件も取り立てて説明していなかった。
その結果地雷を踏んでわけもわからず罪悪感を抱えこんだ。江津さんが悪いと言うのならば私にだって責任はあった。
改札を出て宙を仰ぎ見る。
秋の空は絨毯にも似た分厚い灰の雲に覆われていた。ひんやり湿った空気が肌にまとわりつく。雨の気配が近い。
「おーい、こっちこっちー。待ったでー」
聞き慣れた声に視線を投げる。
広場に続くエスカレーターの前で栗須さんが手を上げていた。
「私が呼んだの。昼食の後は柊さんの家で特訓でしょ? その前に話さなくちゃと思って」
「連絡先交換してたんだ」
私はまだなのに。
とまでは口にしない。むくりと湧いた謎の感情と併せて喉奥に押しこめる。
栗須さんと合流し、入り組んだデッキを三人で進んでいく。向かう先に見えるは白と焦げ茶のビル、ミ・カーサモール入り口である。
「江津さんの店行くんやろ? アタシ食うたことないから楽しみやわ」
「知ってたんですか?」
驚いて問いかける。てっきり私と同じく知らないと思っていた。
「一丁焼きのチビが元『
こきこきと退屈そうに首を鳴らして栗須さんは続ける。
「そのうち話すとは思うとったよ。アタシの口から言うことやない。そもそも騒ぐほどの問題でもない。江津さんは気に病みすぎや」
「そんなこと……」
何か言いかけたけど結局口をつぐんでしまう江津さん。栗須さんがちらりと目をやった。私は先に一歩を踏み出した。
そこからは全員黙ってモールまでの道のりを歩き続けた。
自動ドアをくぐり、足を踏み入れる。空気の肌触りが変わる。
モール一階のグルメストリートの端に『
小洒落たフォントの看板の上で今川焼きのマスコットが跳ねている。くりすや同様イートインはなく、壁伝いに三脚だけ簡素なダイニングチェアが配されていた。カウンターの小窓から商品を受け渡すスタイルの店舗である。
(やっぱやめとかない?)
その言葉を飲みこみ、代わりに冗談を口にする。
「あれ江津さんのお母さん? 若いね」
「どう見ても大学生くらいでしょ……今接客してるのはアルバイトの人よ。お父さんたちは開店どき以外は奥で調理と経理事務」
言いながら江津さんは店に近寄って五個のセットを注文した。手が塞がっている彼女に代わって今川焼きの袋を受け取る。そっと肘を曲げて関節の部分に袋の持ち手を掛け直す。
「栗須さん? どうかしました?」
「いや、なんでも」
袋を掛けた私の腕を栗須さんがまじまじと凝視していた。そんなに見つめられると恥ずかしい。隠すように身体を傾ける。
「降ってきそうだし急ぎましょう。うちと柊さんの家、どっちに行く?」
「近いのはどっちや? 江津さん家なら家の住所教えたってや。駐車場にバイク停めとるさかい、回収して後から追いかける」
「江津さんの家だけど、いいのかな? 急にふたりも押しかけちゃって」
「もちろん。お昼ご飯については大した物は用意できないけど」
「適当にそこらの店に入ってしたいような話でもないんやろ?」
江津さんはこくりと小さく頷く。それで話が決まった。
「うお、おいしいです栗須さん。この、そうめん……になんか混ぜたやつ」
「ええ、本当に。具の香味ネギときゅうりで味に濃淡がついてる。香辛料も効いてるしスイスイいけちゃいますね、この、そうめん……に色々混ぜたやつ」
「やろー? 昔食材切らしたときよう作ってたんよーこの和え麺」
一時間後、私たちは江津さんの家のリビングで麺をすすっていた。
栗須さんによる家捜し(!)で発掘された夏の残りのそうめんは、彼女の手で四川風和え麺(?)へと大いなる進化を遂げた。「食材提供は江津さんやから調理はアタシ」と申し出たのだ。自炊スキルでも彼女に及ばない私は洗い物担当である。
みんなで美味い辛いと騒ぎながら緋色の麺をズビズバすする。副菜として作られた卵とトマトの中華炒めも絶品だった。ここに来た本来の目的を忘れてしまいそうになるけど、別に忘れちゃってもいいのでは、と頭の片隅でひっそり思う。無責任だけど、そう願ってしまうくらいこのひとときは楽しい。
「ごちそうさまでした!」
「ご、ごちそうさまでした」
栗須さんの合掌につられて私と江津さんも手のひらを合わせた。
食器を洗っていると横で栗須さんがお茶を淹れ始めた。見れば江津さんも粛々と買ってきた今川焼きを用意している。
にぎやかだった食事中とは一転、みんな静かに作業を進める。
トースターで今川焼きを温める江津さんの顔を盗み見る。赤いガラス管ヒーターを映す彼女の瞳は凪いでいた。
洗い物の片付けと今川焼きの温め直しが同時に終わって、江津さんとふたりでテーブルに戻る。やや遅れて栗須さんがお茶を持ってきた。
「さて、お待ちかねのおやつタイムといこか」
厚みのある五個の今川焼きが大皿に円状に並べられる。
私と栗須さんの向かいに座る江津さんの目に影が差した。私が何か言う前に、彼女は吐息のように言葉を吐き出す。
「ふたりから見て手前三つがあんこ。私の側にある残り二個はカスタードとハムチーズよ」
「ならまずみんなであんこいっとこか。そのほうが江津さんもすっきりするやろ」
めいめい手を伸ばして、香ばしく焼かれた今川焼きを口に含む。
「ん……」
蜂蜜の香りが鼻を抜けた。
表層はカリッとした歯応えで内側の生地はふんわり柔らか。きめ細かいスポンジを噛むと花開くように甘味が溢れ出す。餡にも塩気はほとんど感じられない。すごく優しい口当たりだ。
くりすやとも私が焼くたい焼きともまったく異なる味だった。
印象としては栗須さんと出会った日に作ったたい焼きに近い。端的に言えば洋風の、まろやかでミルキーなコクの深さがある。やや形を変えて餡を詰めたベルギーワッフルのようですらあった。
「うん、おいしい」
思いのほか素直な感想が喉からこぼれて自分でも驚く。
店に抱くわだかまりを忘れる、心安らぐ今川焼きだった。
「味を盗んだりはしていないから」
「へっ?」
ぼそっと呟く江津さんにすっとんきょうな声で返してしまう。間を置いて、餡の味に関しての言及なのだと思い至った。呆れたような栗須さんの視線がちくちくと刺さって少し痛い。
「うちはモールに移転したときにコハナの
「ミ・カーサのコハナは美味いほうなんか?」
「はい。粉もののノウハウは他の店舗よりも積んでいるつもりです」
きっぱり断言する江津さん。目には強い光が宿っていた。両親の営む店に対するたしかな誇りが伝わってくる。
「江津さんはあのモールのコハナビーンズを……その、どう思ってるの?」
「好きよ。私は今の江楽堂――コハナも、それにくりすやも、大好き」
言いきった直後のほんの一瞬、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。
目線をテーブルに落として、江津さんは切れ切れに話を続ける。
「製餡の日に話すつもりだったの」
卓上で重ねられた彼女の白い手指に力が籠る。
リビングの明度が落ちた気がした。窓外の空に敷きつめられた雲がさらに厚みを増しているのか。
「あの日、無理に付き合わせた柊さんが『頑張ろう』って言ってくれて。柊さんと仲良くなれて。私、本当に嬉しくて。そうしたら急に怖くなったの。打ち明けたら嫌われるんじゃないかって、怖くて言えなくなった」
「なんで私が江津さんを嫌うのさ?」
「コハナはくりすやの仇じゃない。あなたが好きだった、あのお店の」
針のように鋭い声音だった。
吐き捨てられた彼女の一言に、私の心臓がどくんと鳴った。
寒気に似た緊張が背を走る。横隔膜のあたりが引きつった。まるで引き出しの奥深くにしまった日記帳を覗かれたような。
止まってしまった私の代わりに栗須さんが会話を引き継いだ。
「言っとくけどくりすやには経営難とか訪れとらんかったよ。ちゅーか、元々ジジイにとってたい焼き屋は老後の道楽やった。ふたりとも軍人恩給って知っとる?」
耳慣れない単語だった。江津さんとふたりで首を左右に振る。
「若い時分ジジイは陸軍軍人、つまりは兵隊さんやったんよ。それもフィリピンやらグアムやらヤバい地域で戦っとったらしい。そういう元軍人にはお国から恩給っちゅう補償が出る。勤め人時代の貯蓄もあったし、美傘でくりすや始めた頃から経済的には不自由なかった。単価の高い大納言なんて豆使うとるのもその表れや」
栗須さんの説明が終わっても江津さんの面持ちは晴れない。
私も言葉を探したけれども、浮かぶのは自分でも薄っぺらく聞こえる綺麗事ばかりだった。江津さんの肩の荷の一片さえも下ろしてあげられる気がしない。
「……でも、くりすやのお客が減ったのは私の家のせいかもしれない」
考えているうちに江津さんが閉ざしていた口を再び開く。
「全然人が来なくなって、店主さんは胸を痛めたかもしれない。夏の終わりに店を閉めたのも、もしかしたらすぐ亡くなられたのだって――」
「そ、それは飛躍だよ江津さん! 栗須さんもそう思うでしょう!?」
フォローを求めて栗須さんを見る。彼女は難しい顔つきのまま江津さんに言葉を返す。
「ジジイの寿命にコハナの営業が関係あるかなんてわからへんよ。けどあの回転焼きは美味かった。立地だけやなく実が伴っとる。移転と業態変更で食い合いになったのは不幸やけども、それかて時代の流れや。誰が悪いっちゅう話でも」
「わからないじゃないっ!!」
引き絞るような叫び声が栗須さんの話を遮った。
薄暗いリビングが、しん、と夜のような静寂に包まれる。
「『こっちでいいか』って声がしたの」
テーブルに点々と水滴が落ちた。
江津さんは泣いていた。
「エレベーターに乗ろうとしてたのに、うちの店を見てこっちに来たの」
わななく彼女の唇から嗚咽混じりの声が漏れ聞こえてくる。
「きっとあの人たちは本来ならくりすやに行くお客さんだった。ひょっとしたら商店街時代の常連さんだったかもわからない。私がくりすやへの『好き』を奪った。私の仕事が『好き』を奪ったの」
自分に言い聞かせるみたいに、呪いみたいに江津さんは繰り返す。
「あれから私、レジに立ててない。もう、仕込みを手伝うのもつらい」
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